2013年02月09日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第16回】
恥ずかしさと惨めさでいたたまれず、授業から逃げ出した

会社訪問のたびに「ここで俺は嫌われないか」と考える

大学生活も終盤を迎えようとしている4年生の春、僕は深刻な悩みに直面していた。 

大学を卒業した後の進路、つまり就職先がまったく決まっていなかったのだ。同級生たちはそれぞれ就職活動を頑張っていて、「○○社の内定を取った!」という声も、ちらほらと聞こえてくるようになっていた。 

僕も大学のOBたちを訪問して、いろいろな会社の話を聞いてみた。メーカーや金融機関を回ったり、「俺には合わないだろうな」と思いながら商社を訪ねたりもした。しかし、入りたいと思う会社は一つもなかった。 

当時はまだ、自分が発達障害を抱えているということは知らなかったが、「人間関係の構築が大の苦手」「場の空気が読めない」「人の気持ちを忖度(そんたく)して発言することができない」「その結果、人を不快にさせたり、怒らせたりしがちで、コミュニティや組織の中で嫌われ者になりやすい」といった特性を持っていることははっきり自覚していた。 

だから、いろいろな会社を訪問しても、反射的に「ここは、俺のような人間があまり嫌われずに過ごせる会社なのだろうか」「つらい人間関係作りをどこまでやらねばならない職場なのだろうか」などと考えてしまうのだった。 

しかし、そんなことが、一度や二度の会社訪問でわかるはずがない。就職関連本や雑誌の類にも、当然ながらそういう情報は載っていない。 

OBの先輩に「ここは社員同士が面倒な人間関係を持たなければいけない会社なんですか?」と尋ねるわけにもいかない(本当は尋ねたくて仕方がなかったが)。仮にそんな質問をしたら、おそらく変わり者扱いされ、むしろ就職に不利になるだろう。それくらいのことは、前からの「学習」のおかげで、当時の僕でも予想できた。 

大学では相変わらず、仲間たちと「数」に興じ、「数学」の問題を解いて楽しむサークル「Numbers研究会」に入り浸っていた。実家とこのサークルだけが、僕にとって、無上の幸福感に包まれ、素顔の自分を隠さずに生きられるところだった。メンバーには、おそらく僕と同じように発達障害を抱えた者が多く、皆、配慮や自制をあまりせず、思ったことを率直に口にして、笑い合って過ごしていた。 

Numbers研究会のような会社に入れたらどんなにいいだろう---と僕は何度も思ったが、もちろん、それは叶わぬ夢だった。営利企業で、こんな奇妙なサークルのような組織が存在するはずはない。しかし、理屈ではわかっていたものの、内心ひそかに、どこかにこんなユートピアのような会社があって、僕を受け入れてくれないものだろうか・・・などと、夢のようなことを考えていた。

この社会に僕の"居場所"はあるのだろうか

とにかく大学を卒業すれば、どんなところに就職しようが、否応なくNumbers研究会を去らなければならない。絶対に動かせない既定事項だが、これを考えるのは、僕にとって、身を切られるようにつらく悲しいことだった。 

しかし、時間の流れを止めることは誰にもできない。僕にとって最高の"居場所"を去るときが、あと1年も経たないうちに必ず訪れるのだ。 

ゴールデンウィークの直前のある日、サークルの部屋に顔を出すと、同学年の仲間たちは就職活動で忙しいのか誰もおらず、集まっているのはすべて後輩の学生たち十数人だった。皆、楽しそうにボードを囲み、わいわい言いながら数学のパズルに取り組んでいる。 

そんな様子をぼんやりと見ていると、3年生のEという後輩が「奥村さん、就職活動、どうっすか?」と声をかけてきた。僕が「何社も回ってるんだけど、あんまり入りたい感じじゃないんだよな。まあ、贅沢は言ってられないけどさ」と答えると、Eはこう応じた。 

 「俺も1年後には奥村さんみたいに、きっと会社訪問とかしてるんでしょうね。でも、俺たちみたいなのが働ける会社って、あるのかなぁ?」

どういうこと?」  「ん?

 「だって、俺たちみたいな連中って、どこの企業に行っても、組織の中でうまくやっていけなさそうじゃないですか」

 「・・・」

Eが言う「俺たちみたいな連中」というのが、「人間関係の構築が苦手」「人の気持ちを考えず無遠慮に物を言うため嫌われやすい」といった特徴を持つ、サークルの多くの仲間たちを指しているのは瞬時にわかった。僕は思わず絶句してしまった。なぜなら、心の奥でずっと、僕はEと同じことを考えていたからである。 

そして、ひそかに同じ思いを持ちながらも、僕は無意識の中でそれをねじ伏せ、それ以上考えることを避けていた。というのは、「俺たちみたいな人間は組織の中でうまくやっていけないのかもしれない」と一瞬でも思ったが最後、それはすぐに「俺のような人間は社会で働いて食っていけないのかもしれない」「俺にはこの社会に"居場所"がないのかもしれない」という予感を呼び起こすからである。それは本当に、身も震えるほど恐ろしいことだった。

目の前では、僕が一人でショックを受けていることなど知る由もなく、後輩たちが数や数学と楽しそうに戯れている。彼らもやがて社会に出るに当たって、僕と同じ悩みや恐怖を感じることのなるのだろうか・・・。そんなことを考えていると、後輩たちが何ともいじらしく、切なく思えてきて、涙が出そうになった。 

ふと我に返ると、Eも無言のまま、どこか悲しそうな顔でこちらを見ていた。ひょっとして、僕と同じことを考えていたのかもしれなかった。 

僕はさらに胸が一杯になり、涙ぐんでいるのに気づかれぬよう、慌てて軽く会釈をすると、黙って部屋を出た。考えてみると、Numbers研究会の部屋を出て帰宅するとき、こんなに沈んだ気持ちになったのは、入会して以来、初めてのことかもしれない。 

人間関係が苦手な者にとって、研究者は理想の仕事?

実は、僕はその半年前まで、自分が大学卒業後の進路に悩むことになろうとは想像すらしていなかった。 

ずっと、「大学を卒業したら大学院に進み、大学の教員になって、ひっそりと研究生活を送ろう」と考えていたのだ。と言っても、具体的なプランなどはなく、頭の中で漠然と、そうしようと思い込んでいただけなのだが。 

 「研究者になろう」と決めていた最大の理由は、Numbers研究会の先輩たちや顧問教授の話を聞いて、大学の研究室には僕と同じようなタイプの人間が多くいることを知ったからだった。他人の気持ちや場の空気などを気にせず、偏愛する物事の研究に、深く専門的に没入する人たちが集まる場所---。

そういうところであれば、Numbers研究会での自分と同じように、周囲の人たちとの関係に煩わされることなく、「素」のまま、好きなことをやっていける。それを一生続けることができ、しかも、決して高額ではなくても、毎月の給料までもらえるのならば文句はない。それが僕の率直な気持ちだった。 

研究の対象としては、経済学か数学を考えていた。理由は、言うまでもないが、どちらも僕が愛してやまない「数字」をふんだんに使うからである。 

ちなみに、「数字が好きです」と言うと、「理科系なんですね」と返してくる人が多いが、それは間違いだ。僕は昔も今も、物理や化学や生物といった「理科」にはまったく興味がない(それらの科目では、記憶でカバーできる部分以外、あまり成績も良くなかった)。

好きなのは、あくまでも数字だけである。そういう人間は、とても理科系とは呼べないだろう。 

実は、Numbers研究会の先輩たちにも同じタイプが多かった。物理や化学を専攻する人はなぜかごく少数で、数学、経済学、哲学、心理学、文化人類学などを学ぶ人が多数派だったし、僕とも気が合った。 

そういった先輩たちの中には、大学を出て大学院に進む人たちが結構いた。たまに訪ねると、研究室の片隅で一人静かに沈思黙考している人や、あちこちに付箋を貼りながら専門書のページをめくっている人、他の若い研究者と海外の最新理論について論じ合っている人など、皆、苦労しながらも充実した研究生活を送っているようだった。何だか楽しそうだな、と僕は感じた。 

そんな彼らの姿を見ているうちに、次第に「大学の研究室こそが、俺のような人間にとっては理想的な職場ではないか」と思えてきた。大学3年の夏休み頃、その気持ちは信念に変わった。 

ただし、客観的な立場から見て、自分が正しい職業選択をしようとしているのかどうか、まったく自信がなかった。そこで恐る恐る、僕の性格を誰よりも知り尽くしている母に「大学院に行って、数学か経済学の研究者になりたいんだけど、どうかな」と相談すると、 

 「ああ、なるほど、いいんじゃないの。学者なら、お前みたいな性格でもやっていけるかもしれないから」

と妙な言い方で肯定してくれた。「なんで会社に就職しないの?」と問いつめられるかと思っていたので、僕は正直なところ、少しホッとした。「そうか、俺は学者としてやっていけそうな性格なのか、では、あとは勉強を頑張るしかないな」と思ったのである。 

しかし、その考えはあまりにも楽観的に過ぎた。猛暑の夏が終わって迎えた大学3年の秋、僕は自分の途方もない甘さを、ある授業によってきっちり思い知らされることになった。 

鉄道旅行が好きで、遅刻が嫌いな気鋭の助教授

Numbers研究会に、高校時代に数学オリンピックで上位に食い込んだTという天才肌の仲間がいることは、前回( 第15回)紹介した通りだ。夏休みが終わった9月、一緒に学生食堂でアイスコーヒーを飲んでいると、Tはいきなりこう切り出した。

「おい奥村、後期にめっちゃおもろい数学の授業があるんや。たぶんうちの大学の数学の教員で、あれ以上の授業をやれるもんはおらんぞ。俺はちょうど1年前に取ったんやけど、お前も取った方がいいと思う。まあ、お前が授業についていけるかどうかは、俺にはわからんけどな」

Tは数学に関して、めったに人を誉めない。学生仲間はもちろん、教授や助教授(当時はまだ准教授という呼称ではなかった)たちの大半についても、自分より実力が上だとは思っていないようだった。 

前述したように、Tは、1年生のときの数学の授業には最後の10分間しか出ず、教授が板書した難問をいつもすらすらと解いて、あっという間に帰ってしまうのだった。変人ぶりで知られる顧問のS教授も「T君には才能がある」と誉めた、という噂だった。 

そのTが絶賛するのだから、これは本当に面白いのかもしれない。僕はいたく好奇心を刺激されて、彼が勧める授業を紹介したパンフレットを読んでみた。 

授業の紹介文の冒頭には「新進気鋭の若手教員・A助教授が、演習を通して整数論の真髄を伝える」と全体のテーマが記され、その下に、毎回の演習項目が細かく説明されていた。「『整数論の神髄』とはえらく仰々しいな」と思ったが、僕にとっては、最も興味が刺激される内容だった。同時に僕の目を釘付けにしたのが、指導教官であるA助教授のプロフィール欄だった。 

一流大学の数学科を卒業して大学院で修士号、博士号を取得、その間には海外の研究機関で実績を積み、論文も世界最高レベルの成果として高く評価され・・・といった華麗な実績だけではない。A助教授の趣味として「鉄道旅行」、嫌いなこととして「遅刻」と書かれていたのである。 

そこを読んだ瞬間、僕の頭にNumbers研究会の友人たちの顔が浮かんだ。メンバーたち、それも特に僕が仲良くしている数人は、遅刻(を含めて予定の時刻が変わること)を極度に嫌う。そして、鉄道旅行を愛好する者も多い(少なくとも皆、ドライブより鉄道での移動を好む)。やはり前回紹介した時刻表マニアのMや、分刻みで合コンのスケジュールを作成するYなどがいい例だ。 

 「ひょっとしたら、この先生は、Numbers研究会の仲間たちと同じタイプの人じゃないかな」

何の根拠もないが、「鉄道旅行が好き」「遅刻が嫌い」というA助教授の紹介文を見て、僕はそう思ったのである。もしそれが事実なら、授業の面白さはさらに期待できそうに思えた。僕は迷わず、受講することを決めた。 

後で聞くと、A助教授は大学院生のとき、斬新な発想で数学の未解決問題を解き、世界に名を轟かせたという。ほとんどの受講者は、第一にその実績のすごさに惹かれて授業を取ったそうだが、僕にとってはそれと同じくらい「鉄道旅行好き」「遅刻嫌い」が重要だった。

しかし、そのときは、まさか授業で大変な想定外の出来事が待ち受けていようとは、夢にも思っていなかった。 

「まだ3分前だ。早すぎるよ!」という叫び声

A助教授が「整数論の神髄」を講義する授業は、週に一度、金曜日の午後1時から行われることになっていた。その初日、授業開始のちょうど5分前に、僕は教室に入った。 

大きな階段教室には、すでに30人くらいの学生が着席している。僕も中ほどの席に着いて待っていると、急に教室の前方の扉ががらりと開いて、30代くらいの痩せた男性がドタドタと大きな靴音を立て、猛烈な勢いで駆け込んできた。よほど急いで走ってきたのか、肩で息をしている。 

男性はそのまま教壇に上がると、抱えた資料を机の上に置いて、教室内を見渡した。「おっ、あれがA先生だな」と僕は思った。 

狐を連想させる逆三角形の細長い顔に、青白い肌、そして鋭い視線。いかにも「切れ者」という印象で、「この人はできそうだな」と、僕の中で急に期待が高まってきた。 

ところがA助教授は腕時計を見ると、いきなり「あっ、まだ3分前じゃないか。早すぎるよ。研究室の時計が進んでいたんだ!」と叫び、入ってきたときと同じようにダッシュして、前方の扉から教室の外に飛び出してしまった。その間、叫び声を上げた他は何の説明もしない。僕も含め、学生たちは皆、ぽかんとしていた。 

そして、きっちり3分後の午後1時、僕の腕時計の秒針がちょうど12の位置に達した瞬間(僕はときどき時報を聞いては、秒単位で時計を合わせていた)、A助教授が再び、猛烈な勢いで駆け込んできた。さっきと同じように慌ただしく教壇に立った助教授は、腕時計を見つめて「よかった、今度はピッタリだ」などとブツブツ呟いている。 

表情は満足そうだが、僕たち学生には目もくれない。その様子を見ていた僕は、直感的に「この人は俺と同じタイプの人間だ」と確信した。 

大学1年でNumbers研究会に入会して以来、僕は、出会った人が自分と同種の"仲間"か否かを、瞬時に判断できるようになっていた。当時は、発達障害という概念もASD(自閉症スペクトラム障害)の存在も知らず、もちろん、自分がそれらを抱えていることもわからなかったが、"仲間"を判別するための嗅覚は、学生時代を通じてかなり鋭くなっていたのである。

喋り方、歩き方、視線の配り方など、チェックポイントがいくつかあり、そこである種の雰囲気を感じさせる人間は、間違いなく僕と同じタイプだ。そして、このときも僕は、授業の冒頭のA助教授の奇妙なしぐさから、強烈な「同種の人間だけが発する雰囲気」を受け止めていたのである。 

教材を机の縁と平行に並べられずイライラ

そんなことを考え、固唾を呑んで助教授の様子を注視していると、隣に座っていた者に肘をつつかれて我に返った。見ると、Numbers研究会の仲間のHという学生だった。Hは小声でこう話しかけてきた。 

すごい研究者だけど、極端な人間恐怖症だって聞いたぞ。こうして本人を目の当たりにすると、確かに、聞きしに勝るというか・・・」  「あの先生、大丈夫だと思う?

