「本物の社長を連れてこい」と言われた日

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日本電鍍工業社長 伊藤麻美さん(第1回)

 

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140117/258429/?P=1

 

 世界的にも有数のめっき技術を持つ日本電鍍工業(さいたま市)の社長に伊藤麻美さんが就任したのは14年前、32歳の時だった。

 時代は「失われた10年」から、さらに「失われた20年」に突入する節目。IT関連の新興企業がもてはやされる一方、昔ながらの「モノづくり」を行う中小企業には逆風が吹いていた。そんなマイナスの場所から、会社をよみがえらせ、育て続けているのが伊藤さんだ。

 日本型社会の中で、自ら組織を率い「できるところから、革命を起こしていく」。才職兼美の女性たちを描く新連載、スタートです。

 

 

――先ほど、会社の受付で来訪の意を告げたら、社員の方がマイクで「伊藤さん、伊藤さん、お客さまです」と呼び出してくれました。「社長」と呼ばれていないんですね。

 

伊藤:社内での関係は、全然フラットなんですよ。私だけでなく、どの役職でも、全員が「○○さん」です。

 

――社長室はあるのですか?

 

伊藤:いえ、事務所でみんなと同じ机でやっています。ちなみに社内の掃除もトイレまで含めて、みんなで平等に分担してやっているんですよ。

 

――伊藤さんは毎朝、何時に出社するんですか。

 

伊藤:みんなと同じ8時30分です。朝礼では私、大変ですよ。みんなが元気に「おはようございます」を言わないと、元気な「おはようございます」が出るまで、何度もリピートしますから(笑)。

 

――日本電鍍工業はさいたま市にあります。最寄り駅の大宮からバスで20分ほどの場所ですが、ご自宅は会社の近くなんですか。

 

伊藤:いえ、家は東京です。六本木で生まれ育ったので、やはりその近辺に愛着があって。

 

夢を追っていた米国から呼び戻されて

 

――六本木から通勤って、すごく時間がかかりませんか。車をお使いですか。

 

伊藤:いえ、普通に電車とバスに揺られて。でも1時間ほどですから、普通の通勤時間ですよね。

 

――会社は1958年にお父さまが設立。50周年を超えて、電気めっきやイオンプレーティングなど、世界でも最先端といわれるめっき技術が高い評価を得ています。伊藤さんは、小さい時から後を継ぐということを決めていたのでしょうか。

 

伊藤:いえ、それもまったく、全然、頭になかったことなんです。父が創業したのは高度経済成長の時代で、めっきのような工業技術が飛躍的に伸びたころでした。父はほかにもいくつかの会社を興していて、それぞれ軌道に乗ると後継にまかせて、また新たに起業する、という事業家でした。私自身は父の事業と関係なく、小さいころから音楽が好きだったので、それを活かした道に進んでいたんです。

 

――どんなことをされていたんですか。

 

伊藤:大学を卒業した後にフリーランスのDJになり、東京FM、J-Wave、TBSラジオなどでパーソナリティを務めていました。その仕事を8年続けた後、30歳の時に宝石の鑑定士と鑑別士の資格を取りたいと思って、アメリカのカリフォルニア州に渡って勉強をしたんです。その時点では、宝石を自分で買い付けしてデザインする、というジュエラーのキャリアを思い描いていました。

 

――それがどうして、モノづくり会社の経営者に?

 

伊藤:それにはドラマがあるんです(笑)。

 カリフォルニアにいたある日、日本から突然電話があって「会社が危ない。日本の家を売らないとだめだから、引っ越しのために帰ってきて」って。

 父は私が23歳の時に病気で亡くなり、当時の会社は別の人が継いでいたんです。私は会社と関わっていませんでしたから、会社から何か援助をしてもらおうとは思っていませんでしたが、それと同時に、会社がなくなるなんてことも、まるで考えてはいなかったんです。

 「いくら大変だからって、つぶれることはないでしょ。戻ったらきっと大ドンデン返しがあるよ!」と、けっこう楽観的な気持ちで帰国したら、この私でさえ「これは再起不能かも……」と言葉を失うほど、事態は深刻でした。

 

――どういう状況だったのですか。

 

伊藤:父がいたころは好業績で、資産もあり、銀行さんとの関係も良好でしたが、亡くなった後の会社は山を転げ落ちるように悪化の一途。最盛期に200人ほどいた社員は48人に減り、10年間で借金が10億円強に膨れ上がっていました。

 

――なぜ、そんな事態に?

