町工場の娘 単行本  – 2014/11/14

 

えっ、私が社長!?ジリ貧会社を再生した勇気と知恵と笑顔の物語。

 

町工場を営む家の次女として生まれ、32歳の時に突然、主婦から先代の後を継ぐことになった女性経営者の奮闘記。

 

 幼少期に亡くなった兄の「生まれ変わり」として育てられた。「ひょっとして私が会社を継ぐのかな…」という“予感"はあったが、大学卒業後は父の会社(ダイヤ精機)の取引先でもあった自動車部品メーカーに就職。その後、父に請われ、ダイヤ精機に入ったが、経営方針の違いから、2度のリストラ宣告を受ける。しかし、32歳の時に父が急逝し、突然社長を継ぐことに。バブル崩壊の余波もあって赤字経営が続く中、再建の舵取りをいきなり任され、以後、様々な壁にぶつかりながら、「町工場の星」と言われるまでに社業を復活させた。
 生産管理へのIT導入、「交換日記」による若手社員との対話など、「情と論理」のバランスの取れた、女性ならではの経営手法が注目され、ダイヤ精機には今や全国から見学者から訪れる。その2代目社長が初めて筆を取り、父や兄への思いを綴りながら、社長になってから10年の軌跡を克明に振り返る。

 

ザ・町工場 単行本 – 2016/3/18

 

「町工場の星」と呼ばれ、メディアでも注目を集める女性社長の奮戦記第2弾。

 


詳しくは 本買って読んでくれですが
気になった所を。。。。まとめました σ(^^)痛いほど分かる

他にももっと苦労してる人々がいる
 涙なしでは読めない ノンフィクション
半沢直樹より面白い

まあぁ例によってまとまってない けど



背中を押してくれた弁護士

 

 遺産相続の手続きで、父の代からお世話になっていた石井法律事務所の弁護士・佐藤りえ子さんを訪ねる機会があった。

「社長になるのが怖い」と告げる私に、佐藤さんはこう尋ねた。
「失敗した時に取られて困るような財産はあるの?」
「アルバイトで貯めた50万円ぐらい」
「それなら恐いものなんてないじゃない。うまくいけばそれでいいし、失敗しても命まで取られることはないから、やるだけやったら?ダメだったら自己破産すればいいのよ」
「そうか・・・・・」


単純な私はシンプルで力強い言葉に勇気づけられた。
その後、ダイヤ精機の社員一人ひとりと話す場を持った。
誰に聞いても「問題ないです」「大丈夫です」中には
「ダイヤ精機がなくなるとしたら悔しい。会社はぜひ残して欲しい」
「大田区でものづくりをしていることに誇りを感じています」
存続を望む社員がいる。そして、私の社長就任を望む社員がいる
「この会社の行方に決着をつけよう。それが兄の代わりとして生まれた私の宿命だ。うまくいけばラッキー。ダメだったら関係者全員に土下座すると思えばできる」


2004年5月32歳27人いた社員のうち、私より年下は3人しかいない。

 


    生き残りのための「3年の改革」

 

社員や取引先に後押しされ、私は2004年5月にダイヤ精機の2代目社長に就任した。
だが、その矢先、出鼻をくじかれる"事件"が起きた。


社長就任を決め、姉とともに取引銀行に挨拶に行った時のことだ。
「私がダイヤ精機の社長になります。今後ともよろしくお願いいたします」
そう告げた瞬間、支店長の態度が変わった。
「社長? 大丈夫なのか?  あのな、お前、本気で頑張らなきゃダメだぞ」
「お前……?」
その言葉を聞いて一気に頭に血が上った。
「ちょっと待って。なんでわざわざ挨拶に来たのに『お前』呼ばわりされなくちゃいけないんですか。