そう言われて改めて見ると、確かにA助教授は落ち着かない様子で、しきりとシャツの肘の部分で顔の汗を拭き、下を向いたまま何やら独り言を言いつつ、持ってきた教材をいじっている。どうやら、教材を机の縁と平行に並べることができず、イライラしているようだった。 

本やノートを何度も持ち上げては置き直す。その作業を十数回も繰り返して、一向に授業を始めようとしない。その間、僕たち学生は助教授に完全に無視されていた。 

その様子に、一部の学生の間から失笑が漏れた。「あの先生、おかしいんじゃねえの?」という声も聞こえた。 

でも、僕は少しも笑う気が起きなかった。自分と同じ傾向を持っている人だろうというシンパシーも感じていたし、何よりも、面白い数学の授業をしてくれるのであれば、奇人だろうが変人だろうがまったく構わなかった。そう考えて、僕は助教授の一挙手一投足を注視し続けた。 

数分後、A助教授はようやく教材の並べ方に納得できたらしく、くるりと黒板の方に向き直り、読みにくい小さな字で何かを書き始めた。猛烈なスピードだ。 

それまでざわめいていた教室が一瞬にして静まり返り、全員が黒板を凝視した。そこに書かれていたのは、5問の演習問題だった。 

問題を書いた後も、助教授は何も言わず、空中の一点を見つめている。何やら考え事をしているようだ。黒板に問題を書いたのは、おそらく「これを解け」という意味なのだろう。

僕は「結構難しそうだな」と思いつつ、今まで記憶にプリントしてきたさまざまな解法を引っ張り出し、それらを組み合わせて、正解を考えていった。僕は数学の問題を解くとき、いつもその方法を駆使していた。A教授が出した5問についても、しばらく集中して考えていると、脳内のメモリーから呼び起こしたいくつかの解法のコンビネーションで、どれも解ける見込みが立った。 

よし、あとは正解を書いていくだけだ。難しいことは難しい授業だけど、Tがいうほどハイレベルじゃない。それとも俺の実力が、いつのまにか思ったより上がっていたのかな---。そう思って、僕は小さく微笑んだ。 

僕を驚愕させたとんでもない要求

ところが、僕がペンを取り上げた矢先に、A助教授は思わぬ行動に出た。出題した5問それぞれの下に、再び猛スピードで解答を書き始めたのだ。どれも、教科書が教える解法を組み合わせた模範解答であり、しかも、僕がつい今しがた考えついたものとほぼ同じだった。 

唖然としている僕たちの前で、助教授は相変わらず黒板の方を向いたまま(つまり、こちらには背中と尻を向けたまま)、おもむろにこう話し出した。僕が初めてA助教授の声を聞いた瞬間だった。 いったい、この先生は何を始めるんだろう? 

 「すべての問題を、今、私が書いたものとは別の解法で解いてください。ここに書いたのは、教科書に載っているやり方を組み合わせただけの、バカでも思いつく解法です。私が君たちに求めるのは、これとは別の解法を考えることです。

いいですか。他の人と同じ解法で問題を解いても、数学の研究には何の意味もありません」 

驚愕のあまり、僕は腰を抜かしそうになった。後ろの方から、小さく「ええーっ!」という声が上がった。 

僕も、何も言わなかったが、叫び出したいような心境だった。おそらく、大半の学生が同じだったに違いない。しかし、助教授はそんなことにはお構いなく、相変わらず学生たちに尻を向けたまま、こう続けた。 

 「1問解き終えるごとに、私のところにノートを持ってきて、見せてください。解法をチェックします。黒板に書いたもの以外の方法で3問以上正解したら、今日の授業に出席したと認めます。2問以下だったら、欠席にします!」

最後は叫ぶように言うと、A助教授はようやく振り向いてこちらに顔を向けた。そして、学生たちが問題に取り組む様子を、睨むような視線で眺め回しながら、授業の最後まで二度と口を開かなかった。

僕は、いきなり殴られたかのような衝撃を受けていた。模範解答とは別の解法を見つけ出すなど、絶対に不可能だったからである。 

数学の問題を考えるのが好きと言っても、僕は、常にフォトグラフィックメモリーを使ってあらゆる模範解法を丸暗記し、その組み合わせで正解を出してきた人間である。それが封じ込められたら、問題を解ける可能性は完全にゼロになってしまうのだ。 

「俺の前からすぐ消えろ」という軽蔑のしぐさ

それでも何とか問題に食らいついて新しい解法にたどり着かなければ、授業に出席したとカウントされない。うんうん唸って考えたが、結局、1問も別解を思いつくことができなかった。 

やっぱり僕は、1年生でNumbers研究会に入ったとき、顧問のS教授に言われたように(第14回参照)、数学の世界では単なる「バカ」だったのだ。それから2年余り、サークルでも授業でも自分なりに頑張って、研究者になれるレベルくらいの実力はついたかな、とひそかに思っていたが、その自信はこなごなに打ち砕かれた。 

僕は恥を忍んで、隣の席のHに「実は全然わからないんだ。お前の答えを見せてくれないか」と頼んだ。親切なHは、無言のままノートをスッと差し出した。彼はすでに4問まで解き終えており、ちょうど席を立ってA助教授のところへ行こうとしているところだった。 

僕は慌ててそれをほぼ丸写しにしてからノートを返し、Hが教壇へ行って戻ってくるのを待った。Hが着席すると、入れ違いに立ってA助教授のところへ行き、自分のノートを示した。 

ノートを一瞥(いちべつ)した助教授は、急に眉をピクリと上げ、数秒間、僕をじっと見た。その視線には、明らかに軽蔑の色があった。 

無理もない。つい先ほどチェックしたばかりのHの解法と、ほとんど同じものを記したノートを見せられたのだから。僕がHの解法を「パクった」ことを、助教授は一瞬で見抜いたのだろう。しかも、Hと僕が隣り合って座っていたのは教室の中段で、教壇からは、ごそごそやっているのが丸見えの位置だった。 

助教授は無言のまま、受講者名簿の僕の名前の脇に「出席」のスタンプを押した。それから、あたかも動物をシッシッと追い払うようなしぐさで腕を振った。それは明らかに、「俺の前からすぐに消えろ」という意味だった。僕は一礼して再び助教授の顔を見ると、その視線は明らかにこう語りかけていた。

 「君がそういうことをしたいのなら、勝手にすればいいさ。でも、君には才能がないし、そんな卑怯な手段を使ったところで、才能が芽生えるわけでもないんだよ」

恥ずかしさと惨めさとでいたたまれなくなり、席に戻った僕は頭を抱えた。その後、A助教授の授業には二度と出席しなかった。逃げ出したのと同様だ。助教授に軽蔑され、情けなさにめげてしまったのと同時に、 

 「俺は結局、記憶力が特殊なだけで、数学に才能があるわけでも、新しいことを考える能力があるわけでもないんだ。こんな人間が数学の研究者になろうなんて、ちゃんちゃらおかしい」

と、骨身にしみて思い知らされたからだ。結局、たった一度のA助教授の授業が大きな転機になって、僕は卒業後の進路を、大学院進学ではなく、就職にしようと思い始めたのだった。最近話題の本の書名ではないが、まさに「自分を変えた教室」だった。 

二重の意味で「研究者は無理だ」と宣告される

その後も折りを見て、アカデミズムの道に進んだNumbers研究会の先輩たちに聞いてみると、大学の研究室内の人間関係というのは、想像していたより面倒なことが多いようだった。つまり、「人間関係の構築が苦手だから研究者になる」と考えて学究の道を目指すと、現実があまりにも想像と異なっているのに愕然とする、という結果になりやすい。 

確かに学者の世界には、僕のように発達障害やASDを抱える人間は、一般社会より多く存在するらしい。しかし、当然ながら、発達障害と縁のない人も研究者には多い。 

結局、そういう普通の人々との関係がうまく行かなくなり、問題が生じるケースもあるという。その点は、学校のコミュニティや会社組織と基本的に変わらない。 

しかも、研究室という狭い世界では、いったん人間関係が崩れてしまうと、修復が難しい。企業であれば、「奥村は上司の○○とうまく行っていない」となると、人事異動で別部署に移してもらえるケースもあるが、専門分野の中でやっていくしかないアカデミズムの世界では、ボス的な教授や先輩との関係がこじれると、そのまま延々と冷遇されることになりがちだ。 

Numbers研究会の先輩たちの中にも、そういったことが原因で鬱になった人や、研究室を辞めた人がいるということだった。中には、いじめのような目に遭ったあげく、失踪して行方不明になった人もいるそうだ。

こんな話を聞くたびに、僕は震え上がった。数学の才能がない(正確に言うと、「数学ではバカ」な)だけでなく、一般社会より閉鎖的で面倒くさそうな人間関係の中を渡っていかねばならない。これは、二重の意味で、「お前に研究者は無理だ」と宣告されているのと同じことではないか。 

無力感の中、このときから僕は、就職ということを真剣に考え始めたのである。しかし、半年が経って大学4年の春になっても、就職の見込みについても僕自身の心理にも、明るい光は一向に差し込んでこないのだった。 では、いったいどんな仕事だったら、自分のような人間でもやっていけるのか? 

2013年02月16日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第17回】
「自分は嫌われやすい」という自覚のない友人の悲劇

仕事中に声をかけられるのを極度に嫌がる

この前の月曜日の早朝、息子の思わぬ言動が、久しぶりに僕たち家族を驚かせた。 

そのとき僕は出社前で、妻や息子より早めに朝食を終えると、前日の職場で終わらなかった仕事を片づけるべく、パソコンに向かっていた。息子は機嫌が良く、笑顔であれこれ喋りながら、おいしそうに朝食を食べていた。僕も妻もその様子を見て、「今日は無事に学校に行ってくれそうだ。よかった・・・」と、ホッと胸をなでおろしていた。 

ところが、朝食を終えた息子は急に何かを思い出したらしく、駆け足で自室に戻った。やがて引き返してくると、キーボードを叩いていた僕のところにまたも慌てて駆け寄り、水糊が入ったプラスチックの小さな箱を差し出した。 

その辺のコンビニや文房具店で売っているような、何の変哲もない水糊である。息子はそれを僕に見せながら、こう尋ねてきた。 

英語の先生から『お父さんかお母さんか、家族の誰かに聞いてきなさい』って言われたんだ」  「お父さん、これ、英語で何ていうの?

僕は「そうか、今は小学校でも英語の授業があるんだなぁ」と時代の流れを感じながら、さっそく「糊は英語で『ペイスト(paste)』というんだよ」と教えてあげた。我ながら、自分の口調が優しくなっていることを意識していた。 

僕はふだん、家で仕事をしているときに、息子や妻から声をかけられることを極度に嫌う。なぜなら、ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱えている僕は、仕事のスケジュールを「分」単位で立てていることが多く、それに狂いが生じると、苛立ちと怒りを抑え切れなくなるからだ。 

ただし、医師によれば、僕が仕事中に声をかけられるのを嫌がる理由は、他にもあるらしい。ASDを持つ人間は、予定を変更されると感情が激しく波立つだけでなく、「同時に2つのことを行うのが苦手」という特徴もある。その点も大きく影響しているのではないか、と医師は説明してくれた。 

確かに、先日見たテレビ番組では、発達障害を持つ人が、料理をしている最中に電話がかかってくるだけでパニックになってしまう様子が紹介されていた。僕は、パニックになることはあまりないが、やはり仕事をしているときに声をかけられたり、まったくの別件で電話がかかってきたりすると、しばらくは何もできなくなってしまう。

猛烈な怒りや苛立ちを感じるか、どうしていいかわからなくなってフリーズ状態に陥るかの、どちらかになってしまうのだ。前者の場合、ひどいときには「うわぁーっ!」と叫んでしまうこともあるし、後者の場合、本当に身体がガチガチに硬直して、動けなくなる。 

"突発性激怒"を起こした息子

でも、息子から質問を受けたときは、仕事の作業がちょうど一段落した直後だったので、ラッキーだった。質問の内容も、時間を取られずすぐに答えられる簡単なものだった。息子の機嫌も寝起きから良く、おかげで僕の心もいつになく落ち着いていた。 

そういう好条件があったので、不意に質問されたのに、怒りも感じず、フリーズもせず、穏やかな口調で答えることができた。自分でも内心、「急に聞かれた割には、俺としては不思議なほど優しい答え方ができたな。よかった・・・」と思っていた。 

糊はペイストでいいんだよ」と言い聞かせても、「違う!」と大声を出して譲らない。 ところが、息子の反応は意表を衝いたものだった。「そうじゃないよ!」と言って、不満の表情をあらわにしたのである。僕が「ん? 

息子の頬が見る見るうちに赤くなった。「あ、これはまずい」と僕は心の中で慌てた。息子は、ASDの人間に特徴的な、自分の事前の想像と異なる事態が生じたときに発する"突発性激怒"を起こしているに違いなかった(念のためお断りしておくが、突発性激怒というのは正式な医学用語ではなく、僕の造語である)。 

息子の眉は八の字になり、眉間には皺が寄っていく。さっきまで朗らかに笑っていたのとはまるで別人のようだ。こうなると、なだめるのは容易ではない。 

そんな心の声が聞こえたかのように、息子は叫んだ。  「せっかく機嫌が良かったのに、あっという間に面倒なことになった・・・」と僕は嘆息した。しかし、息子は何を怒っているのだろう?

 「僕が質問しているのは、糊のことじゃないよ。糊が入っている『箱』のことだよ!」

いったい何を言っているのだろうか? えっ、糊が入った箱? 