 

伊藤:業績悪化の要因はいくつかありました。

 まず後継者の資質の問題。後継の社長は父の敷いた路線を踏襲しないで、自分流の経営を進めたのですが、世の中で起きている経営環境の変化を理解していなかったんです。

 昭和の高度成長時代は、時計のめっきを一手に引き受けていて、それが利益を生み出していましたが、90年代以降、国内の時計市場はもう成熟していて、後は下がる一方でした。携帯電話やコンピュータ機器など、新しい市場を開拓しなければならなかったのに、そういうことに取り組んでいませんでした。

 

――昔、好調だった分野の上にあぐらをかく。ありがちですね。

 

伊藤:新市場の開拓どころか、必要のない工場を新設したりするなど、素人の私から見ても、腑に落ちないことだらけでした。

 

他人事だったのが、自分事になった瞬間

 

伊藤:しかも世の中は、「環境」がキーワードになっていて、めっき技術という化学的な分野は分が悪い。おまけにIT産業がもてはやされていて、モノづくりにコツコツと携わる工場なんてもう時代遅れ、といった雰囲気に囲まれています。そんな中で業績を回復するなんてことは、ほとんど不可能に近いと思えました。

 

――なるほど。

 

伊藤:「倒産」「閉鎖」という言葉が飛び交う会議に私も参加したのですが、当初は他人事のように「それもいたしかたないよな」と思っていたんです。

 

――どこでスイッチが変わったのですか。

 

伊藤:社員の顔が見えるようになってからです。

 町場の工場は職住隣接が多く、2代目が「工場で働く人の姿を見て育ちました」などという話も多いですよね。ただ、うちは家が東京だったので、私がそういうシーンに触れることはほとんどなかったんです。

 でも、いろいろな手続きのために会社に通うと、そこで社員が働く姿が分かるようになります。社員の顔が分かるようになると、今度はその後ろに家族の顔が見えてきます。

 会社がここでつぶれたら、子どもの進学とか、家のローンとか、みんなどうするんだろう? 私たちが会議で安易に下す結論によって、さまざまな人生が狂いかねない……そこから、コトの重大さがだんだん身に染みてきたんですね。

 

――それで、どうされましたか。


伊藤:それで私、宝くじを買ったり、誰か経営を頼めるいい人はいないかと探したり、と、しばらくは低レベルのことを必死にしてました。

 

――伊藤さんのあせりが伝わります。

 

伊藤:でも、「誰か」なんて永遠に現れないんですよ。

 

――そうですよね。

 

伊藤:そういうことを思い知る中で、自分の中に義憤が湧き上がってきて。それまで何も知らないで来たけれど、私はみんなが働いてくれているこの会社と、両親に育てられたんだ。その私が行動しなくていいのかっ、と。

 会社に恩返しするのは今しかない、と心を決めて、弁護士さんに相談に行ったんです。弁護士さんに最初に聞いたのは、自己破産のことです。分からないところを何度も何度も聞いて、分かったのは、「32歳で自己破産をしても、命まではなくならない」ということでした。それで、エイッ、と踏み切ったのです。

 

――個人保証をされたのですね。しかし、命まではといっても、32歳の決断として、とても重いことだったでしょう。

 

伊藤:「大丈夫なの?」と、いろいろな人に聞かれましたが、答えは一つ。「大丈夫も何も、やるしかないっしょ」。でも、個人保証をしたわけですから、その重さはやっぱり大変なものでした。

 先日、ちょっと時間があって友達とランチをしたんですけど、みんな年齢的なこともあって、心配性になっているんですよ。「何でそんなにいろいろ心配するの?」と私が聞いたら、「麻美に悩みはないの?」と突っ込まれたので、「私にとっては、生きるか死ぬか以外は悩みじゃないよ」と答えたんです。そうしたら、けっこう驚かれました(笑)。

 

――普通は体験することがない修羅場を潜って、覚悟を決められたんですね。

 

銀行に「ニセモノ社長」扱いされて

 

伊藤:確かにそうですよね。学生時代は「楽しいぜ!」みたいなノリもおおいにあったのですが(笑)。修羅場を乗り越えた後というのは、人間、本当に強くなるもんだなあ~、と思います。

 修羅場は経験しないで済むならそれでいいと思いますが、私は大変な壁にぶち当たるたびに、「ああ、自分ってこういう考え方をするんだ」と自己発見がありましたし、仕事をしていく女性として、守らないといけないことも意識できるようになりました。苦しい場面にさらされながら、自分というものの形が整ってきているような気はします。

 

――経営者となって、最初の壁はどんなことでしたか。

 

伊藤:とにかくお金です。まずは会社を回していく資金が必要でしたが、「業績が悪い」+「女が社長」、ということで、どこに行っても相手にされなかったんです。銀行さんにしてみれば、私はコムスメで、おまけに業績がないとなれば、慎重になるのは当然ですが……。

 

――男中心の日本の企業社会からすれば、完全に「規格外れ」ですからね。

 

伊藤:「本物の経営者を連れてきてよ。あなたじゃ話にならないから」と、面と向かって言われました。

 

――本物。若い女性経営者は偽物なんだ(笑)。

伊藤:「今に見てろ、『借りてください』と言わせてみせる」と、心の中で闘志を燃やしましたが。

 