失礼でしょう。冗談じゃない。ああ、もうやめた、やめた!  社長なんてやめた!」
席を立とうとした私を姉が慌てて止めた。
「まあ、まあ待って。ちょっと落ち若いて。支店長さんは悪意があって言っているわけじゃないんだから。『これから大変だけど頑張れ』と励ましてくださっているのよ」
私はそっぽを向いて黙ったままだった。
私たちはその日、銀行に父の社葬の手伝いを依頼するつもりだった。
父はダイヤ精機社長というだけでなく、東京商工会議所の太田支部会長も務めていたから、葬儀には大勢の参列者が来ることが予想された。ダイヤ精機の社内に社葬を取り仕切るノウハウはなく、人員も不足している。唯一 頼れるのが取引銀行だった。
険悪なムートが漂う中で、姉はその場を必死て取りなし、憤然とする私の横で支店長に社葬の手伝いを依頼していた。何とか引き受けてもらうと、早々にその場を立ち云った。
その後、銀行に出向く機会はなく、支店長とも顔を会わせることのないまま、社葬当日を迎えた。
京浜急行平和島駅近くの斎場に行くと、既に銀行のスタッフが受付に就いて弔問客を出迎えてくれていた。先日、ケンカした支店長が受付の真ん中に立って部下に指示を出しているのが見えた。
 気まずい思いで一瞬足が止まった。だが、支店長は私に気付くとさっと駆け寄ってきて深々と頭を下げた。
 「社長、このたびは大変ご愁傷様でした。本日はできる限りのことをさせていただきます。どうぞお任せください」
 完璧な挨拶。「負けた」と感じ、悔しかった。

「今日はお手数をおかけして本当に申し訳ありません。どうぞよろしくお願います」
 精一杯、そう返した。
父の突然の死から1カ月余り。「悲しい」と感じることすらできない怒濤の日々を過ごしていた私だが、その日、父の好きな青色の花で埋め尽くされた祭壇の遺影を見て初めて「父が亡くなってしまった」ことを実感し、涙がこぼれた。

 

 

「半年で結果出す」と啖呵

 

社葬の目の和解で銀行とのギクシャクした関係は解消したかに思えたが、そう簡単にはいかなかった。
 数日後、会社に再び支店長と担当者がやって米た。
 何の用事だろうと訝りながら社長室に通すと、2人はすぐに話を切り出した。私が社長に就任したばかりのダイヤ精機に、いきなり合併話を持ちかけてきたのだ。
 相手は東京都内でダイヤ精機と同じように精密加工を手がけているメーカー。売り上げ規模や従業員数もほぼ同じだ。
 「ここと一緒になれば、売り上げは2倍になり、事務部門の縮小でコストが削減できます。メリットは大きいですよ」
 担当者はそう説明した。
 だが、日産自動車など大手企業を取引先に抱えるダイヤ精機と比べ、先方の会社の取引先は中小規模の企業が中心。あまり魅力は感じられなかった。
 そんな中で、支店長がとどめの一言を発した。

「社長には、お辞めいただきます。合併後の新会社社長には、先方の社長に就いてもらいます」
 また一気に頭に血がのぼった。
 「どういうことですか?」
 銀行は、ついこの前まで主婦だった私に社長の仕事を担う力量はないと判断していた。そして、その私がトップに立ったダイヤ精機は、もはや単独では生き残れないと見限った。
 表面上は対等合併であっても、実熊は相手企業によるダイヤ精機の吸収合併のようだった。国内随一の超精密加工技術を持つ職人だけを取り込み、それ以外の人員は大幅にリストラされてしまうだろう。
 私に辞めろと言うのは構わない。だが、社員が不幸な境遇にさらされるのは絶対に御免だ。
 「冗談じやありません」
 銀行の提案を一蹴した。
 「ダイヤ精機にとって、この合併は全くメリットがない。お断りします」
だが、なおも支店長と担当者は「経営悪化が止まらないダイヤ精機はもはや単独では事業を継続できない」「合併しか生き残る道はない」と説得してきた。押し問答が続いた。
 「わかった。とにかく半年待って。それまでに結果を出すから。良い結果が出なかっ
たらあなたたちの好きなようにしていい。ただし、結果が出たら単独でやらせていただきます」
 最後はそう啖呵を切って2人を追い返した。
 バブル崩壊後、ダイヤ精機は景気低迷の影響を受け、売上高はピークの半分以下の約3價円まで落ち込んでいた。にもかかわらず、社員数は27人とバブル期とほぼ同じ。
経営難は深刻だった。
そうした中で、創業者の後を継だのは主婦だった娘。周囲は「あの会社はもうダメだ」「このままいけば倒産する」と噂した。銀行としても手をこまねいているわけにはいかなかったのだろう。
 身売りを提案され、ダイヤ精機に対する評価の厳しさ、私自身の社会的信用の低さを痛感した。
「一刻も早く業績を立て直さなくては・・・・・・」
残された時間は少なかった。

 

 

 