怪訝そうな父親の様子にさらに感情を高ぶらせたらしく、息子は、糊が入ったプラスチックの箱の部分を指でコツコツと苛立たしげに何度も叩くと、詰問口調でこう問い糾してきた。 

 「さっきから、『この箱を英語で何というの?』って聞いてるんだよ。先生に『家族に聞け』と言われたのは、糊のことじゃなくて、この箱のことなんだから!」

そこまで聞いて、僕は、息子が何を言いたいのか、そして、小学校の先生が児童たちにどんなことを要求したのかが、おぼろげながらわかってきた。 

おそらく先生は、糊が入ったプラスチックの箱を児童たちに見せて、「これを英語で何と言うのか、家で聞いてきなさい」と指示したに違いない。当然ながら、これは、「糊を英語で何というのか、家で聞いてきなさい」の意味である。 

ただしこのとき、直接的に見えるのは、糊ではなく箱である。糊は箱に入っているのだから当然だ。そこで息子は「(糊が入っている)箱を英語で何というのか?」という意味だと受け取り、僕にその答えを尋ねてきたのである。 

ASDの父親と息子が大声で怒鳴り合う

困るのは、基本的には聡明な息子が、このような場合、どこまでも頑固に自分の思い込みを捨てないことだ。僕がいくら優しく説明しても、普段とは別人のように自説を曲げない。おそらく、事前に決めた予定時刻が1分でも変わることに大きなフラストレーションを覚えるのと同じく、いったん自分の中で既成事実と決めたことを変更しようとすると、すさまじい抵抗を感じるのかもしれない。 

このときも同じだった。僕は、 

 「先生は糊のことを言ったんだよ。もし箱のことを聞きたいのであれば、わざわざ糊が入った箱じゃなくて、何か空の箱を選ぶんじゃないか。だから糊でいいんだよ。英語ではペイストだ」

と、噛んで含めるように丁寧に説明した。しかし、息子はどうしても納得しない。 

 「もし糊のことを言いたいんだったら、先生は蓋を開けて中の糊を指さしたり、糊をすくい上げたりして説明したはずだよ。そうしないで箱を見せたんだから、やっぱり箱のことだよ。ねえ、この箱、英語で何ていうの!?」

という具合に、妙な論理(?)を並べ立てて譲らないのだ。僕が「そんなことはないよ。よく考えてごらん」とさらに言い聞かせようとすると、息子はついに爆発した。 

お父さんは、僕が答えを間違えて先生に叱られてもいいんだね。ひどいよ!」 「どうしてそんな間違ったことを言うの?

とわめき始めたのだ。僕の方も、息子とのやり取りが思わぬ方向に発展し、長引いたせいで、事前に立てていた出社までのスケジュールが完全に崩壊していた。 

そうなると、僕もASDの持ち主だ。予定が1分でも遅れると、制御不能な怒りに支配される。このときは1分どころか5分以上も遅れることがはっきりしたので、たちまち胃袋から苛立ちがマグマのようにこみ上げてきて、 

お父さんはそんな箱のことなんか知らないぞ」  「勝手にしろ!

と息子に怒鳴ってしまった。こうなると大変だ。息子はワッと泣き出して、妻のところへ駆けていき、 

 「お父さんは僕のことが嫌いなんだ。だから宿題を教えてくれないんだよ!」

と大声で訴えた。息子は、親に対して自分の意見が通らないと、「お父さん(お母さん)が僕のことを嫌いだからだ」と言い出すことがよくあった。このときなど、まさにその典型である。 

「分刻みの合コン計画」を立てた男の苦労

息子はひとしきり叫び続けたが、やがて「あ、7時42分になったから学校に行く」と言って、玄関から走り出ていった。その間もずっとふくれっ面をしており、「いってきます」も言わなかった。僕は思わず溜め息を吐いた。 

息子が登校していった後、僕たちのやり取りを脇で驚いたり笑ったりしながら聞いていた妻が、ポツリと言った。 

 「小学生の今なら、あんなことを言っても可愛いけれど、大人になっても同じことを言っていたら、本当に大変よね」

僕はとっさに「同じASDを持っている俺も何とかやっているんだから、きっと大丈夫だよ」と応じたが、心中、穏やかではいられなかった。このとき、僕の脳裡には、大学のサークル「Numbers研究会」で最も親しい仲間だったYの姿が浮かんでいたのである。 

分刻みで合コンの予定を立てるなど( 第15回参照)、どんなことも事前に事細かな計画を立てなければ気が済まないYという男。なぜ彼のことを思い出したのかというと、Yは学生の頃、先ほどの息子とそっくりな行動を取ることがよくあったからである。妻が「大人になっても同じことを言っていたら、本当に大変よね」というのを聞いて、まさに大人になってもずっと同じような行動パターンを繰り返しているYを連想したのだ。

Yは自分の一連の行動が原因で、学生時代だけでなく就職した後も、言い尽くせないほどの苦労を重ねてきた。僕は本人から聞いてそのことを知っていた。それで、「息子も将来、大人になったら、Yみたいな苦労をするのだろうか・・・」と沈んだ気持ちになったのである。 

異様な思い込みで、教官に猛然と食ってかかる学生

Yが最初にそうした行動を見せたのは、大学1年生の秋のことだった。たまたま彼も僕も取っていた英語の授業で、教官が黒板に10個の英文を書き、「では、ここに書いた英文を訳してください」と言った。 

Yはちょうど僕のすぐ隣に座っていた。皆、いっせいに英文を訳し始めてしばらく経った頃、ふと、隣のYの手がまったく動いていないのに気づいた。横目で様子を窺うと、彼は上を向いてあくびをしていた。 

俺はまだ3つしか訳していないのに」  「もう終わったのか?

と思って彼のノートをちらりと覗くと、1つの英文を訳しているだけだった。なのに、後は知らんふりで、ペンも持たず、机の前にボーッと座っている。残りの9個の英文を読もうともしていない。 

君は4番目の文章しか訳していないけど、他の文章も訳しなさい」と言った。すると、驚いたことに、Yは教官に猛然と食ってかかったのである。 教官もその様子を不審に思ったらしく、ツカツカと近寄ってきて、やはりYのノートを見ると、「どうしたの? 

僕は先生に言われた通りのことをしていますよ。間違ったことはしていません」  「どうしてですか?

 「私は、黒板に書いた英文を訳しなさいと言ったんだよ」

 「先生は『ここに書いた英文を訳してください』とおっしゃったとき、上から4番目の文章を指さしていたんです。だから僕は、4番目の英文を訳しました。先生は、それ以外の文章を訳せとはおっしゃらなかったじゃないですか」

 「それは誤解だよ。私は『10の文章すべてを訳しなさい』という意味で言ったんだ。だいたい、常識で考えてみなさい。1つだけ訳させたいのなら、他の9個の文章を書くはずがないじゃないか」

僕は先生が指さした、まさにその文を訳したんです」  「常識って何ですか?

 「君の言うことはわかった。では、正確を期して言い直そう。4番目のだけではなくて、10個の英文すべてを訳してください」

あーっ!」 そんなふうに変えられたら、最初の前提が全部ひっくり返ってしまうじゃないですか。なんで?  「えーっ!

 「・・・」

初めに自分で勝手に思い込んだ条件が根底から変わってしまい、Yはパニックになっていた。しかし、それは、言うまでもなく教官の責任ではない。教官こそ、通常通りに授業を進め、何の落ち度もないのに訳のわからない言いがかりをつけられて、いい迷惑だったろう。 

絶句した教官は、そのまま何も言わずに教壇に戻った。おそらく、腹を立てるのを通り越して、「こんなにエキセントリックで、まともなコミュニケーション力もない学生とは話しても意味がない」と考えたのだろう。 

多くの学生たちは解答の手を止め、ポカンとした表情でYと教官のやり取りを聞いていた。「あいつ、何言っているんだ?」「頭、おかしいんじゃねえの?」などと、笑いながら囁いている学生もいた。 

でも、僕は笑えなかった。Yがどうにも痛々しくて見ていられず、ずっと目を伏せていた。彼の、異様とも言える思い込みとこだわりの強さが、とても他人事とは思えなかったからである。 

自分の「生きにくさ」を知り、コントロールする

前に述べたように( 第10回参照)、僕も小学生の頃、先生から「給食は最後まで食べなさい」と言われたのを、先生の意図とまったく違う意味に受け取ってしまったことがある。先生は「給食は残さず全部食べなさい」のつもりで言ったのだが、僕は「教室で食べている最後の1人になるまで食べ続けなさい」と言われたと思い込んだのだ。

その結果、来る日も来る日も、昼休みを潰しては超スローペースで給食を食べ続けた。昼休みに遊びたい気持ちがないわけではなかったが、それよりも、「最後まで食べ続けている最後の1人になる」という予定を決め、その通りに実行し続けることの方が、僕には大きな喜びだった。 

高校生になっても、誰かの発言を、本人の意図とは違う意味で受け取ることはよくあった。実は、先に紹介したYの例と似ているが、教師が黒板を指さして「ここに注意しなさい」と言うたびに、高校時代の僕は「先生の指先に注意を集中させなければならない」と思い込むのだった。その結果、チョークを持ったり、ペンを持ったり、首筋を掻いたりする先生の指先をじろじろと視線で追ってしまうのが常だった。 

正直に告白すると、Yが教官に食ってかかった英語の授業のとき、僕も最初は「教官が指さした4番目の文章だけを訳せということだな」と思い込み、そうしようとしていた。しかし、周りの様子を窺うと、Yを除いた学生が皆、黒板に書かれた英文すべてを訳そうとしているのだった。 

もちろん、他の学生の解答を盗み見るつもりはなかった。ただ、大半の学生が、先に①から⑩までの番号をノートに縦に並べて記し、その脇に、易しそうな文章から訳文を付けているようだった。それがわかると、僕も「みんな、10個の英文をすべて訳そうとしているんだな」と気づくことになる。 

先生は1つの文章しか指ささなかったじゃないか」という疑問が渦を巻いていた。 僕がYと違ったのは、その場で「みんなと同じように、英文を全部訳した方がいい」と瞬間的に察知したことだ。頭の中ではまだ、「なぜ、すべての文章を訳さなければならないんだ? 

しかし、大学に入る前から「周囲と異なる言動を取ることはなるべく避けなければならない。さもないと嫌われたり、浮いたりしてしまう」と後天的に学習していた僕は、疑問を押し殺して、他の文章も訳すことにしたのである。 

教官の言葉の受け取り方に関して、Yと僕に違いはなかった。大きな差は、僕が「自分は嫌われやすい人間である」と知っていた点だ。だから、常に周囲と同じように話し、同じように振る舞わなければならないと、自分を省みて細心のチェックを怠らなかった。Yには、その自覚と注意がまるで欠けていた。 

本当は僕も、常に周りの顔色を伺って暮らしているような自分のことが大嫌いだった。だが、仲間が集まる「Numbers研究会」の外に一歩出れば、それは、平穏に生きていく上で欠かせない行動だったのである。 

自分の「生きにくさ」を知ることも、うまくコントロールすることもなかなかできなかったY。次回ではそんな彼の、学生時代と社会に出た後の苦闘ぶりを紹介したい。 

2013年02月23日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第18回】
どの会社でも嫌われ、転職を繰り返して見つけた「生きる道」

温厚な先輩をキレさせた友人のしつこさ

 「自分は嫌われやすい、浮きやすい人間だ」ということを自覚していなかった学生時代の仲間、Yという男。

前回、彼が大学1年のときの英語の授業で、教官に「黒板に書いた英文を訳しなさい」と言われたとき、その一部しか訳さなかったいきさつは紹介した。彼は「僕は先生が指さした文章だけ訳したんです。何が悪いんですか」と教官に食ってかかったのである。

もちろん、彼が、僕のようにASD(自閉症スペクトラム障害)の持ち主であるかどうかは、医師の診断を聞いたわけではないので断言できない。しかし、今、その風変わりな数々の言動を振り返ってみると、彼が発達障害を抱えている可能性は非常に高いと僕は考えている。 

Yの言動は、しょっちゅうトラブルや小競り合いを巻き起こし、周囲から誤解されることもよくあった。発達障害を持っていると思われるメンバーが多いサークル「Numbers研究会」の仲間の間ですら、こんなことが起こった。 

大学2年の頃、Numbers研究会の部屋で、Aという先輩とYが口論になったことがあった(このA先輩は、おそらく発達障害を持っておらず、世の中で一般的とされる言動を普通に取れる人だった)。口論の原因はよく覚えていないが、たしか数学のパズルについて、解き方の細部のどれが正しいかといった、はっきり言ってしまえばおそろしく小さな話だった。 

2人は最初、冗談交じりに議論していたが、次第に口調は真剣に、声は大きくなっていった。周囲には僕を含めて十数人のメンバーがいたが、そんなことにはお構いなしだった。 

お前はいつまでもそんなことばかり言っているのなら、もう二度とこの部屋に来るんじゃねえ!」と怒鳴りつけた。 やがて、基本的には温厚なA先輩も、いつまでも些細なことにこだわり、しつこく食い下がるYの態度にキレてしまい、いきなり「Y、ふざけるな! 

 「すわ、大ゲンカか!?」と、僕たちは固唾を呑んで2人を注視した。たぶん皆、「これは暴力沙汰になるかもしれない」とドキドキしていたに違いない。

しかし、それ以上は何も起こらなかった。Yが急に小さな声で「はい、わかりました」と静かに答え、部屋を飛び出してしまったからだ。

「二度と来るな!」と言われたから、絶対に行けない

もちろん、これは単なる口ゲンカで、別に深刻な対立があったわけでもないので、2人は翌週くらいに和解した。感情のわだかまりもないように見えた。 

A先輩は"大人"なので、実に些細なことで後輩に怒声を張り上げた自分を恥じているようだった。また、Yはそもそも、他人に対して憎しみや恨みつらみといったネガティブな感情を絶対に持たない人間だ(これも、僕が見るところ、発達障害の持ち主に多い特質のようだ)。 

A先輩とYは、別の先輩学生に仲介してもらって学生食堂で話し合い、和解したと聞いた。A先輩が、 

 「俺もカッとなって怒鳴って悪かった。でも、お前もいつまでも一つのことにこだわり続けないで、新しいことも考えた方がいいんじゃないか。まあ、これからもまた仲良くやろうぜ」

と話しかけると、Yは「・・・はい」と一言だけ答え、ペコリと頭を下げたという。それを聞いて、僕たち後輩は「Aさんって人間が大きいな」とか「そこまで寛大に出られると、さすがの傲慢なYも相手に頭を下げるんだな」などと噂し合ったのを覚えている。 

こうしてYはA先輩と仲直りすることができた。Numbers研究会にもまた参加できることになった。ところが、あれほど毎日のように入り浸っていたNumbers研究会の部屋に、Yは一向にやってこない。 

3週間くらい経って、僕は同学年のサークル仲間のWという男とキャンパス内を歩いていると、偶然、Yと出くわした。Wは何の気なしに、 

A先輩との仲は修復できたじゃないか。最近、何かあったのか?」  「おいY、お前、どうして最近、研究会に来ないんだ?