――見返してやるぞ、と誓いつつ、社内では何に取り組みましたか。


伊藤:銀行からそのような対応をされるのも、ひとえに「数字がないから」。認めてもらうには業績を上げるしかありません。まず、経営者としての自分に与えた課題は「選択と集中」です。

 社内には電気めっきや、真空状態で表面処理を行うイオンプレーティングのほかに、溶射(表面処理の一種)といった部門がありました。溶射はめっきとは違う技術で、かつてはめっきよりも業績がよかったのですが、私が入社してから、売り上げがどんどん下がっていく。

 おかしいな? と思って調べたら、私が入社する前に、この部門の責任者が日本電鍍に将来性はないと見切って、スタッフとお客さまを連れて独立していたのです。

 その後、溶射部門で最新の設備を持っている会社を社員と一緒に視察しましたが、それを見て、当社は今後、この分野においてトップには立てないと思いました。そこで、思いきって業務からはずしたんです。

 

――スムーズに行きましたか。

 

伊藤:この部門は、設備投資を行っていたし、時代の先端を行っているような、華やかなところなんです。当然、働く社員も自負を持っています。でも、数字を見ると、イメージと現実が違うことが、よく分かります。そんな部門を閉鎖していくことは、やはり精神的にきつかったですね。

 

「人を削っても業績は回復しない」

 

――「選択と集中」が正しいとは思っても、論理と人の気持ちは、なかなか一致しませんものね。

 

伊藤:ただ、資金的にも人員的にも余裕がないのですから、広い分野で勝負をかけるより身の丈にあった方法で改善した方がベターだ、ということは、私の中では納得が行っていました。得意のめっき分野に力を入れ、そこを伸ばすことで業績改善を目指そうとしたんです。

 

――社内はうまくまとまりましたか。

 

伊藤:社員にしても、私が社長に就任したことは不安だし、手放しで「面白い、歓迎!」とはいきませんよね。社内の雰囲気は暗かったですし、耐え切れずに辞めていった人の話を聞くと胸が痛みました。

 そんな社内の不安を取り除くために、信頼関係を築くことが、とても大切でした。といっても、大層なことができるわけもなかったのですが。ただ、社内の掃除は率先して取り組みましたし、社員とのコミュニケーションには気を配りました。ちょっとした会話を、日常的にどんどん交わすんです。

 

――赤字会社が黒字転化を図る場合は、人件費の削減が真っ先に検討されると思いますが。

 

伊藤:経営のプロからもよく言われました。でも私は絶対に、社員を切りたくなかったんです。前任者が一度、そのようなリストラを行っていましたが、それで業績はよくならなかったし、それどころが社内の士気がさらに落ちたからです。だったら、違う方策を探るべきだと思いました。

 そのころ会社は創業42年で、50周年までは何としてでも存続させたかった。確かに2、3年先のことを見ると、人はいらないかもしれない。でも、10年先を見ると、人が必要なんです。

 そこで、業績に関わる数字を全部、社員全員に開示することにしました。

 

――全部ですか。

 

伊藤:現在の売り上げから経費、粗利、赤字にいたるまで洗いざらい公表しました。みんなショックを受けていましたね。
伊藤:もしかしたら、経営者としてあるまじきことだったのかもしれませんが、私だけでなく社員全員に経営の「当事者」になってもらいたかったんです。でも、その中には悪い情報だけでなく、希望につながるいい情報もあった。だから、険しい船出にもかかわらず、ひとりも辞めないで付いてきてくれたんだと思います。

 

――「選択と集中」の次は、何に取り組んだんですか。

 

伊藤:会社には腕の立つ技術者がたくさんいて、めっき技術は世界に誇れるものがあります。ですから私の役目は、とにかく市場を開拓していくことでした。

 といっても、経験やネットワークがあるわけではありません。TVや新聞を見て、「ここならめっきの需要があって、顧客になってもらえるかも」と思ったところに、片っ端から飛び込み営業をかける。その繰り返しです。

 

――たとえば、どういうところに行かれたんですか。

 

伊藤:ロボットを作っているメーカーさんがビッグサイトで展示会をしているという情報を見て、その会場に行ったり、パソコン、デジカメ、携帯電話の大手メーカーさんに電話をしたり、と。

 

――うまく行きましたか。

 

伊藤:実際は、行っては断られ、壁にぶち当たり、の連続でした。たとえば私たちは、いきなり大手メーカーさんに電話をしていたのですが、「めっきの話なら、プレス屋さんに連絡をしないと、話がつながりませんよ」と、教えていただいたり。今思うと、右も左も分からない状態でした(笑)。その状況を変えたのがインターネットです。

 ホームページ制作を外注する予算もないので、自分たちでささやかなホームページを作ってみたら、そこから問い合わせが増えていったんです。半導体の関連会社や、アクセサリー会社、医療機器メーカーなど、それまで手がけていなかった分野からの問い合わせも多く、ネットの威力というものを実感しました。