業績は低迷していたものの、金属の精密加工技術に関して、ダイヤ精機は国内でも有数の存在だった。
「マスターゲージ」には、1ミクロンでも寸法が違えば不良品になるほどの超精密加工が求められる。テーパ加工の場合は更に難易度が上がる。手の体温だけでも寸法精度が違う。職人たちはごくわずかな違いを五感で感じ取りながら磨きあげている。
日本国内を見渡しても、これほどの加工が出来る企業はほとんどない。
ダイヤ精機が日本を代表する大手企業を主な取引先に抱えているのは、この高い技術力が買われたからにほかならない。


就任直後の“神風”でV字回復

 

社長に就任したのが2004年5月、断腸の思いで5人をリストラしたのが6月
リストラを断行し、出血を止めた直後7月から、自動車メーカーがグローバル展開を強化し、ゲージや治工具の需要が急増。
社長就任から1年経った2005年7月期3億7千万円、前年比14.2%増息を吹き返した、ボーナスを出すことができた。
「社長の私はお金の分配する役割を果たすだけの立場。製品をつくって、売って、稼ぎ出すのはあなたたち。頑張ってつくり、売った分はきちんと分配するよ」

 

**30人で3億で計算すると1人1千万・・・かなり少ないと思います
**良い時は6億と文面から読めます、これくらい無いと設備も出来ない
**NC研磨機もこの時初めて買ったとか、いったい?どうやって?作ってたの?

**NCより職人の手のが上ってこと?


1年目は教育に力を入れ意識改革
2年目にチャレンジし設備の更新
3年目は「維持・継続・発展」作業標準化、総仕上げ
 

ダイヤ精機を長く残し、技術力を維持していくには、会社が抱えている様々な問題を根本から解決することが不可欠だ。
「3年の改革」と題して、いろいろな改革に取り組んでいきます。私にあなたたちの底力を見せてください!

 

社長就任直後にリストラを断行した時には反発が大きくなった。
その後の研修、改善運動など抵抗があり文句が出た。
幹部社員から、「てめい、何考えてるだ」と罵られ、ケンカになったこともたびたびある。
彼らも苦しみ、葛藤した日々だったと思う。ありがたのは、他の社員の前では社長を立ててくれたことだ。

 

心が折れそうだった私を救ったのは、たまたま読んだシェークスピアの言葉だ。
「世の中には幸も不幸もない。考え方次第だ」
専業主婦では到底味わえないような貴重な経験をたくさん積んでいる。
1人も辞めることなく、一緒に頑張っていこうとしてる社員に囲まれている。
社内の経営基盤を固めることに必死だったこともあるが、若い女性である私が表に出て、会社に悪いイメージがつくことを避けたいという気持ちがあった。
何かの拍子に社員に謝ったことがある。
「社長が女でごめんね。頼りないよね」
すると、その社員は笑って言った。
「いや、社長はたまたま女だっただけですよね。社長は社長。男より男ぽいじゃないですか」
その一言に救われた。

   
       
小さな要望にもすぐに応える

 

地位が高くなるほど謙虚であるべきだと本で読んだことがある。それを実践してきたつもりだ。
私が社長としていられるのは社員たちのおかげにほかならない。組織を統制するリーダーとしての役割や責任があるから、言うべきこと、やるべきことは全うさせてもらう。けれど、彼らに対する感謝の気持ちは常に持ち続けていたし、その気持ちはいつも素直に表現していた。
そして、どんな些細なことでも、ベテラン社員の要望や意見を取り入れると決めていた。

 


無料グループウエア「aipo」で現場の状況を把握
生産管理システムの再構築
顧客が求める「対応力」  

 