 「いや、別に何もないけど・・・」

 「数学にもう興味を持てなくなったとか?」

 「そんなことはない。俺は昔も今も数学は大好きだよ」

 「じゃあ来ればいい。そうか、A先輩との一件があったから、気まずいというか、来づらいんだろ。大丈夫だよ、もう誰も気にしてないから」

 「違うよ。気まずいとか、行きづらいとか、そういうことじゃないんだ。俺さ、A先輩とやり合ったとき、『もう二度とサークルの部屋に来るな』って怒鳴られたろ。だから、行けないんだよ」

 「馬鹿だなあ。あの後、先輩はお前に『また仲良くやろう』って言ったんだろ。だったら、もう行ってもいいんだよ。仲直りしたんだから」

 「それとこれとは話が違うんだ。俺は確かにA先輩と仲直りをした。先輩も俺に『また仲良くやろう』と言ってくれたよ。

でも、それは『またサークルの部屋に来ても構わない』ということとは別の話だ。部屋に行くことに関しては、『二度と来るな』と言われたままなんだ。だから俺は、行くことはできない」 

 「・・・」

僕はWとYのやり取りを、傍で黙って聞いていた。胸がふさがるような思いで、何も言えなかったのだ。なぜならYの思考パターンは、あまりにも僕に似ていたからである。 

発達障害への「理解者」がいなければ、騒動は収まらない

最初、Yが陥ったのは、「先輩とケンカをして、その結果、サークルの部屋に来るなと言われた」 →  「部屋に行けなくなった」という図式である。したがって、普通の人の場合はそれを逆にして、「先輩とのケンカが終わった(仲直りした)」 → 「部屋に行けるようになった」という図式も成立する。

しかし、Yの場合、そうは行かない。「部屋に来るなと言われた」 →  「部屋に行けなくなった」という図式しか頭にない。そのため、「部屋に来てもいいと言われた」というステップがない限り、「部屋に行けるようになった」にはたどり着けないのだ。その前の「ケンカした」や「仲直りした」と、「部屋に行ってはいけない」や「行ってもいい」が、どうしても結びつかない。

断っておくが、Yは別に拗(す)ねていたわけではない。「仲直りしたから、部屋に行ってもいいことになった」という理屈がまったく理解できないのだ。彼にとっては、「先輩が『部屋にまた来てもいい』と言ったから、行ってもいいことになった」という論理しか通用しない。 

つまり、A先輩から直接「部屋に来てもいいんだよ」という言葉をかけられない限り、Yは部屋に行くことができない(行こうという発想すらできない)のだ。 

僕には、それが痛いほどよくわかった。同時に、Yのような(僕も持つASD特有の)思考に従って行動すると、嫌われたり浮いたりする可能性が非常に高くなる、ということも、それまでの"学習"によって何となくわかっていた。 

結局、僕はWと一緒にA先輩に会いにいき、

 「すみません、Yに『またサークルの部屋に来ていいんだぞ』と言って頂けませんか。あいつ、先輩に怒られたことをまだ変に気にしてるんです」

と頭を下げて頼んだ。A先輩は不思議そうな顔をしたが、Yの挙動に以前から何かおかしなものを感じていたらしく、すぐに僕たちの頼み通りにしてくれた。さっぱりした良い人だな、と僕は改めて先輩の人柄に感心した。 

 「また部屋に来てもいいぞ」とA先輩に言われた翌日、YはさっそくNumbers研究会に顔を出した。気後れした様子も恥ずかしそうな様子もなく、堂々としている。

やがて、A先輩たち数人のグループが数学パズルを解いている輪に入って、以前とまったく同じようにゲラゲラ笑いながら、一緒に解法を考え始めた。A先輩も、内心はどんな気持ちだったのかわからないが、やはり笑顔でYの突っ込みに応じていた。 

その様子を見て、いつのまにか僕の隣にいたWがつぶやいた。 

 「なんでYのこと、あんなに心配しなきゃいけなかったんだろうな。俺、なんか疲れたよ。それにしてもAさんがいい人でよかった」

僕も同感だった。しかし、このYの騒動が収まったのは、たまたま周囲に、彼の思考や行動のパターンを理解する人間がいたからである。 

僕は、別に自慢するわけではないが、似たような「嫌われやすい言動」を取りがちな人間として、YとA先輩の関係修復に努めた。またA先輩もWも、自分では発達障害を持ってはいなかっただろうが、以前からYの様子を見て、何となく「変わったところのある奴だ」と認識していたと思う。 

A先輩とのようなトラブルを起こしたら、彼はおそらく二度と、そこに戻れなかったに違いない。 もし、Yという人間に対し、ある程度の理解がある仲間がいない場所だったら、どうなっていただろう? 

それを思うと、僕は気持ちが重くなった。そして、Yではなく、もし自分が何かの弾みで同じような人間関係の軋轢(あつれき)を生んでしまったら・・・と考えると(それは十分に起こりうることだった)、背筋がゾッと寒くなるのだった。 

「傲慢で無神経な男」は就職できるのか

就職活動をしている間、Yと僕は頻繁に連絡を取り合い、互いの状況を報告していた。2人とも就職先が思うように決まらず、悩んでいた。しかし、その悩みは微妙に異なっていた 

僕は「人間関係の構築が苦手な自分を受け入れてくれそうな職場が、なかなか見つからない。そんな会社はあるのだろうか」と悩んでいた( 第16回参照)。

一方、Yは「なぜ、俺のように才能のある人間をどの会社も採用しないのか」と本気で思っていた。自分を落とし続けるいろいろな会社に対し、不満というよりも、心から不思議に思っているようだった。 

そんなYの様子が、僕は自分のことを棚に上げて、だんだん心配になってきた。僕も嫌われやすい部分を持っていたが、まだ、その自覚はあった。しかし、「空気を読まず、他人の気持ちなどまるで考えない」という自分の特徴に無自覚なYは、それゆえに人によく疎まれていた。 

一緒にいてムカつかないのか?」と聞かれることがあった。 特にNumbers研究会の外で、Yは「自慢ばかりする傲慢な奴」「無神経な男」などと呼ばれ、多くの人からはっきり嫌われていた。僕もたまに、「おい奥村、お前はどうしてYみたいな奴と付き合えるんだ? 

そんなとき、僕は決して「俺、あいつと似たところがあるんだよ」などとは答えず、黙ってやり過ごした。そして、「Yっていうのは気の毒な奴だな」と同情すると共に、「俺より嫌われやすい奴がいるんだな」と、Yには申し訳ないのだが、ひそかに奇妙な安堵を覚えてしまうのも事実だった。 

仮に就職できたとしても、何も問題を起こさずに働くことができるのか? 彼のような、他人とうまくやって行けない人間を受け入れる職場があるのか? そんなYは就職できるのか? 

就職活動期に、僕がぼんやりと抱いていたYへの不安。それは後に、何とも悲しい形で現実になってしまった。 

僕を馬鹿野郎と呼ぶのなら、その論拠を示してください

Yは結局、知名度の高い会社や、大都市圏に本社を持つような会社には、まったく相手にされなかった。彼は結局、実家に戻り、地元のあまり大きくない金融機関に就職することになった。 

ちなみにYは、数字や数学に強いだけでなく、僕より優れた記憶力の持ち主だった。僕は記憶力において「フォトグラフィックメモリー」の持ち主で、文章などは、三回じっくり読めばそのまま脳にプリントすることができた( 第5回参照)が、Yの力はそんなものではなかった。

彼は、視覚情報の「フォトグラフィックメモリー」に加えて、聴覚情報についても同じように、聞いたものをそのまま瞬時に記憶する能力を持っていた。そのため大学の4年間で、英語、ドイツ語、フランス語の3ヵ国語をマスターし、かなり高度な内容の会話をネイティブと交わしたり、原書を読んだりするなど、流暢に使いこなすまでになっていた。 

地元の金融機関の入社試験では、Yのペーパーテストの点数は断トツの高得点だったという。人事担当者は「君のように優秀な学生が、うちみたいな地方の金融機関に来てくれるなんて、信じられない!」と歓喜したそうだ。Yもそう言われて悪い気はしなかったらしく、僕に就職先が決まったことを告げるときの顔は、久しぶりに幸せそうだった。 

しかし、その幸福が続いたのは、入社前までだった。Yは入社した直後から、職場で周囲とトラブルを立て続けに起こしてしまったのだ。多くは、上司からの指示を正確に理解していなかったり、複数の仕事の重要度がわかっていなかったりしたために起きたトラブルだった。それも初歩的な間違いが多かったという。 

上司から、「これ、読んどいて」と数ページの書類を渡されて、一番上のページしか読まない、といったことは日常茶飯事。叱られると、「部長は、一番上のページを指さして『これを読んどいて』とおっしゃったじゃないですか。僕は言われた通りにしたんです。何が問題なんですか」と言い返す。 

いくつも仕事を振られると、重要なものや緊急性の高いものから片づけようとせず、命じられた順番にやろうとする。その結果、さほど重要でもない小さな仕事ばかりを進め、一方で、すぐに終えなければならない大切な仕事を何日も放ったらかしにしている。当然、上司は怒る。 

早く上に提出して、お偉方たちのハンコをもらわないと、デッドラインが過ぎて大変なことになるんだぞ」  「お前はなぜ、こんな大切な書類を何日も寝かせといて、どうでもいいことばかりやってるんだ?

 「そんなに大切なものなら、最初に僕に振るとき、『これを最優先でやれと』と指示してください」

そんなことは普通、ちょっと考えればわかるだろうが」  「馬鹿野郎!

 「わかりません。普通と言われても、何が普通かもわかりません」

 「だからお前はダメなんだよ」

 「『やれ』と言われてもないことはできません。それがなぜダメなのか、僕にはわかりません。

また、部長は先ほど、僕を馬鹿野郎とおっしゃいましたが、僕は自分は馬鹿野郎ではないと考えています。僕を馬鹿野郎と呼ぶのなら、その論拠を示してください」 

顔を真っ赤にして怒鳴る上司と、困惑して凍りつく周囲の人たちの様子が目に浮かぶようだ。このとき、一番の問題は、Yが「自分はごく当たり前のことを言っているだけだ」と考えている点。そういうときの彼は、おそらく上司が怒っていることも、場が凍っていることもまったく理解していない。

上司や先輩を次々と怒らせ、場を凍りつかせる

Yの「場の空気を読めなさ」は、アフター5でも存分に発揮されたようだ。職場の飲み会では、上司や先輩の自慢話にいちいち突っ込みを入れる。 

研修でそう教わりました」  「そういう融資って、金額は大きいかもしれないけど、やってはいけないことじゃないですか?

 「客を騙しているだけじゃないですか?」

 「そのケースでは、商品を売った人より、商品を開発した人の方が高く評価されるべきじゃないですか?」

適当に「さすが先輩、凄いですね~」などと感心した素振りを見せておけばいいのだろうが、Yにはそういうことが一切できない。1年目の新人にこんな発言ばかりされて、良い気持ちになる上司や先輩などいるはずもなく、職場の飲み会は、Yのせいで思い切り白けて解散することが多かったようだ(ただし、僕にその様子を語ってくれたYは、「場が白ける」ということの意味がわかっていなかった)。 

また、先輩から引き継いだ大事な顧客に対し、Yは最初の挨拶の席で、 

 「今お持ちの○○という商品は、ハイリスク、ローリターンですし、そのくせ手数料だけはしっかり取られる。お客様には損になると思います」

と話してしまった。驚いた顧客が「そんなものは解約する」と言い出したので、Yは帰社して報告したところ、真っ青になった上司が顧客のもとにすっ飛んでいって平身低頭し、何とか解約は思いとどまってもらった。戻ってきた上司は、Yを1時間近く激しく叱責し(Yは「殴られるかと思った」そうだ)、すぐにその顧客の担当から外してしまった。 

他部署から異動してきた年配の先輩社員を歓迎する飲み会でも、Yは一悶着起こしてしまった。その先輩社員は、酒が好きな豪放磊落タイプで、後輩に対しては兄貴分のように振る舞いたがる人だったという。酒が回り、良い気持ちで酔っ払ったその先輩社員が「俺ってこういう性格だからさ、よろしく頼むよ~」と皆言ったとき、Yはすぐに余計な突っ込みを入れた。 

 「こういう性格って、どういう性格なんですか?」

 「何だこの野郎、先輩に向かって失礼な奴だ。俺はこういう性格なんだよ」

「今日初めてお会いしたので、どんな性格をお持ちなのか、僕はまったく知りません」

 「お前、新人の分際で口のきき方を知らねえのか。生意気なんだよ」

 「織田信長や坂本龍馬や田中角栄のような歴史上の有名人なら、会ったことがなくても本で読んで、性格はある程度知っています。でも、それ以外の初対面の一般人から『俺はこういう性格だ』と言われても、何だかさっぱりわからないので、『どういう性格なんですか?』と質問したんです」

このように、Yの言うことは、理屈の上では基本的にすべて正論だ。だから、論理でのやり取りになると、相手はぐうの音も出なくなってしまうことがよくある。実際、このときも、言葉に詰まった先輩社員が激高して、Yの胸倉をつかむ寸前まで行ったらしい。 

しかし、こんなことを繰り返していれば、周りの雰囲気は確実に険悪になるし、やり込められた相手も恨みを持つ。結果として周囲から嫌われてしまうのだが、そういうことが、自分では「悪意」「憎しみ」「恨み」といった負の感情をまったく持たないYにはわからなかった。 

「なぜ、本当のことを言ってはいけないんだ?」

なまじっか入社時の成績が良かっただけに 、職場でYの評価が一変するのに時間はかからなかった。

 「大きな口を叩く割に、仕事ができない変な奴」「生意気で、傲慢で、協調性のない奴」「何を考えているのかわからない奴」などと陰口を叩かれていたうちはまだよかった。やがて、こういうことを面と向かって言われるようになり、上司や先輩からは仕事のミスを連日のように責められ、罵倒されるようになったという。

もう少しものを考えて仕事しろ!」と怒鳴られていたそうだ。 Yによると、上司からはしょっちゅう「お前はどうしていつも俺の指示の意味を取り違えるんだ? 