「できる」と信じる人が会社を変えていく

 

――社内意識が変わるような仕事はありましたか。

 

伊藤:ある医療機器メーカーからいただいたご依頼ですね。「どこに頼んでも断られているめっきの仕事があるんですが……」というものでしたが、私の基本は「成せばなる」(笑)。「だったらやりましょう」と受けたのですが、現場の声は「こんな難しいの、できるわけないよ」。そこを「ウチの技術ならできる」と言い続けたんです。

 

――どんな依頼だったんでしょうか。

 

伊藤:カテーテルを先導するガイドワイヤーの部分めっきでした。その部分は血管を痛めないように、ものすごく繊細な作りのバネになっています。そのバネに厚く安定的なめっきを施したい、というご依頼でした。

 

――「そんなの、どうやるんだ?」と思います(笑)。

 

伊藤:しかも、アレルギーを引き起こさないように、めっきには扱いの難しい金を使いますし(笑)。でも、ついにやり遂げて、ご依頼主から大喜びされたんです。それは社内みんなの自信につながったと思います。

 

――伊藤さんが下手に現場を知らなかったから、逆によかったのかも。

 

伊藤:それはありますよね。技術の現場にいて、守りに入ってしまうと、自分たちの優れているところも、ダメなところも、どちらも見えなくなってしまいがち。それを外から見て、受注に結び付けていくことが、本当に大事なことでした。

 自社の技術に対する自信と信頼は、私の中にものすごくありました。「ウチならできる」「あなたならできる」と言い続ける中で、できないと諦めていたことが少しずつできるようになり、社員たちが結束していったんです。

 

 

歯の神経が潰れるほど食いしばった日々

日本電鍍工業社長 伊藤麻美さん(第2回)

 

 

――危機に瀕する会社の社長に就任した伊藤さんが、真っ先に取り組んだのは「社員をリストラしないこと」でした。人件費削減が王道の中、逆説的なアプローチですよね。

 

伊藤:めっき会社のような業態の経営手法から外れていたことだったんでしょうね。「人を減らさずに、再建ができると思うのか」と、よく言われました。でも、社員を不幸にして利益を出そうとしても、会社は再生しないんじゃないか、と私は考えていました。

 もし100万円利益が増えたら、1万円ずつ100人の社員に配りたい。そういう風に考えてやっていったら、売り上げは変化しないけれど、社員の意識には変化が現れた。どういうことかといいますと、みんなが「当事者」として、会社にかかわるようになってきたんです。

 

――伊藤さんは、経営学とか社会的起業とかを学ばれたことはあったんですか。

 

伊藤:大学では経営・経済を学びましたが、MBAなどは持っているはずもなく。

 

――ご自身の判断の原点は、どんなところなのでしょうか。

 

伊藤:私は幼稚園からインターナショナルスクールに通ったんですね。生徒の国籍は60カ国にも上るところで、毎日がいろいろなカルチャーショックの連続でした。

 たとえば、インドのお友達のバースデーパーティーによばれた時のことです。そこで出されたランチは、ご飯の上にヨーグルトがかかり、さらにその上にパパドム(パリパリとしたインド風のクラッカー)を割ったものが載っていました。一緒にいたアメリカ人やイギリス人、フィリピン人のお友達とは一瞬「?」と目が合いましたが、みんなしっかりいただきました(笑)。

 今思えば、文化や習慣の違いを目の当たりにするチャンスがあったわけです。また、先輩後輩の序列がなく、「自分の意見を持っている」ということが、いちばん大事なこととして尊重されます。そんな環境で、「常に自分で考え、決断してかまわない、いや、そうすべきだ」というクセが身に付いていたかもしれません。

 

――だとしたら、サバサバした外資系企業なんかがお似合いな気もしますが。

 

伊藤:典型的な日本の会社、それもモノづくりという、ひと時代前の中小企業で、「よくやってるよねえ」と、私を知る人からは言われます。自分でも、どうしてかなあ、と時々不思議になるのですが(笑)。

 でも、私が両親のひとり娘だった、ということはあるかもしれませんね。とりわけ母の影響は大きかったように思えます。

 

あこがれの母が心の底に残してくれたもの

 

伊藤:父は会社を創立して、それはそれで大変だったのですが、その父を支えていたのが母でした。父だけでなく、家に来る人においしいものを食べさせたいからと、家の冷蔵庫には、いつも食材がいっぱい。おもてなし上手の母は、みんなにとってステキなお母さんで、その姿は私にはあこがれでした。

 その母は43歳でガンを患い、50歳で亡くなるんです。私が20歳の時でした。その3年後に父が病気で急死します。20代の前半で、人生で遭遇する最大の悲しみを立て続けに経験することになりました。

 

――ひとり娘だから、その悲しみもたったひとりで乗り越えなければならない。

 