SWOT分析、強みStrengths、弱みWeaknesses、機会Opportunities、脅威Threats、分析した結果強みは技術力にあり、最大限生かすような戦略を構築した。取引先の監査役の方に見ていただく機会があり、内心褒めてもらえると自信があったが、彼は「これは社長の目線で、お客様目線で分析してない」
「顧客第一主義」と口では言い、常にそれを意識して行動しているつもりだったが、肝心な時に自分の立場でしか物事を見ていなかった。
翌日、取引先のメーカーに行き、担当者に尋ねた。
「どうして、うちの会社に注文をだしてくれるのですか?」
「うちの会社の強みって何でしょ?」
唐突な問いかけに担当者は「そんなことを聞いてきた経営者は初めてですよ」と大笑い
「品質が高く、コストが適正というのは、もう当たり前の時代です。では、どうしてうちの会社がダイヤ精機に注文をだしているか。対応力ですよ。急な依頼にも応じてくれる。欲しいと思った時に持ってきてくれる。足繁く通って課題を一緒に解決しようとしてくれる。だから、頼んでいるのです。」
私にはとても意外な言葉だった。「えっ、そこなの?」
では、どうすれば対応力を高められるか?複数の機械を使い、複数の工程をたどってつくり上げる製品が多い。製品によって形も生産工程も異なる。究極の多品種少量生産を行っている。
月に図面だけでも7,000枚、出荷製品数は1万点。
対応力を高めるにはこの多品種少量生産を徹底管理することだと考えた。生産の進捗を管理し、リードタイムを短縮し、決められた納期を守り、急な注文や設計依頼にも応えられる体制を整えるのである。
選んだパッケージソフトはテクノア社「TECHS-BK」バーコードで読み取り出来製品ごとに「材料取り」「形状加工」「穴開け」といった工程について、「未着手」「着手」「中断」「完了」などの作業状況をリアルタイムで確認出来る。
システム導入の効果は、2007、7、7 新潟中越地震でピストンリングのメーカー被災での対応に大きな効果を発揮

 
2004年5月(平成16年) 社長就任 3億
2005年7月期  3億7千
2007年 人材の確保・育成
2008年7月期  3億4千
2008年9月(平成20年)リーマンショック
 2009.1 急激に仕事量が減る
2009年7月期  1億7千
 2010.1から月次黒字転換
2010年7月期  1億9600


2009年10月には後3ヶ月赤字が続くと、資金が底をつく
再びリストラするとすれば、誰に辞めてもらうべきか。
ベテラン社員をリストラすれば技術が途絶える。採用したばかりの若手社員をリストラすれば未来が潰れる。どちらも選べなかった。
その時、私が出した結論は「全員リストラ」だった。
最も受注額の大きい取引先に事情を説明しに行った。
「リーマンショック後の需要激減で事業継続が困難になってしまいました。3ヶ月後に社員全員のリストラを考えています。ご迷惑をおかけすると思います。申し訳ございません」
すると、先方は意外な提案をしてきた。
「実は今、うちの工場では人が足りないのです。ダイヤ精機から応援の人材を出してもらえませんか?」
9人を選び11月から取引先の横浜工場で清掃、検査、型の保全などの仕事を受け持った。

応援部隊の中に、おちこばれ寸前の若手社員が著しい成長するという副次効果もあった。


2012年になって、取引先が工場内に金型製作の作業所を開設する事になり、コンペを実施し、数社の中からダイヤ精機が勝ち取り2012年2月横浜作業所を立ち上げた。

 

リーマンショック後、苦境に陥ったダイヤ精機。
9人応援部隊として送り込み、大きく赤字を減らすことはできたが、このまま売り上げが回復しなければ、預貯金は底をつく。
そんな時、再び“神風”が吹いた。
ゲージの注文が次々に舞い込んだのである。
リーマンショック後1$=104円が3ヶ月ご90円を割り込む価格競争力を失った日本企業は海外市場で苦戦し、輸出企業は海外生産に舵を切った。

 


「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」受賞スピーチの壇上から


父の急逝から8年。幹部社員はスブの素人から経営者に転じた私を支えながら、社員を守り、技術を磨き、会社を切り盛りしてくれた。
人には言えないつらいことも沢山あったに違いない。
厳しいリストラを経験し、リーマンショック後の経営危機を乗り越え、人も会社も成長した。幹部が涙を流しているのを見て、私もこみ上げてくるものを抑えることができなかった。思わず声が詰まった。
会場でももらい泣きしてる来場者の姿が見えた。
「お父さん、ダイヤ精機を残してくれてありがとう」
こう言うのが精一杯だった。
会場の拍手が温かく、心にしみた。

 

ものづくりの町・大田区で生まれ育った私の頭に焼き付いた原風景がある。
近隣に立ち並ぶプレス工場や板金工場。どこからともなく聞こえてくる機械音。
漂う油の匂い・・・・・
ものづくりの現場で働く職人たちはみな夢を持ち、希望にあふれていた。
若い人材を一流の職人に育て、ものづくりを復権させ、大田区を、
そして日本をもう一度輝かせたい。
それが私の夢だ。