その結果、Yは職場でどんどん周囲から浮き上がる存在になっていった。ミスとして上司に怒られていても、誰もかばってくれない。食事や酒の席に誘われることもなくなった。入社して1年後には、職場でYに話しかける人もほとんどいなくなったという。 

その頃、僕はYと久しぶりに食事をした。お互い、社会人になって1年が経ち、職場での笑える話や苦労話も交えて、情報交換でもしようかと思ったのである。 

もちろん、しばらく封印していた数学の話ができる楽しみもあった。「Yの奴、金融機関で将来の幹部候補として採用されたんだから、昔よりさらに偉そうになっているんだろうな」と僕は想像していた。 

ところが僕の前に現れたYは、学生時代の傲岸不遜で自信満々の彼とは別人のようだった。思い詰めたような表情に生気はなく、視線はうつろだった。僕と会話をしながらも、頭では何か別のことを考えているようだった。

他愛のないことでも、僕が何か言うたびに、Yはビクッと体を震わせた。暑くもないのに、彼の顔や頭からはしきりと大粒の汗が流れ、それを何度もハンカチで拭っていた。 

僕が「お前、なんか元気ないみたいだけど、どうかしたのか?」と聞くと、Yはハッとしたように顔を上げ、「なぜ、本当のことを言ってはいけないんだろうな・・・」と前置きして、悩みを打ち明け始めたのだ。その悲しそうな声を、僕はつい昨日のことのように思い出すことができる。 

「1人だけでできる仕事」で、金持ちになっていた

僕と再会してから数ヵ月経つと、Yは次第に欠勤しがちになったという。それからさらに数ヵ月が経ったある朝、出社しようとしたら、あたかも腰が抜けたように、まったく立ち上がれなくなってしまった。 

職場の人間関係のストレスに、ついに心と身体が耐えられなくなってしまったのだ。こうしてYは、その金融機関で働くことが不可能になった。 

Yはその後、何度も転職したが、どの職場でも同じようなことが繰り返された。「空気を読まない、人の気持ちを忖度(そんたく)しない言動を取る」「仕事で初歩的なミスを繰り返す」  → 「周囲に嫌われたり、浮いたりする」「仕事の不出来を激しく叱責される」 → 「心身に変調をきたして、出勤できなくなる」 → 「退職」というサイクルを、本当にコピーするように何度もたどるのだ。

そんなYは今、株式などのデイトレーダーとして、1人で一日中、パソコンのディスプレイと向き合っている。それなら、人間関係に悩まされることはないし、自分の能力だけで勝負できる。 

もともと、「超」が付くほど頭の良い男である。これまでの運用実績は抜群だそうで、リーマンショックでも大きなダメージは受けなかったらしい。具体的な数字を聞いたところ、確かに「金持ち」と言えるほどの資産を築いていた。体調もすこぶる良好らしい。 

しばらく前、学生時代の親しいサークル仲間たちで集まって、久しぶりに飲んだ。前に( 第15回参照)紹介したT、M、H、それにYと僕である。アルコールも進み、座が盛り上がってきた頃、Tがこう言い出した。

確かにお前みたいな奴は会社組織にはなじまないだろうが、たった1人で投資でバンバン稼ぐ道があってよかったな。お前に本当に合ってる生活だと思うよ」  「おいY、最近は儲かってるのか?

僕も同感だった。MやHもウンウンと頷いている。ところがYは、なぜか少し不服そうに口をとがらせてこう答えた。

 「そんなことは絶対にない。俺は本当は、会社勤めだってちゃんとできるんだ。昔入ったところは、どこもたまたま相性が悪かっただけだよ。

まったく、日本の企業というのは、どうして俺みたいな、能力もやる気もある人間を雇って思いっきり使おうとしないのかな。絶対に役に立つはずだけどな~」 

Y以外の4人が爆笑したのは言うまでもない。 

前に述べたように、Yは昔から、女性にもてたくて仕方がなかった男だ。その一方で、「俺みたいなすごい男が、そこら辺の普通の女と付き合うわけにはいかない」などと不遜な発言をして、大学でも周囲の女性たちから顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。結局、女性にはとんと縁がなく、現在まで独身である。 

Hが「お前、付き合っている女はいないの?」と聞くと、Yは「それが、実はいないんだよ」と淋しそうに答え、近況を話してくれた。超高級マンションに住み、休みの日は高額な外車を1人で乗り回し、食事は『ミシュラン』に出ているような有名レストランで、やはり1人で済ませているそうだ。 

小遣いに不自由はせず、金のかかるデートもできるはずなのに、どうしても彼女ができない。気のおけない僕たちの前だったからか、Yはぽつりとこう漏らした。

 「俺は外車にも乗ってるし、金もたっぷりある。ケチでもない。女にとって、付き合う相手としては理想的じゃないか。

なのに、どうして俺は女にもてないのかな。本当に不思議だよ」 

それに対して、Hが「お前、学生時代の勘違いがまだ治っていないようだな」と茶化し、再び皆で大笑いした。その中で、Yだけが真顔で「なぜだろう。本当に不思議だよな・・・」とブツブツ言っていた。 

発達障害の人間を多く採用する会社がある

Yが今、金を稼いで生きていられるのは、他を圧倒する知力があったからだ。見方を変えると、それだけの能力を持っていても、通常の職場では、他人の言葉の意味を正確に受け取れなかったり、場の雰囲気を悪くする発言を繰り返したりすると、周囲から浮き上がってしまう。その結果、仕事を続けていくことができなくなるケースもある。その最悪の例が、転職を繰り返していた頃のYだった。 

 

では、発達障害を抱える人間が、普通の人たちと一緒に職場で仕事をすることは不可能なのか? 

僕は「そんなことはない!」と声を大にして言いたい。特に今、発達障害を抱えながら、懸命に自分の"居場所"を探して就職活動に挑んでいる学生には、 

 「絶対に諦めるな。君たちを受けて入れてくれる職場は、必ずどこかにある!」

と呼びかけたいと思う。 

確かに発達障害、それも僕のようにASDを抱える人間には、「他人の気持ちがわからない」という特徴を持つ者が多い。でも、裏を返せば、それは「妥協しない」という長所に転化する。 

また、発達障害を抱える人間には「特定の物事へのこだわりが極端に強い」という特徴を持つ者も多い。それは、職種によっては「集中力が高く、粘り強い」と長所にも十分になりうる。 

実際、そういうことを考えて、積極的に発達障害の人間を人材として生かしている会社もある。デンマークのあるIT企業は、ASDの人間を意図的に多く採用しており、社員の75%がASDだという。この会社は、膨大なプログラムの中から細かい間違いを見つけ出すという仕事を彼らに託し、大きな実績を挙げているそうだ 

まさに、ASDに特有の「集中力と粘り強さ」や「細部への極端なこだわり」を最大限に発揮させている。そういう職場は、世界を見渡してみればまだ他にもあると聞くし、近い将来、日本にも登場して、増えていくのではないか。

仮に、発達障害を持つ者を積極的に雇用している会社が見つからなくても、諦める必要はない。職場に1人でも、発達障害に特有の言動を理解してくれる同僚や上司がいれば、まずはそれで十分なのだ。そして、そういう職場なら日本にも存在する。 

なぜ断言するかというと、就職活動に悪戦苦闘した末、偶然にもそんな職場を見つけることができたのは、僕だからだ。ASDを抱えていても、周囲から浮き上がらずに、十何年も続けられる仕事。僕の言動を理解してくれる同僚や上司がいる仕事。それが、僕が愛してやまない「テレビ制作マン」の仕事だった。 

〈次回に続く〉

 

2013年03月02日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第19回】
「自分の欠点がすべて武器になる職場」と

面接が何より苦手なため、就活は連戦連敗

僕の就職活動にケリがついたのは、同級生に比べればすいぶん遅く、大学4年生の初夏のことだった。 

ゴールデンウィークが明け、さわやかな季節が続いていた。しかし、僕は就職先が決まらず、毎日、不安にさいなまれていた。何よりも、僕のように人間関係の構築が苦手な者を受け入れてくれる組織が世の中にあるのかどうか、さっぱりわからないのがつらかった( 第16回参照)。

就職活動は連戦連敗だった。ほとんどの会社で、一度目の面接から先に進むことができなかったのだ。他人の感情や欲求を察知する能力が著しく低く、コミュニケーション能力に難のある僕にとって、面接ほど苦手なものはない。就活というのは、そんな残酷な事実を突きつけられる日々だった。 

たとえば、ある銀行で面接を受けたときのこと。その面接は、面接官2人対学生3人という形で行われた。面接官はまず、3人並んだ僕たち学生に対し、「皆さんが入行すると、当行にとってどんな利益があると思いますか?」という質問を投げかけてきた。 

僕はその銀行の面接を受けるに当たって、もちろん、入念な準備をしていた。当時はバブル崩壊を受け、大手の銀行や証券会社の経営危機が取り沙汰され、破綻も始まっていた時代である。「絶大なる大蔵省の庇護のもと、銀行が潰れることは絶対にない」という"日本の常識"が、根拠なきただの与太話であることが急速に明らかになりつつあった。 

僕が面接を受けた銀行も、すでに各マスコミで「巨額の不良債権を抱えている」としきりに報道されていた。そこで僕は、新聞記事を読んで、その銀行が抱えているとされる不良債権の額を細かく暗記した。 

さらに、週刊誌が「いつ潰れてもおかしくない!  銀行の隠れ不良債権は本当はこんなにある」などと煽り気味に報じていた数字も、どこまで本当なのかよくわからなかったが、正確に覚え込んだ。フォトグラフィックメモリーの持ち主である僕にとって、きわめて簡単なことだった。

銀行の面接で、良い答えが言えた!

面接官に前述の質問をされたとき、僕は、「よし、待ってました!」と心の中でガッツポーズをした。そして真っ先に「はいっ!」と手を挙げ、 

 「御行はA建設に○○○億円、B不動産に□□□億円・・・という具合に、貸し倒れが懸念される融資先を多く抱えています。週刊△△という雑誌によると、さらに×××億円の隠れ不良債権があるとされています」

と、畳みかけるように数字を細かく列挙していった。面接官2人は「ほおーっ」と言うように軽くあごを上げ、共に鋭い視線で僕を見ている。 

 

我ながら、立て板に水のように流暢に喋れている。この面接はうまく突破できるかもしれない・・・。そう思うと嬉しくなって、さらに、 

 「私は数学のサークルに入っていて、数字には強いし、潔癖な性格なので、審査部に配属して頂きたいと思います。そうすれば、バブル時代のような杜撰な融資は絶対に許しません。不良債権の増加は阻止します。そういう形で、御行のために大いに貢献できると自負しています」

と言い切った。面接官たちは、真剣な表情のまま黙っている。数秒間、沈黙が流れたが、僕は、 

 「きっと2人とも俺の答えに感心しているのだろう。話し終わった後の俺の様子も観察しているのかもしれない。この銀行についてきっちり調べてきたことも、積極性も、かなりうまくアピールできたな」

と静かな満足感を覚えていた。他の2人の学生は、同じ質問に対して、 

 「御社の投資銀行業務に非常に興味があり、独自に勉強もしています。まだ日本の金融機関がさほど本格的に力を入れている分野ではないと思いますが、私はその一員となってチャレンジし、パイオニアとして、御行の業績の向上に役立つつもりです」

 「今や日本の金融界も、積極的に海外展開に打って出るべきだと思います。私は英語が得意なので、御行に入行したら、国際化の先頭ランナーとして、世界中で汗をかいて頑張ります」

などと答えていた。僕はひそかに、「こいつら、何だか当たり障りのない、マニュアルに書いてあるようなことばかり言ってるな」と思った。面接官たちは微笑を浮かべ、ときどき相槌を打ちながらそれを聞いていた。答えの陳腐さに苦笑し ているかのように見えた。

うまくやったつもりが、実は地雷を踏んでいた

やがて面接が終わり、僕たち3人の学生は一緒に銀行を出た。誰が言い出すともなく、お茶でも飲みながら情報交換をしようということになった。近くの喫茶店に入って席に着き、互いに自己紹介を終えると、「投資銀行業務に興味がある」と言った学生が僕にこう話しかけてきた。 

 「奥村君、面接では凄いこと言ってたね。驚いたよ」

すると、「海外展開を頑張る」と言った学生もこう応じた。 

 「そうそう。実は俺も、面接官に質問されるのと同時に奥村君があんなふうに答えるから、びっくりしてたんだ」

 

 

「そう言われると嬉しいな。実は俺も、今日は結構うまく話せたという自信があるんだよ。不良債権の額をきっちり覚えたのが、あんなに役に立つとは思わなかった」

僕が答えると、2人は顔を見合わせた。やがて、「投資銀行業務」がおずおずと口を開いた。 

 「申し訳ないけど、驚いたというのは、正直、悪い意味で言っているんだよ。わかるだろ? 君さ、銀行に入ろうっていう面接で、よりによって不良債権の話をしたんだぜ」

 「なぜ、それがいけないの? 『不良債権を増やさない』『杜撰な融資を許さない』って、健全経営のためのいい目標じゃないか。面接官も何も言わなかったよ」

それに対し、今度は「海外展開」が答えた。 

 「気がつかなかったの? 奥村君がのっけから不良債権の話を始めた瞬間、面接官は2人とも顔色をガラリと変えていた。あれは明らかに怒ってたんだよ。脇で聞いているこっちの方が、『ヤバい!』と思って焦りまくってたんだ」

 「でも、不良債権問題って、大きな社会問題じゃないか」

 「そんなことは誰だってわかってるよ。だから、銀行の面接では安易に口に出してはいけないんだ。不良債権っていうのは、銀行にとって最も洒落にならない、ヤバすぎる、真っ黒けっけな話題なの。かろうじて話してもいいのは、面接官に『不良債権問題をどう思いますか』と聞かれたときだけだろ」

 「・・・」

絶句してしまった僕に、再び「投資銀行業務」がこう言った。 

 「奥村君は『杜撰な融資は許さない』とか『不良債権は増やさない』と言ってたけど、ちょっと前までは、多くの銀行員が競って杜撰な融資をして、不良債権を膨らませてきたんだ。今日の面接官2人だって、その可能性が高いと思う。

そんな微妙な話題なのに、いきなり不良債権の数字を一つ一つ列挙されたら、刃物を突きつけられたような気分になるに決まってる。苦虫を噛み潰したような顔にもなるのも無理はないよ。しかも、奥村君は最後にまたその話を繰り返していたし・・・」 

 

そうだった。面接が終わりに近づき、面接官から「最後に話しておきたいことがあれば、ご遠慮なくどうぞ」と言われたとき、僕はまた勢いよく挙手して、「とにかく私は御行と金融界を苦しめ、日本を蝕んでいる不良債権を退治するために頑張ります!」と大見得を切ってしまったのだ。 

最初にうまく質問に答えられたという満足感と高揚感で口走ったのだが、実は、ただ自分の傷を広げていただけだったらしい。面接官が僕の答えに感心していたというのも壮大な勘違いで、彼らは逆に怒っていた。順調に走っているつもりだったのが、本当はとうの昔に地雷を踏んで木っ端みじんになっていたのだ。 

僕は惨めさに打ちのめされた。やっぱり俺は人の気持ちがまったくわからないのか。これまで、後天的な「学習」によって、ある程度は人の気持ちを理解できるようになったと思っていたのに、就職活動ではまったく役に立たなかったじゃないか・・・。なまじ力を入れて、不良債権の額を覚えるなどの準備をしてきたことが、情けなさに拍車をかけた。 