伊藤:大好きな母が病気になったことは、本当に胸がつぶれることでしたが、余命1年半と言われた母は、そこからがんばって7年も生きてくれました。その姿を見て、「人間は諦めなければ、不可能と思えることでも乗り越えていけるんだ」、と思うようになりました。そのような経験が、私の経営の底に横たわっているかもしれません。

 

――2000年に就任した会社は、過去10年で10億円の負債を負っていました。社員の方への経営情報の公開、本業であるめっきへのリソースの集中と、技術力を武器に新しい需要先へ営業を行うことが、再建策だと先にうかがいましたが…。

 

伊藤:はい。

 

――金融機関の方は、それを理解して待ってくれる状況だったのでしょうか。


伊藤:とにかく問題は、当面の回転資金でした。そのためには、金融機関からの借り入れが必要でしたが、先にもお話しした通り、過去10年の業績があまりにもひどく、銀行に行っても相手にされません。税理士さんと相談し、できる手は全部打ちながら、断られても、断られても、金融機関を訪ね続けました。

 

――どんなことが、打てる手だったんですか。

 

伊藤:税金と社会保険料をしばらく免除してもらうことは、そのひとつでした。でも、税金と社会保険は、会社経営者が、まず果たすべき義務じゃないですか。お金がなくて、それらを滞納せざるを得ない、ということは、すごくつらかったですね。

 あと、借り入れのある銀行さんには、返済猶予のお願いに行きました。とはいえ、どこでも「お宅のことなんて、知ったこっちゃないよ」みたいな反応。私は、ダメと言われると闘志が湧くタイプなのですが、時には「ああ、こんなに努力してもダメなのか……」と、落ち込むこともありました。

 

――伊藤さんが金策に奔走していたのは、まさしく銀行の貸し渋りと、貸しはがしが社会問題になっていた時期です。

 

伊藤:思いもよらぬヒット商品が出た……というようなことは、もちろん起こりませんでした。その中で私にできるのは、正直であること、率直であること以外にありませんでした。金融機関に話を聞いていただく時も「おつきあいしていただける状況ではないのですが」と、最初に説明してからです。諦めずにひたすら足元を見て、そこから、じり、じりと歩いてきた。そんな感じです。

 

――途中で投げ出したくはなりませんでした?

 

歯医者に行ったら「神経が潰れています」

 

伊藤:本当に逆風だらけでしたが、基本、私は、相手にネガティブな反応をされて、マイナスを思い知らされると、どういうわけか、それをバネにしちゃうんですね。「こうしたい!」というイメージが、ますます強くなって、そこに向かう力が湧いてくる。その時は、とにかく事業を正常化すること、黒字化することが、一番の目標だったんです。

 

――正常化するまでに、どのくらいかかったのでしょうか。

 

伊藤:2003年に黒字化は達成できたのですが、正常な金利で銀行借り入れができるようになったのは2006年です。ですから6年かかりました。

 

――今まで、息を詰めて聞いていたので、思いっきり祝福したいです(笑)。

 

伊藤:ありがとうございます(笑)。そのころ、私は歯を悪くして、歯医者さんに行ったんです。そうしたら、歯の神経がつぶれていました。いつも無意識に、ギュっと歯を食いしばっていたんですね。

 でも、そこから、金融機関の対応ががらりと変化しました。

 

――なるほど。数字というものは、かくも説得力を持つ。

 

伊藤:それはしょうがないと思います。そのころは小泉政権の金融超引き締め策が背景にあったので、金融庁のマニュアルも、非常に厳しくなっていて、融資案件が全部、数字で評価されていたんです。それで政府系だけでなく、民間さんもみんなピリピリしていて。

 うちは前任の経営者による経営計画がいつも、いわゆる画に描いた餅だったので、信用がなかったんですよ。「これだけの売り上げが予想できます」と格好をつけて宣言しても、毎回、そこにはるかに届かない状態だったわけですから、当たり前ですよね。
伊藤:その後任に創業者の娘――といっても、何の経験もないのが来て、「評価してください」と言ったって、それはムリな話ですよね。

 

――それはそうですよね。

 

伊藤:振り返ると、その当時は、私の見かけもダメでした(笑)。経験がないから実績がない。実績がないから自信もない。そういうことが、相手には分かってしまう。

 でも、黒字化を達成したことで、政府系の中小企業金融公庫(現・日本政策金融公庫)の対応がまず変わりました。

 当時は公庫さんからの借り入れが一番多かったのですが、その公庫さんが返済を猶予してくださったので、他行さんも返済猶予で足並みを揃えてくださることになったのです。

 2006年には埼玉りそな銀行さんとの出会いがありました。返済猶予はできても新たな借り入れを引き受けてくださる銀行はなかったのですが、埼玉りそなさんは数値だけではなく、広い視野で当社を見てくださいました。

 

――伊藤さんが社長に就任したころ、会社の規模はどのくらいだったんですか。

 