 

 


2008年 「IT経営実践企業」の認定取得
    経済産業省が主催する「中小企業IT経営力大賞」に応募
2010年12月 大田区優工場に選ばれる
    勇気ある経営大賞 優秀賞
    東京都中小企業ものづくり人材育成大賞 奨励賞
2012年12月 「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」

 

小さな勇気が人生を変える

 

2009年7月のこと。
 当時の麻生太郎首相が大田区を訪ね、中小企業経営者との意見交換会を開いた。大田区長、東京商工会議所大田支部会長、大田工業連合会会長のほか、区内の経営者数人が集まったこの会に、なぜか私も呼んでもらった。
 時の総理大臣に会うチャンスなんてめったにない。私はこの機会にぜひ、首相に訴えたいことがあった。
 2008年12月に運用が始まった「雇用調整助成金(中小企業緊急雇用安定肋成金)」のことだ。
 この助成金はリーマンショツク後の厳しい経済情勢の中、労働者の失業を防ぐために国が企業に対して実施した支援措置の1つ。従業員の休業、教育訓練、出向を行う企業に対し、手当や賃金の一部を助成するものだ。
 ところが、対象企業の要件は「売上高または生産量の直近3ヵ月問の月平均値がその直前3ヵ月または前年同期に比べ5%以上減少している」ことなどとされていた。
 2008年に制度ができた時には、この要件で問題なかった。だが、2009年の段階で「前年同期」を基準としてしまうと、リーマンショック後の需要激減期よりもさらに売上高や生産量が5%以上減っていないと、助成金が受け取れないことになる。
 基準を見直さなくては、中小企業の努力は報われない。私はせっかくの機会を生かし、首相に要件変更を直訴しようと待ち構えていた。
 だが、区長、商工会支部会長らが顔を揃えた意見交換会は厳粛なムード。とても若輩者の私が発言できるような雰囲気ではない。
 「言いたい」と思いつつ、30分ほどの会議の間、ついに口を開くことができなかった。
麻生首相が退室しようとドアの方に向かっていく。

 

 「このまま何も言わずに帰ったら絶対後侮する」
 そう思った私は勇気を振り絞って立ち上がった。
 「麻生首相、直訴させてください!」

 

叫んだ瞬間、自分が取った行動に自分で驚いた。
 もっと驚いたのは麻生首相のSPだ。何事かと慌てて私の方に駆け寄り、後ろから腕をつかんで制止した。
 部屋を退出しかかっていた麻生首相は、呼びかけに気付いて足を止め、私の方に近付いてきてくれた。
 SPに腕を押さえられながら、私は伝えたいと思っていたことを口にした。
 「雇用調整肋成金のことでお願いしたいことがあります。対象企業の要件ですが……売上高や生産量の減少の基準年が前年同期で……そのままでは対象にならない企業が多いのです」
 しどろもどろになりながら必死で説明した。
 首相に随行していた経済産業省の官僚が私の訴えの意図をくみ取り、「彼女が言っているのはこういうことです」と〃通訳〃してくれた。
 すぐに内容を理解してくれた麻生首相は「よし、わかった、わかった。それは必ず俺が見直しをさせるから。約束するよ」と言って帰って行った。


 翌8月に行われた衆議院議員選挙で自民党は大敗を喫し、9月に麻生政権は退陣した。だが、私の訴えは引き継がれた。
 その年の12月、雇用調整肋成金の要件が綴和された。「売上高または生産量の最近3ヵ月間の月平均値が前々年同期に比べ10%以上減少し、直近の訣算等の経常損益が赤宇である中小企業」も利用できるようになったのである。
 経産省の担当者からは「諏訪さんの直訴が通りました」と連絡があった。「勇気を出して言って良かった」と心から思った。


 私の人生はこれを機に大きく変わった。
 「首相にも臆さずものを言う女性」
 霞が関ではそんな評判が広まったらしい。2011年、経済産業省から声がかかり、産業構造審議会の委員になった。産業構造の改善、産業政策のあり方など重要事項を調査・審議する会の一員になったことは、2012年ウーマン・オブ・ザ・イヤー」受賞のきっかけにもなった。
 2013年からは政府税制調査会の特別委員も務めている。国の重要経済政策に関わる立場に立つとは、少し前の私では考えられなかったこと。これは麻生首相への直訴という「小さな勇気と行勣」があったからこそだ。