 「じゃあ、俺、この面接、落ちちゃったのかな?」

僕がぽつりと漏らすと、2人とも気の毒そうな表情になって黙ってしまった。数秒後、「投資銀行業務」が小さな声でこう言った。 

 「奥村君、これからもどこかの金融機関を受けるのなら、絶対に自分から不良債権の話はしちゃいけないと思うよ」

僕の問いに対し、「YES」と答えたのも同じだった。 

余計なことばかり言って、面接官を次々と怒らせる

他の会社の面接でも、僕は失敗を続けた。相手(面接官)の顔色を見ながら、 それに合わせて話を変えることができないからだ。いや、そもそも、相手の顔色やしぐさから、その気持ちを推し量るということができない。

 「自分の長所を説明してください」と求められたときは、「私には見たものを映像として覚えてしまう能力がありまして」と、フォトグラフィックメモリーの話(第4回参照)を始め、「子供の頃にはスポーツの記録集を丸ごと記憶しました。その内容は・・・」とか「『ザ・ベストテン』の順位は今でもかなり覚えています。たとえば・・・」などと延々と語り続け、しまいには面接官に「もうその話はやめてください」と遮られた。

また、面接官の話の内容の矛盾点をしつこく指摘し続けて、「あなたは当社に面接に来たんですか? それとも無意味な議論をしに来たんですか?」と呆れられたこともある。他にも、

 「御社は『大胆な国際化戦略を取る』という経営方針を打ち出していますが、経営陣は、昔ながらの国内営業の出身者ばかりですよね。国際畑の人は大半が傍流に行っているようです。これでは、将来もなかなか昔ながらの根性論から脱却できないんじゃないですか? 本当に大胆な国際化を進めるつもりがあるんですか?」

 「御社の企業案内には『現場力で成長していく会社です』とありますけど、これまでのトップとその候補になった方々の経歴を見ると、ほとんどが、入社時から企画部門や人事部門、あるいは役人と折衝するような部門で上がってきていらっしゃいます。そういう、現場の経験がない人たちに、現場の人材の力を生かすことはできるのでしょうか?」

などと聞いたときは(今にして思うと、本当に意味のない質問だ)、いずれも追い払われるように面接を終えられてしまった。「傍流」だの「現場の経験がない」といった表現も、おそらく生意気で無遠慮だとして面接官を刺激したのだろう。もちろん、面接にはすべて落ちた。 

いつも、「今度こそは面接官の感情を害さないように注意しよう」と思って臨むのだが、自分の答えに対する相手の思惑がまったくわからず、どうしても似たようなことを繰り返してしまう。こうして僕は、面接で落とされるたびに、自分が全否定されているような気持ちになり、「やっぱり俺はダメなのか」とひたすら落ち込んだ。 

そんなどん底の精神状態の中、僕は、Numbers研究会で2年上の先輩だったKさんを訪ねたのである。たまたまサークルの部屋で、OBの連絡先を記したノートをめくっていて、Kさんの名前を久しぶりに見たのがきっかけだった。 

自分と同じタイプの先輩を訪ねて

Kさんは、小さなテレビ局で働いていた。僕はそれまでも、サークルのOBが働いている職場をいくつも訪ねていたが、自分がテレビ局を訪問するとは、直前まで少しも考えていなかった。 

当時、僕がテレビ業界の人たちに対して持っていたイメージは、「自分とはまったく異質な存在」というものだった。軽いノリで、誰とでもすぐに仲良くなってしまいそうな人たちばかりの世界、という印象を抱いていた。つまり、人間関係を築くことが苦手な僕とは正反対の、他人と器用にコミュニケーションが取れそうな人間が行くところだと思っていたのだ。 

記者、アナウンサー、カメラマン、ディレクターと職種の呼称を聞いても、地球ではないどこかの惑星の生き物のように思えた。そもそもテレビ業界の内側について、僕は知識や情報をほとんど持ち合わせていなかった。 

 

にもかかわらず、Kさんに会ってみようと思ったのには理由があった。大学に在学していたときのKさんと、僕は非常に気が合ったのだ。Numbers研究会ではずいぶん多くの会話を交わし、酒を飲み、ときに学年の差も意識しなくなるほど親しくしてもらった。

多くの先輩、同級生、後輩の中で、Kさんほど自分に近いタイプの人間はいないのではないか---。僕はずっとそう感じていた。 

確かにKさんは、僕と共通する点が多かった。 

まず、僕と同じフォトグラフィックメモリーの持ち主だった(そのくせ、大学の成績が今一つだということも似ていた)。Kさんも僕も時間に極めて厳密で、どんな作業をするときも、事前に細かい計画を作ることは絶対に欠かさない。飲み会や合宿の幹事はいつもKさんの役回りで、スケジュールはやはり分単位で決めていた。 

新入生歓迎の飲み会のときなど、Kさんは必ず「19時 ○○駅改札前に集合」「19時05分 ○○駅前の居酒屋△△に入店」「19時08分  全員着席」「19時15分 乾杯」・・・などと細かく書いたスケジュールをコピーして、全員に配るのだった。それを露骨にあざ笑う者もいたし、新入生などの中には気持ち悪がる者もいたが、僕はそういう様子を見るたびに、自分が嘲笑されたり嫌悪されたりしているかのような、悲しい気分になった。

「嫌われやすい人」が、本当にテレビで働けるのか

少し違うのは、Kさんの方が僕より話術が巧みだったことだ。いったん彼が口を開けば、出てくるのは抱腹絶倒の笑い話ばかり。正直言って、僕はKさんに笑わせてもらうのが楽しみで、親しくしていたところもあったと思う。 

でも、後で冷静に振り返ってみると、Kさんがしていたのはいつも自分の話。はっきり言ってしまえば、自慢話ばかりだった。 

 「俺の記憶力って昔も今も凄いからさ、子供の頃から、カードゲームもボードゲームもほとんど負けたことがないんだよ。でも、金を賭けてやるときは、あんまり勝ちすぎるのも不自然だから、少しは負けなきゃいけないんだけど、それが俺にとっては難しくてさ・・・」

といった調子で一人でベラベラ喋りまくり、僕がどんな相槌を打とうが一切聞いてはいなかった。僕の気持ちを推し量ることもなかったと思う。それでもKさんの話はひたすら楽しくて、不快な思いをしたことは一度もなかった。 

あるとき、Kさんの子供の頃の思い出話を聞いていて、やはり僕と似たところがいくつもあるのがわかり、嬉しかったことがある。中身は違うが、Kさんも僕も、母親の胎内にいたときの記憶があった( 第4回参照)。しかも、子供時代にうっかりその話をすると、周囲から「嘘つき!」と罵倒されたという苦い経験まで一緒だった。

 

小学校時代のKさんは毎年、2月のバレンタインデーになると、行動には移さなかったものの、「なぜ自分にチョコをくれないの?」と女の子たちに聞いて回りたいと思っていたそうだ。これを実際に行動に移していたのが僕である(第10回参照)。

さらにKさんは中学生の頃、自分が周囲の人たちから嫌われていることを知り、愕然とした。それでも何とかその境遇を脱するべく、必死で人間観察を始め、社会の中で生き延びようと頑張ってきた。僕にも高校時代、それとそっくりの経験があり、やはり周囲を観察して「学習」した結果、何とか人間集団の中で生活することができた( 第11回参照)。

そんなふうに僕と同じ特徴ばかり持つKさんが、なぜ、器用なコミュニケーション能力が必要不可欠な(と思える)テレビ局で働いていられるのか、さっぱりわからなかった。Kさんを訪ねたのは、自分の就職だけではなく、その理由が知りたかったからでもある。 

先輩の問いに対し、失礼な答えを言う

Kさんは、自分の勤務先から近い待ち合わせ場所に、学生時代とあまり変わらない地味な格好で現れた。 

ごく普通の白のワイシャツに、どちらかと言えば野暮ったく見える紺のスラックス。手には、ぼろぼろになった分厚い手帳を抱えていた。 

その手帳は、学生時代に「スケジュール魔」と呼ばれていたKさんが、当時から決して肌身離さなかったものだった。勝手に思い描いていた軽く華やかなテレビマンのイメージとは、かなりかけ離れた印象だった。喫茶店に入り、席につくや否や、K先輩はこう言った。 

 「久しぶりだね。相談って何? 俺はこの後、37分しか時間が空いてないよ」

 「30分くらい頂ければ大丈夫です。実は今、就職活動をやってまして、テレビ局の仕事の様子をお聞きしたいんですよ」

僕が訪問の目的を伝えると、Kさんは少し驚いたようだった。ぽかんと口を開け、「お前、本当にテレビ局で働きたいの?」と尋ねてきたので、僕は正直に答えた。 

 「テレビ局で働きたいのかどうか、実は、自分でもよくわからないんです。いい加減ですみません。でも、僕とよく似たタイプKさんがどんな思いで働いているのか、本当にテレビの仕事が好きで向いているのか、それをお聞きしたいんです」

失礼な答えだったと思うが、Kさんは怒らなかった。僕の顔を覗き込むように見ると、淡々とした口調で「俺とお前のどこがよく似ているの?」と質問してきた。僕は「ここは少しくらい失礼になっても、思ったことをそのまま話した方がいい」と決心した。 

 「Kさんと僕って、共通する点がたくさんあると思うんです。母親の胎内にいたときの記憶があること、記憶力が抜群に良くてフォトグラフィックメモリーを持っていること、数学がものすごく好きなこと・・・。さらに言うと、共通する欠点もいろいろあると思います」

 「俺とお前に共通する欠点?」

 「そうです。Kさんも僕も、事前にやたらと細かい計画をきっちり立てたがるじゃないですか。時間にも細かくて、厳しい。自分も他人も、時間にルーズだということが許せない。そして、些細なことまで事実かどうかにこだわって、間違っていればしつこく追及する・・・」

 「なるほど」

『人の気持ちを考えずに細かいことばかり言い立てる』とか、『空気を読まずに些細なことにこだわりすぎる』とか思われて・・・。まあ、Kさんも僕も、そういう欠点を十代の頃から自覚できて、自分の言動をある程度は修正できたから、まだいいのかもしれませんけど。  「そういう部分を持っていると、人に嫌われやすくなるでしょ?

でも今、就職活動ではそんな僕の欠点がもろに出て、ボロボロに苦戦しているんです。面接官を怒らせているのにそれに気づかず、細かいことで議論したりして、落とされまくっているんです」 

欠点が、すべて長所になる世界

僕は続けて、面接に失敗したときの具体例もあれこれと正直に話した。Kさんは黙って聞いていた。それは、人の話を聞かずに機関銃のように喋りまくる学生時代の彼とは正反対の、意外な姿だった。 

 「だから、そんなふうに僕と同じ欠点をいくつも持っているKさんが、どうやってテレビの世界で働いているのかなって思ったんです。うまく仕事ができているのかって。テレビの業界って、アバウトで軽いノリの世界なんでしょう?」

ここでKさんはニヤリと笑うと、ようやく口を開いた。 

 「奥村、お前は何もわかってないな。お前が今、俺たちに共通する欠点として挙げたことって、テレビの世界ではすべて長所なんだよ。そういう意味で、俺やお前みたいなタイプの人間ほど、テレビマンの仕事に向いている奴はいないと思うよ」

 「はぁ? 欠点じゃなくて長所なんですか?」

 「そうだよ。考えてみろ、報道の現場でも番組制作の現場でも、『緻密で正確な計画を事前に立てておく』ほど大事なことはない。きっちりした計画なしに、番組なんて1分間も作れるものか。

それに『時間に細かい』『時間に厳しい』のも、この世界では100%誉められる要素だぜ。嫌われたり、けなされたりすることなんて絶対にない。お前は、分単位でスケジュールを決めることが変な目で見られるって言うけれど、テレビの世界は秒単位なの。

 『細かい数字や事実にこだわる』という点も、テレビの世界には素晴らしい適性だよ。特に報道の現場では何より必要だ。

放送する前に、何百という事実関係をチェックしなければならないからな。これも誉められこそすれ、非難する奴なんかいない。だから俺は、今の仕事は最高に自分に合った天職だと思っているよ」 

Kさんはこんなふうに、学生時代を思い出させるマシンガントークで熱心に語ってくれた。「そうか、俺の欠点はテレビの世界では武器になるのか・・・」と、僕は驚いて呆然と聞いていた。Kさんはふと時計を見ると、 

 「おっ、時間だ。37分なんてあっという間に経つな。そうだ、お前、スタジオを見ていくか?」

と誘ってくれた。僕は大声で「はい!」と答え、勘定を済ませて喫茶店を出たKさんに付いていった。 

恐る恐る入った初めてのテレビ局は、地方の小さな局でもあり、廊下を歩いても、芸能人を見かけるなどということはなかった。清掃係のおじさんやおばさんは、部外者の僕を見ると「こんにちは」と丁寧に挨拶してくれた。チャラチャラしたところはなく、意外と家族的な雰囲気を持つ世界のようだった。 

廊下をしばらく歩いた後、Kさんは大きな銀色の扉の前で立ち止まった。そして、僕の肩をポンと叩くと、「ここがスタジオ。俺の職場だ」と言って扉を開け、中に入れてくれた。それが、僕とテレビの世界との初めての出会いだった。 

一生忘れない励ましの言葉

それから2時間たっぷり、Kさんの仕事ぶりを見学した。スーツ姿のベテランの記者から美しい女性アナウンサー、そして僕とほとんど同年齢のディレクターまで、何人ものスタッフが「10秒前!」などと大声で合図を出し合って、細かく収録の作業を進めていく。 

 「本当に秒単位でやっているんだ!」と僕は感動した。彼らの正確な仕事ぶりは、まさに圧巻だった。

収録が済むと、Kさんは、一仕事終えた記者やアナウンサー、ディレクター、カメラマンらがお茶を飲んでいるテーブルに僕を連れていって、こう紹介してくれた。 

 「お疲れさまです。この男は、僕の大学の後輩で就職活動中の奥村君です。奥村は『時間に細かい』とか『事実関係にこだわりすぎる』といった点を、自分の欠点だと思って悩んでいるんですが、僕は『欠点なんかじゃない。テレビの世界では立派な長所だよ』と励ましたところなんです」

すると皆、「その通りだよ。細かく時間を刻んでスケジュールを立て、実行できる人間しかこの仕事はできないよ」「細部まで事実にこだわるなんて、最高の適性じゃないか」などと言ってくれた。僕は丁重にお礼を言いながら、大学に入ってしばらくした後、数を愛好するサークル「Numbers研究会」を初めて訪ねた日のことを思い出していた。 