伊藤:就任当初は従業員数が48名でした。黒字化した2003年では、従業員が46名で売上高が約4億2000万円。2006年に(借入金利が)正常化したときは44名、約5億5000万円。そして2009年は61名、約6億9000万円でした。当社は1月が決算期なので、これはリーマンショックが起こる前の達成です。

 

――黒字化に貢献したのは、前回おっしゃっていた「選択と集中」ですか。

 

会話がないままの「大胆な行動」は失敗する

 

伊藤:それもありましたが、いちばんは危機に瀕して社員の意識が変わったことですね。業績をすべてオープンにしたので、「こんな状態なのか」と、みんなが切実に思ってくれたことが大きかったです。

 

――業績の開示は、下手をすると「そんな状態なんだから、何をやってもダメだ」にもつながりかねないですよね。社員から信頼されるためには、何が必要なんでしょうか。

 

伊藤:経営者として私が心がけたのは、
1.元気に挨拶
2.相手にわかりやすく伝える
3.しっかりと決断する

 この3つです。

 

――どれも拍子抜けするほどシンプルなことですね。「これで再建できるなら苦労しない」と、男性から声が挙がりそう。

 

伊藤:でも、そうなんですよ。中でも、とりわけ気を配ったのは2のコミュニケーションですね。経営にはタイミングとスピードが大事なんですが、コミュニケーションのないところでスピードを追い求めても、結局、成果に結び付かないんです。

 ですから、まず業務上の会話で、思い込みや誤解をなくすように努めました。

 たとえば「女優」と言った時に、20代、30代、40代では頭に思い浮かべる顔がみんな違いますよね。会社というのは、それぞれ違うバックグラウンドを持っている人たちの集まりでしょう。そこを認識して、業務の会話では、抽象的な言葉を個別具体的なものに置き換えて、みんなが意味するところをひとつに統一していこうと思いました。

 私自身も社員に何かを話した時、相手が本当に理解できるように、一人ひとり、話し方を変えていくように努めました。

 

――ストレスがかかり、めちゃくちゃ忙しい中で、「このくらい言わなくてもわかってよ」とは思わなかったんですか。


伊藤:大変といえば大変なのですが、その努力を惜しんだら、後でもっと面倒なことが起きますので。社員と話す時は、会社への疑問も全部言ってもらうようにしました。

 社内で自由に意見が言えて、ウソのない雰囲気にすることは、会社の再建にとって必須のことだと思ったんです。「上から目線」ではなく、「聞く耳」を持つことは、とても大事なことでしたね。

 

――それだって、面倒といえば面倒でしょう?

 

伊藤:人によってはくだらない、小さなことでも、当人にとっては重要なんですよ。

 …というか、私はお節介な性格なんでしょうね(笑)。相手の声が小さいと、「あれ、声が小さいなあ、雰囲気が暗いなあ。家で何かあったのかしら?」と、つい思っちゃうんです。余計なお世話かもしれない、と思いつつ、「何かあったの?」と、ちょっとつつくと、「いや実は……」と、気がかりなことを話してくれる。

いとおしくて仕方がないのです

伊藤:今、ワーク・ライフ・バランスという言葉が注目されていますが、プライベートと家庭の充実は、いい仕事をするベースになると思うので、もし社員の気がかりを私が助けてあげられるなら、そうしたいと思ってしまう。

 

――プライベートも含めてですか?

 

伊藤:ええ。実際、うちは社長と社員の距離が近いんです。社内で「マミちゃん」と呼ばれることもあります。そもそも私には社長がエラい、という意識もないですし。

 

――社員の年齢層は、どんな感じなんですか。

 

伊藤:うちは23歳から76歳までと、幅が広いですよー(笑)。そのうち50歳以上が12名、60歳以上が15名です。今年の1月15日までは82歳の社員もいました。

 その中で、ただ「仕事をしろ」「効率を上げろ」と口先で言ったって、誰も付いてきてはくれませんよね。自分が率先して「心地よい会社」にしていかないと。

 

――伊藤さんは「育(はぐく)み力」の持ち主ですね。

 

伊藤:就任後、社員に寸志的なお金は出していましたが、賞与らしい金額を夏と冬に支給できたのが2008年のことでした。大きな金額ではなかったのですが、それぞれの顔を見て手渡ししたら、みんな喜んでくれるんです。うれしそうな笑顔を見たら、胸がキュンキュンしちゃいました。私にとっては23歳も76歳も、みんな子どものような存在なんです。社員全員がいとおしくてしょうがない(笑)。

 

 

社員と生き残るために「海外に出ない」

日本電鍍工業社長 伊藤麻美さん(第3回)

 

――経営に関してまったくの素人だった伊藤さんが、32歳で社長に就任し、会社の再建に取り組まれたお話をうかがってきました。

  伊藤さんの発想には、ユニークな“逆張り”が多いですね。

 

伊藤:あえて逆張りをしているわけではないのですが、自分で「正しい」と思える方向に行くと、どういうわけか、人が言う経営セオリーとは逆になるんですよね。

 

――社長に就任された後に、とりわけつらかったことは、どんなことでしたでしょうか。

 

伊藤:一番はお金ですよね。就任後、6年で経営が正常化するまで、ずっとお金で苦労し続けて、「お金だけがお金にしか換えられないものだ」と気付くわけですよ。お金だけは簡単に手に入らない。だから、二度とこの苦労はしたくない。そこが今でも、すごく大きなモチベーションになっていますね。

 それは、自分のためにお金が欲しい、という意味ではありません。就任当時は手形も振り出されていたので、お金がないと倒産する確率が格段に高かった。倒産したら、社員と家族が路頭に迷ってしまいます。それだけはしたくないと、その意味でのお金です。

 

――会社の建て直しに着手した時に、従業員の解雇を行わなかったことは、伊藤さんの“逆張り経営”の筆頭ですが、人事に関しては、どのような考えでやっていらっしゃいますか。

 

伊藤:会社は正常化してから、リーマンショックが起こる直前まで業績が順調に伸びて、2008年度は年商が目標としていた7億円に近づいたんです。そこで、2009年の4月までに新卒と中途を合わせて10人、増員しようと考えていたんですね。

 

――増員の目的はどこにあったのでしょうか。

 

伊藤:まず、会社が少しずつよくなってきている中で、明確なビジョンとして「100年企業」を目指そうと思い始めたからです。

海外進出はどの企業にも正解か?

 

――日本電鍍工業は、2008年が創業50周年の節目でした。

 

伊藤:創業者の父は、50周年を見届けないまま亡くなりました。だったら私が100周年を見届けてあげたいな、と思いまして。ただ100周年って、その時、私は90歳を超えていますけどね(笑)。つまり会社の存続ということを、大きな目標に据えたいと思ったわけです。

 

――モノづくり系の中小企業は、労働市場の変化にさらされやすく、生産拠点の海外シフトは昨今の流れですよね。その意味で、日本で人を採用するより、海外に工場を出したりする方が、投資効率は見込めるのではないですか。

 

伊藤:日本の製造業は、かなり以前から空洞化が指摘されていましたし、リーマンショックの前は、それが加速していました。当社にしても、海外へ行くという選択肢はもちろんあったのですが、私の中では、日本で雇用を守ることが優先順位の上位にあったんです。

 製造業の経営者の方たちにいろいろと話を聞くと、海外進出は技術の流出や、予測不可能な事態といったマイナスの面も多いわけです。そのリスクは、体力のある企業なら負えますが、ウチのようなところではまず無理だろうと思えました。

 また、海外にはベスト人材が行かないと、本気の勝負にはなりません。社内にベスト人材が複数いれば、可能性もあると思いますが、ウチは最少人数でやってきていたので、戦力の分散というマイナスの方が大きかったんです。だったら、海外進出という選択肢は、きっぱりはずそう、と決めました。

 

――それで新規採用に踏み切った。

 

伊藤:それ以前に、何でみんな海外、海外と言うのか、そのことにも疑問があったんです。
伊藤:コスト面だけを考えれば、確かに安くつくかもしれませんが、一方で日本国内の雇用はどうなるのか。国内の人材を、どのように活用するかを考えるのが経営者の大事な課題ではないか、と思ったんです。でも、増員すると決めた途端にリーマンショックが起きました。

 

――あの時は名のある大企業でも、内定取り消しが続出して、社会問題になりました。

 

伊藤:当社ではずいぶん前から生産体制を少量多品種にシフトしていたので、一気に全体の売り上げが落ちたわけではなかったのですが、それでも3割ぐらいは下がりましたね。

 ああいう時は、マスコミも過剰に危機をはやし立てるので、みんな迷走しますよね。社内でも「ウチの会社は本当に大丈夫なのか」と、ざわざわして、私も一瞬、人を入れることに迷いが生じました。

 採用とは、相手の人生を背負うことです。自分なりにすごく悩んで、考えて、いろいろな方に意見をうかがって回りました。大半の方から、「人を入れるのはリスクが大きい」という助言をいただきました。

 

――でも、結局、増員したんですよね。

 

伊藤:経済が危機だからこそ、いい人が来てくれるのだ、ということに気付いたんですよ。景気のいい時は学生も、大企業とかブランド企業とかになびいていきます。でも、何か予測不能なことが起こると、簡単に内定取り消しをするところが、有名企業の中にもたくさん存在する。

 そういうことは本来、人としてやってはいけないことじゃないですか。学生たちは、その企業が誠実にやっているかどうか、ちゃんと見ているんですよね。

 それで銀行さんに、「ウチは増員します。たぶん売り上げはリーマンショックで下がるから、赤字になると思います。でも、これは未来に向けての投資なんです」とお伝えしたら、「それは前向きでいいことです。企業は投資をしないと伸びていきませんから」ということで、ご理解をいただけたんですね。