ここにいると楽しそうだ。飾らぬ自分でいられそうだ。嫌われずに済みそうだ---。次第に、大学1年生のあの日とそっくりの感覚が蘇ってきた。「数字」が「テレビ」に変わっただけかもしれない、と思えてきた。そして、気がつくと、思わずこんなことを口走ってしまっていた。 

 「仮にテレビの世界に入ったとしても、僕はきちんと仕事ができるのでしょうか。今、どの会社にも相手にされず、完全に自信を失っているんです。大学の『Numbers研究会』というサークルから一歩外に出ると、自分が"ダメ人間"に思えて仕方がないんです」

それに対して、Kさんの数年先輩だというディレクターがこう言ってくれたのを、僕は一生忘れないだろう。彼はゆっくりと首を横に振りながら、僕にこう語りかけてくれたのだ。 

 「違うよ。君はダメ人間なんかじゃない。個性的なだけだ。ダメ人間がそんなに悩むものか。自信を持てよ。

この世界、個性は大歓迎だ。僕も含めてみんな、君みたいに個性的な連中ばかりだよ。どうだ、来てみないか。君はきっと良い仕事をするよ」 

僕はトイレに行くふりをして廊下に出た。そして柱の陰に隠れると、下を向き、声を殺して泣き続けた。涙が溢れて止まらぬまま、心の中で「やっと僕を認めてくれる世界に出会った。やっと社会に自分の居場所を見つけられたんだ!」と繰り返し叫んでいた。 

〈次回に続く〉

2013年03月09日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第20回】 
最高の職場と、空気を読まない超優秀な先輩たち

「君の頭の中には、宝の山がある」

どの会社へ面接に行っても落とされまくり、ずっと沈んだ気持ちで就職活動を続けていた大学4年生時代の僕。それは、今にして思うと、ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える者に特有の「空気を読めない」「相手(面接官)の気持ちに配慮できない」「細かいことばかりにこだわって話す」といった傾向によるところが大きかった。 

とにかく、面接を受けるたびに、その会社にとってタブー的な話題や社員が嫌がりそうな話題を滔々(とうとう)と語ったり、細かいことで面接官の矛盾を追及したり、無意味な議論をふっかけたりしていたのだ。しかも、そういうときは、自分が結構いいことを言っているつもりでぺらぺら喋っていたのだから、もう救いようがない。会社としては、真っ先に落としたくなる人間だろう。 

そんなお先真っ暗な状況で、Kさんというサークルの先輩を訪問したときに会ったテレビ局の人たちが、僕を救ってくれた。自分が欠点だらけの"ダメ人間"なのではないかと悩む僕に対し、彼らは「それは欠点ではない。個性だ」「君が欠点だと思っていることこそ、テレビの世界では長所なんだ」などと励ましてくれたのだ( 前回参照)。

感激した僕は、テレビ業界をめざすことにした。やはりいろいろとテレビ関係の会社の面接を受けたのだが、細部にこだわる点や記憶力が良い点などが評価されたらしく、数社で一次面接を突破することができた。 

 「私は昔の『ザ・ベストテン』の順位をかなり覚えています」と言うと、メーカーや金融機関では「気持ち悪い男」「おたくっぽい奴」として面接官に"引かれて"しまうが、テレビの世界の面接官は「へぇ、凄いね」と逆に身を乗り出してくる。そこから昔の歌謡曲シーンの話になり、僕が楽しそうに、かつ極めて正確に当時のことを語るので、面接官もあれこれ思い出を話し始め、面接というより雑談のようになって大いに盛り上がったりもした。

スポーツの記録集の中身を暗記している話をしても、「そんな何の役にも立たないことにエネルギーを使うなんて、少しおかしいんじゃないの?」という反応を返してくる人が多いが、あるテレビ局の面接では、面接官から「君は本当によくいろいろなことを覚えているね。頭の中に宝の山があるようなものだなぁ」と感心された。 

 「宝って何ですか?」と尋ねると、「企画のネタだよ」という答えが返ってきた。

 

僕は結局、気の合うサークルの先輩・Kさんと同じテレビ局に入社することになった。Kさんにも、親切な言葉をかけてくれた仲間の人たちにも感謝と親しみを感じていたので、本当に嬉しかった。面接を通じて、自分にテレビの仕事への適性があるらしいということも何となくわかってきており、僕は「入社したら頑張って働こう」と張り切っていた。

"個性"を持つ人たちが嫌われず、尊重される職場

それでも心配はあった。大学を卒業し、テレビ局に入社して、研修期間を終え、職場に配属されるところまでは順調だった(当たり前だが)。しかし、「肝心の職場で、本当に俺は人間関係を築けるのだろうか」という不安は相変わらず消えなかった。 

幸い、それは杞憂(きゆう)に終わった。職場で一日また一日と過ぎていくにつれ、僕の気持ちはどんどん明るくなっていった。いきなりテレビの現場に放り込まれて、仕事はかなりハードだったが、そんなことはどうでもよかった。 

僕がハッピーな気分になった理由は簡単だった。周囲の人たちの多くが、「時間に細かい」「数字が好き」「些細なことにこだわる」「記憶力がよい」「人の気持ちを考慮せず、事実関係のみに基づいて議論する」など、僕と似た特徴を持っていたからだ。前の席の記者の先輩も、隣の席のディレクターの先輩も、そして直接の上司となる部長も・・・。 

 「なんだ、同じ仲間ばかりじゃないか」と、僕は半分嬉しく、半分拍子抜けしたような気持ちになった。当時の僕は、まだ発達障害という概念を知らなかったが、自分と共通する傾向(つまり発達障害を持つ者に独特の言動)を見せる人が職場に明らかに多いことはすぐにわかった。

もちろん、医師が同僚たちを診断したわけではないので発達障害だと断言はできないし、テレビ局という職場でも、さすがに発達障害を持っていない人の方が多かったと思う。でも、「今考えると、たぶん俺と同じASDだったんだろうな」と思わせる人の割合は、社会一般よりもかなり高かったし、何よりも重要なのは、そういう人たちも別に職場で嫌われているわけではなく、むしろ、尊重されている雰囲気があったことだ。 

そう、そこでは僕の欠点が、まさしく「個性」になり得るのだった。「個性的」な人たちがたくさんいて、自分の特質を仕事に生かしている職場だったのだ。 

 「昨年、この会社に先輩訪問に来たとき、Kさんと周りの人たちが言ってくれたことは真実だったんだな・・・」

配属されてから1週間後、僕はこう思ってホッと胸をなで下ろしていた。 

 

相手と論理的に話せば、圧倒的な結果が出る

部長のFさんは報道記者の仕事が長く、20代の頃から何度もスクープを放ってきたという、いわばスター記者だった。社内だけでなく、社外のメディア関係者からも「伝説の人」などと呼ばれていた。 

こう聞くと、いかにも眼光鋭く、動作もテキパキと隙がない敏腕ジャーナリスト風の人物を想像するかもしれない。しかし、Fさんは一見、まったくそんなところがなかった。 

中肉中背で、二枚目でもなければ不細工でもなく、どことなくのんびりした感じで、穏やかに話す。所作もおっとりしている。常にスクープにぎらぎらと飢えている雰囲気もなく、最近の言葉だと「草食系」という印象だった。どこにでもいそうな、普通の中年のおじさんだったのだ。 

ところが、そのFさんの取材力は、若い頃から圧倒的なものだったという。他のマスコミの取材を受けない相手でも、彼が交渉すれば、どんどん出てきたり、話を聞かせてくれたりしたらしい。あるとき、Fさんは社の後輩からこう質問されたそうだ。 

そうか、その辺は極意だから教えてもらえませんよね」 どうしてスクープネタをあんなにたくさん出せるんですか?  「なぜFさんが取材を申し込むと、難攻不落だった人が次々と出てきてくれるんですか?

 「別に極意でも俺の企業秘密でも何でもない。当たり前のことをすればいいんだよ」

Fさんは淡々と答えた。後輩はなおも食い下がって質問を続けた。 

 「その『当たり前のこと』っていうのが何だかわからないんです」

 「相手と論理的に話をすることさ。俺はそれをいつも実行しているにすぎない」

 「相手の感情ではなくて、論理に訴えるということですか」

 「他の同業者がどうやって取材相手を口説いているのかは知らんよ。でも、俺は論理的に話すことしか考えていない。

相手にとって、俺の取材に応えるメリットとデメリットは何か。両者を差し引きするとメリットの方が大きくなるのはなぜか。俺の取材に応えるとどういうことが起きて、そのメリットとデメリットは何か・・・。そういうことを細かく、丁寧に、整理しながら説明していけば、だいたい相手はわかってくれるものだ」 

 「わかってくれなかったら?」

 「そりゃ仕方がない。諦めるしかない。俺だって、スクープを取れたことより取れなかったことの方が圧倒的に多いんだ。少し時間が経った頃にもう一度話をすれば、相手の状況も変わっているから、また可能性が出てくるよ。

 

同業者の中には、金とか女とか、取材先の弱味を握って揺さぶろうとする奴もいる。俺は、そういうやり方は馬鹿げていると思う。効果も薄いね。 

一時的にはネタが取れるかもしれないが、それが終わったら後は何も出てこない。論理的に理解し合った相手の方が、長く信頼関係を作れるものだよ」 

 「でも、相手の弱味でも何でも、使えるものは使うという考え方もあるんじゃないですか?」

 「そういうやり方をする奴を、俺は別に非難はしない。そうしたければすればいい。でも、俺の方が圧倒的に結果を出している」

文章にすると自慢しているように聞こえるが、実際にはまったくそんな雰囲気はなかったという。僕も、現実のFさんを知った今ではそれがよくわかる。彼は「論理的に話した方がスクープを取りやすい」「自分は圧倒的に結果を出している」という事実を、何の感情も込めず、完全に客観的に話しただけなのだ。そのときの落ち着き払った声を、僕はありありと想像することができる。 

自分が報じたスクープの全カットを記憶している

Fさんの話は、仕事に関するものだけでなく、飲み屋での雑談でも、論理に一分の隙もなかった。他人の話でも、論理的に一貫していればずっと楽しそうに相手をしているのだが、誰かが情緒的に「理屈では正しいかもしれないが、現実は違うんだよ!」などと言い出すと、途端につまらなそうな表情になって、そっぽを向いてしまうのだった。 

そんなFさんが書く原稿は、極めて緻密だということで社内でも有名だった。嘘か本当かはわからないが、「入社以来、Fは一度も原稿を上司から手直しされたことがない」という伝説も持っていた。 

常人離れしていたのは、時間感覚と映像感覚だった。記者やディレクターが編集したVTRを見せると、「ここのカットは10分の1秒短くした方がいい」などと、たちどころにアンバランスな部分を指摘して、修正させた。秒単位ではなく、10分の1秒単位である。新人時代の僕にはよくわからなかったが、経験を重ねた今では、その凄さに溜め息が出てくるくらいだ。 

偉そうなところのまったくないFさんだったが、たった一つだけ、同僚に自慢したがることがあった。酒を飲むと、よく「俺は、自分のスクープがニュースで放送されたときの全カットを覚えているんだぞ」と嬉しそうに語るのだった。 

カットとは、編集された一つ一つの映像のことで、短ければ数秒のものもある。普通の記者なら、スクープの内容やスクープの数を自慢するものだ。しかし、放送したニュースの映像の中身、しかも個々のカットまで細かく覚えていることを自慢するのが、Fさんならではの特徴だった。 

僕がFさんの下に配属されて間もない頃、ある先輩(つまりFさんにとっては部下)が、忘年会の席でその真偽を確かめようとしたことがある。その先輩は、事前に社で、10年ほど前にFさんが某銀行に関するスクープを報じたニュースの映像を見て、"準備"をした。

そして、居酒屋で行われた忘年会の途中、いきなり「部長が10年くらい前にスクープした○○銀行の大ネタですけど、頭から7カット目はどんな映像だったか覚えてます?」と尋ねた。ゆっくりと酒を飲んでいたFさんにカラむようにして、突然、質問をぶつけたのである。 

座は静まり返り、皆、固唾を呑んでFさんの反応を窺った。横で見ていた僕は、Fさんが「そういう話は素面のときにやろう」と適当にあしらうのではないかと思った。あるいは、先輩がFさんの会話をかなり乱暴に遮る形で質問したため、怒らせた可能性もあった。 

ところがFさんは、黙って腕組みをして目を閉じ、じっと考え始めた。そして数秒後、おもむろに口を開くと、「主人公の顔アップだ」と答えた。 

 「せ、正解です・・・」と言ったまま、先輩は絶句してしまった。Fさんは、表情も変えずに再びちびちびとビールをすすり始め、僕の目にはそれが何とも格好よく映った。やがて先輩が絞り出すような声で、「部長、なんで10年前のカットのことまで細かく覚えてるんですか?」と聞くと、Fさんは、他人事のようなのんびりした口調で答えた。

 「俺、見たものはだいたい覚えちゃうんだよ。一回じゃ難しくても、三回見れば記憶に刷り込まれちゃうんだよね」

 「あーっ!」と大声を上げたのは僕だった。何ということだろう。Fさんは僕と同じ、桁違いのフォトグラフィックメモリーの持ち主だったのだ。突然それがわかった嬉しさで、僕は思わず叫んでしまっていた。

さっそく周囲の先輩たちから、「どうしたんだ奥村?  もう酔っ払ったのか?」と突っ込みが入った。僕は「すいません。僕、記憶力のいい人を見ると、ものすごく感動しちゃうんです」などと適当なことを言いながら、目の前のビールを一気に飲んだ。自分の"同類"が上司だなんて、最高の環境じゃないか、とワクワクしながら・・・。

毎日、資料をなくし、必ず同じ場所で躓く

そんな優秀なFさんだったが、困った"個性"もいくつかあった。 

一つは、身の周りの整理整頓ができないことだった。机の上はいつも書類が散乱し、紙コップが何個も転がっていた。紙コップの内側にはよく、コーヒーの飲み残しの水分が蒸発した後の、焦げ茶色の成分が汚くこびり付いていた。そこにカビが生えていることもたまにあった。 

まさに目も当てられない有様だった。アルバイトの若い女性は、そんなFさんの席に近づくのを露骨に嫌がった。仕事では神経質なほど細やかに物事を進めていく人の机とはとても思えなかった。しかし本人には、整理しようという気などまったくない。 

Fさんはまた、毎日のように「あれ、資料がなくなったぞ!」と騒いだ。そのたびに、部下の記者やディレクターが机の上を探して、見つけてあげなければならなかった。その"仕事"は当然、新人の僕がやることが一番多くなる。

と言っても、本当にFさんが資料を紛失してしまったことは一度もなかった。ごちゃごちゃした机だったが、散乱する書類をかき分けて探せば、すぐに見つかるのが常だった。 

やがて、探す手伝いをしているうちに、僕はFさんの"紛失癖"の特徴に気づいた。たとえば、ある書類を、いつも置いてある場所からほんの少し(同じ机の上のわずか数十㎝でも)移動させただけで、Fさんには見つけられなくなってしまう。少しだけ視線を動かせばその書類が目の前にあるのに、だ。 

頭の良いFさんに、なぜそんな簡単なことができないのか、僕はいつも不思議だった。僕の推測だが、あまりにも優れた映像記憶力を持つFさんは、いったん書類が置かれている位置を視覚的に脳に刷り込んでしまうと、それ以外の場所にあるということ自体が考えられなくなるのかもしれない。 

同じ理由によるのだろうが、Fさんは、オフィスの机の配置を変えるとよくパニックに陥った。たとえば、それまで通路だった場所にダンボール箱が置かれると、以後の数ヵ月間、彼は毎日のようにそれに躓(つまず)く。そして、そのたびに恐慌をきたして「うわぁ!」と死にそうな声を上げるので、僕も初めはずいぶん気の毒に思った。しかし、やがて慣れてしまうと、ただ「うるさいな」と感じるだけになり、同情する気持ちはしぼんでいった。 

あるとき僕は、Fさんの奥さんに会ったときにこの話をしたところ、奥さんはおかしそうに笑い出した。そして、「あの人は、家の中でも、家具の置き場所を変えると必ず躓くんですよ。それで『うわぁ!』って叫ぶんです」と説明してくれた。どこでも同じことをやっているのがわかり、僕も吹き出してしまった。 

そんなふうに、ある意味で何とも傍迷惑なFさんだったが、僕も含めて部下は皆、彼に心服していた。仕事の能力が抜群だったからだ。だから、多少の奇妙な行動を気にする者など誰もいなかった。 

恥ずかしがる様子もなく、壁に向かって語りかける

もう一人、僕の隣の席に座り、手取り足取り仕事のことを教えてくれたAさんという先輩のことも忘れられない。 

Aさんは当時、まだ20代だった。その若さで、政治、経済からスポーツ、芸能に至るまで、幅広い分野に深い知識を持つ優秀な制作マンだった。 

僕がAさんの不思議な"個性"に最初に気がついたのは、偶然の出来事からだった。その日、僕は午前中から片づけなければならない仕事が大量にたまっており、いつもより2時間ほど早く出社した。 

早朝であり、会社の周囲には誰もいない。玄関に入ろうとしたとき、ふと、そこから十数メートル離れたところで、なぜか会社の建物の外壁に向かって立っているAさんの姿に気づいた。壁と彼の間は、50㎝くらいしか離れていない。

僕は挨拶をしようと思って近づいていったが、Aさんが何をしているのかがわかった瞬間、「うっ」と息を呑んで立ち止まってしまった。彼は、目の前に壁に向かって何やらブツブツと独り言を言っていたのだ。 

Aさんって、実は危ない人だったのか?」  「何を喋っているのだろう?

正直なところ、何とも気味が悪かった。それでも好奇心にかられてさらに近づき、耳をそばだてて聞いてみると、Aさんはなぜか、壁を前にして立っているのに、目の前に誰かがいるかのように会話調で話しているのだった。 

 「日本の不況は・・・ですか?」とか「政治改革は・・・と思われますか?」などと壁に向かって質問し、そのまま壁を見ながらウンウンと頷き、そして再び質問する。それを延々と繰り返していたのである。

僕は思い切って、「Aさん、おはようございます。何をやってらっしゃるんですか?」と尋ねると、彼は特に悪びれた様子もなく、ケロリとした声で、 

 「おう、奥村か。早い出勤だな。俺はさっきから、今日のインタビューのシミュレーションをやっているんだよ」

と答えた。聞いてみると、その日の午後、Aさんはある政治家にインタビューする予定になっているのだが、相手から返ってくる答えを事前にあれこれ想定し、それに対するさらなる質問を何十通りも考えて、声に出してシミュレートしていたというのだ。僕は驚いて聞いてみた。 

 「それって、どんな効果があるんですか?」

 「壁の前に相手がいると想像して質問を重ねていけば、その相手が勝手に喋り出してくれるんだよ」

 「Aさんの想像の中で、相手が話し始めるんですか?」

 「そうそう。俺はもともと、本番のインタビューで相手にどんなことを話されても、即座に再質問で切り返せるように、いつもあらゆる答えを想定して、シミュレーションをしていたんだ。それがうまく行くと、想像の中で会話が始まる。そういうときは、本番のインタビューも成功するものだよ。

仮に10分しかインタビューの時間がもらえなくても、こうやって事前に1時間は想定問答を繰り返す。それが俺の流儀だし、うまく取材するコツの一つなんだ」 

胸を張って語るAさんの話を聞きながら、僕は、就職活動で会った先輩のKさんが「事前に細かい計画を立てることが好きな人間は、テレビの仕事に向いている」と説明してくれたことを思い出した。そして、Aさんが若手ながら非常に優秀な制作マンだと評価されている理由の一つを知ったのである。 

Aさんは「ごめん、また続けるから」と断って、僕が見ているのに恥ずかしがる様子もなく再び壁と向かい合い、「現政権をご覧になって・・・はどうでしょうか?」などと想像の中で質問を始めた。さらに十数秒間、微笑して頷いてから、「その改革案は現実性に乏しいのではありませんか?」などと反問している。 

一般の人が見たら不気味な光景だろう。しかし僕は  「なるほど、これだけ緻密にシミュレーションするのなら、良い仕事ができるのも当然だろうな」と感心していた。

1時間の会議で30分も"独演会"を

そんなAさんが、もう一つの"個性"を遺憾なく発揮する場もあった。週に一度、制作担当者が集まって企画を出し合う「提案会議」だ。いつも会議の口火を切り、誰よりも面白い企画を提案するのは、最も若い(僕を除けば)Aさんだった。 

問題は、Aさんが提案を説明する時間の長さだった。話術が巧みなので、聞く方の僕は面白がるばかりでさほど気にならなかったが、とにかく彼は話が長かった。会議の冒頭に真っ先に挙手して発言を求め、進行役の先輩に「じゃあ、A君」と指名されると、それから一人で一方的に話し続ける。 

企画の趣旨から細部まで、まるで膨大な原稿を暗記してきたかのように早口でまくし立てるので、誰も口を挟む隙がない。しかも話がうまいので、多くの人が聞き入ったり、思わず笑いを漏らしてしまったりする。ほとんどエンターテインメントである。その結果、全体で1時間の会議のうち、Aさん1人が前半の30分を独占してしまう、などということもよくあった。 

周りは先輩ばかりの会議で延々と自分の提案ばかり語るというのは、組織の中で、なかなかできることではないだろう(というより、先輩たちの感情に配慮して、ほとんどの人はそんなことはしない)。しかしAさんは、配慮や気配りなどどこ吹く風という感じだった。 

別に気負った様子もなく、他の出席者を見下した様子もなく、普段の会話のように喋りまくる彼は、「俺の企画は圧倒的に面白いのだから、たっぷり時間をかけて説明するのは当たり前のことだ」とごく自然に考えているようだった。 

ただし、さすがに30分も独演会をされてしまうと、誰かが止めなければならなくなる。結局、進行役に「君の提案はよくわかった。もうそれくらいでいいだろう」と遮られるのだが、そのときのAさんの反応がまた特別だった。 

まず、ぽかんと口を開けて、「なぜ、こんなに面白い俺のプレゼンが中断されるのだろう」と言いたげな驚愕の表情となり、次に憤懣やるかたなしといった様子で眉を吊り上げ、爪を噛み始めるのだ。 

不思議なのは、この「長時間の企画提案」→「中断」→「ぽかんと口を開けて驚く」→「憤りの表情で爪を噛む」というパターンが毎回のように繰り返されることだった。多くの人は、一度こういう経験をすれば、「一人で長く話し続けると途中で遮られる」ということを学習するものだが、Aさんがその"学び"を得ることはないのか、提案を遮られるたびに、同じように驚愕と憤懣を露わにするのだった。 

話を途中で止めさせられたAさんは、ひとしきり爪を噛むと、また発言を始める。といっても、今度は、自分の企画をプレゼンしている先輩たちに容赦ない意見を浴びせるのだ。 

発言者の話に、どんなに些細なレベルでも論理の齟齬や誤った情報が含まれていたら、Aさんは必ず「ちょっといいですか?」と手を挙げ、「今のお話に出た数値に誤りがあります。正しくは・・・です。事実関係と企画内容のロジックにも整合性がありません。本来は・・・となるべきです」などと指摘するのだった。 

先輩のプレゼンを「聞くだけ時間の無駄」と評した

面白くない企画が提案されたりしたら、もう大変だ。年の離れた先輩が頑張って説明している最中でも、Aさんは目の前で「はぁ~?」「う~ん」などと大声で唸り始める。そして、説明が終わるや否や、間髪を入れずに「こんなの、面白くないですよね」と面と向かって切り捨ててしまう。 

あるとき、やはり別の先輩の提案に対して、Aさんが「こんな企画の話、聞くだけ時間の無駄ですよ」と言ったときは、さすがに数秒間、座が静まりかえった。幸い、その先輩は度量の大きい人で、「そうか、Aみたいにできる奴が面白くないと思うんだったら、やっぱり改善しなきゃいけない点があるんだろうな」と素直に受け入れた。 

先輩たちに対してこの調子なのだから、後輩の僕の企画など、当然、けちょんけちょんに言われる。僕は企画を提案するたびに、 

 「奥村、どうしてお前はこんなにつまらないことしか考えられないの?」「こんなしょうもない企画の話を聞かされる身になるとは思わなかった」

などと言われるのが常だった。一対一の場ならともかく、会議の満座の席でこんなふうにバッサリやられると、最初のうちは正直、きつかった。 

ただし、その口調は、決して僕を責めるのではなく、罵倒するのでもなく、もちろん後輩いじめの類でもなかった。僕の企画を手厳しく批判するとき、Aさんはいつも、不思議そうな、どこか淋しそうな顔をしていた。彼は心の底から、「どうして奥村はこんな面白くない企画しか考えられないのだろう?」という疑問を感じていたのだ。 

奇妙に思われるかもしれないが、後輩の僕も先輩たちも、誰一人Aさんを悪く言わなかった。皆、彼の優れた才能を認めていたし、仮に厳しい批判的な言葉を口にしても、その裏に「悪気」や「悪意」がまったくないことは明らかだったからだ。誰の企画だろうが、つまらないと思えば「つまらない」と、面白いと思えば「面白い」と、提案者に対する感情をまったく交えず、あっけらかんと口にするのがAさんだった。 

これは、僕がいた職場の非常に良い点だと思うのだが、「ダメな提案についてダメだと言うことは、全員にとって当然の権利だし、義務でもある」という共通認識があった。だからAさんのストレートな意見は、重宝されることはあっても、煙たがられることは決してなかった。

もちろん、批判された人は内心悔しかったと思うが(僕も悔しかった)、皆、「自分のアイディアがボロクソに酷評されて悔しければ、もっと努力し、知恵を絞って、良い案を出せばいいだけのことだ」という明快でさっぱりした意識を、暗黙のうちに共有していたと思う。 

前述したもう一人の才人、F部長がAさんに関して言った言葉を、僕は今でもよく覚えている。 

 「俺たちの職場での序列は、年齢で決まるんじゃない。現場での能力で決まるんだ。だからAは、俺たちの中で一番若いが、仕事の現場では一番偉いんだ」

お偉方に「昔と反対のことを言われても困ります」と突っ込む

その後もAさんは、スタンスをまったく変えなかった。空気を読まず、人の気持ちを忖度(そんたく)しない率直な発言を続け、その一方で良い仕事を積み重ねている。 

いつだったか、僕も入社してからずいぶん年数が経ち、そろそろ中堅どころに差しかかっていた頃のことだった。当時、社会的に「日本企業はもっとコンプライアンス(法律、規則、社内規範などを守ること)を重視しなければならない」という風潮が高まっていた。僕の会社でも、各部署の社員たちを集めて、コンプライアンスの大切さを説明する2時間くらいの研修が開かれた。 

研修の冒頭に話したのは常務だった。現場のディレクター時代、エネルギッシュな仕事ぶりで知られていた彼は、おもむろにこう切り出した。 

 「テレビ業界というのは、他の分野よりも自由な雰囲気があります。それがクリエイティブな活力を生み出していることも事実ですが、同時に、さまざまなルールを軽視しがちな傾向や、時に法令違反につながっていることも否めません。

今の時代、テレビの制作現場でも、コンプライアンスの徹底が重要です。法律や条令はもちろん、各種ルールや規則、社会規範などに至るまできっちり守ってください」 

至極もっともな話だった。常務は一通り話し終わると、「何か意見があるかな。何でもいいから、どんどん聞いてくれ」と言って出席者を見渡した。すると、Aさんがやにわに手を挙げて、こう発言した。 

 「常務が部長だった頃、私は部下としてお世話になりましたが、当時の常務の口癖は『俺たちの仕事では、グレーな部分に踏み込んで結果を出さなきゃいけないことがある。役人みたいに法律や規則を守ってばかりで、視聴者の心に届く良いものが作れるはずがない。リスクを取って、一線を越える覚悟を持って仕事をしろ。向こう傷の二つや三つがあって、初めてテレビ屋と言えるんだ』でした。私はその通りだと思い、今は同じことを後輩たちにさんざん言い聞かせています。

それが突然、同じ常務の口から、『コンプライアンスが大切だ』と反対のことを言われても、どうしたらいいのでしょうか。今さら後輩に違うことは言えません。ハシゴを外されたようなもので、困ってしまいます」

Aさんの口調も表情も、いつものように淡々としたもので、常務を問いつめてやろうといった攻撃性や意地の悪さはまったくなかった。「何でも聞いていいよ」と言われたから、最も不可解だと思ったことを質問してみただけのようだった。 

 「プッ」と小さく吹き出す声が聞こえた。そっと周囲を見渡すと、同僚たちの多くが下を向いてクスクス笑っていた。僕も笑いを抑え切れなかった。常務はぐっと言葉に詰まったが、何とか「ええと、まあ、時代が変わったということだろうな」と意味不明の返答をすると、そそくさと会議室を出て行った。

こんなことがあった後も、Aさんが会社で嫌がらせめいた目に遭ったり、懲罰的な扱いを受けたりすることはまったくなかった。完全に一本取られた形の常務自身、Aさんが悪意のかけらも持っていないことをよく知っていたからだ。この出来事を思い出すたびに、Aさんによく似た特徴を持つ僕は、自分にとって最高の職場に出会えた幸運に感謝せずにはいられなくなる。 

〈次回に続く〉