 

――銀行とのコミュニケーションが、すごくよくなっている。就任直後の「女じゃ話にならない」とはエラい違いですね。

 

伊藤:ですから本当に、ピンチほどチャンスだと思いますね。

 当社はその翌年も新卒を2人採用したんです。ウチは離職率が低いことが、ひそかな自慢です。今もその時期に採用した人たちが残ってくれていて、すごく活躍しているんですよ。社員は23歳から76歳までと年齢層が幅広く、高齢の社員も多いのですが、そこに若手が入って、活気づいていますね。

お互いが納得する状況づくりが大事

 

――新卒で採用された方はどういう分野なんですか。技術系ですか?

 

伊藤:技術、生産管理、営業といろいろです。すでにリーダーになっている人もいます。常に新規営業は継続して、新しい顧客の開拓に取り組んでいるので、お客さまもおかげさまで増え続けています。

 

――就任された直後は、右も左も分からなくなって、飛び込み営業をやってもダメだった。でも、ホームページを作ったら、状況が変わったとおっしゃっていましたね。

 

伊藤:ホームページも並行しながら、展示会や商談会に積極的に出るようになりました。営業の子たちが、自分たちで新規獲得のノルマを作って、すごくがんばっているんです。

 2月1日は当社の創立記念日で、また新年度の始まりなんですが、その時に大プレゼン大会をみんなでやるんです。以前は私ひとりが今年度の目標を掲げて、社員は聞いているだけだったんですが、数年前から私が掲げた目標に対して、各グループがパワーポイントを使いながら、行動指針をディスカッションするようになりました。

 

――それは自発的に?

 

伊藤:そうなんです。「こういうことがやりたいよね」と私が言うと、誰かしらが動いてくれるんです。


――それは採用が間違ってなかったということですよね。

 

伊藤:採用のときはしつこいほど会うんですよ。インターネットのエントリーだけではなくて、実際にその先に進むかを決めていただいたタイミングで、20代、30代の若手がまず面接をして、そこでいろいろ質問をしながら、互いに本音トークをします。3段階目で私と工場長の面接です。その後、内定を出す時に1対1で会社の課題を洗いざらい話して、本人たちに再度工場を見てもらうんです。

 

――会社の課題って、要するに現状の悪いところですよね。それを話したら逃げられる、とは考えないんですか。

 

伊藤:お互いが格好をつけて、入ったらこんなはずじゃなかった、というのが一番不幸せじゃないですか。課題を隠さないことで、ミスマッチにならないというか、価値観の似ている人たちに出会える確率が高くなります。

 

――朝日が昇る海! 躍進する当社! みたいなイメージにしなくていいんですか。

 

伊藤:真反対で、ウチはこんな問題があります、あんな問題があります、って。だから社員もすごい個性派ぞろい、珍獣、猛獣だらけですよ、と(笑)。

 

――ちなみに直近の面接では、どんなことをお話しされたんですか。

 

伊藤:売り上げがまだ足りていないことです。みんな、ちゃんと食べては行けているんですが、やっぱり経営者としては、上を目指さなければいけない。中小企業には夢の夢ですが、ボーナスだって、いつかは100万円、200万円を出したいですよ。

 でも、そこそこ食べていける環境に慣れてしまうと、どうしても生ぬるくなって、向上心が薄れてしまいます。だから、ぬるま湯で満足できる人ではなく、率先して動く人が欲しいんです、とこちらの望みを率直に言います。

 あ、それと、「ウチではため息と、『できない』って言うことが禁止」って。私はため息センサーが発達していて、社員がため息をついていると、「あ、今、ついたね、ついたよね」と、迫っていくんです(笑)。

示す目標は「売上高と粗利」のみ

 

――大プレゼン大会に戻りますが、その時、伊藤さんは具体的にどこまで目標を言われるのですか。

 

伊藤:売り上げと粗利です。

 

――締めの数字を具体的に。

 

伊藤:そうです。会社の要は、生産利益、製造利益の部分ですから。もちろんその後に銀行の金利とか税金とか、いろいろ出てくるんですけど、そこを社員に気にさせちゃうと、動きが取れなくなる。というか、そこは社長である私が、本当に責任を持ってやらなければいけない部分なので。

 

――現場での新製品・新技術の開発などには関与しますか。

 

伊藤:いえ、私はそこまでは下りていきません。だってみんなプロなんですから。会社は学校じゃないので、それぞれの権限と義務は、明確にしておこうと考えています。ここはまだしっかりできていないところなので、これからの課題です。

 ウチでは毎月1回、業績をオープンにする会議があるんですね。そこで月ごとの目標を示して、どこでどうがんばるかも具体的に決めていきます。

伊藤:以前、その会議は全員参加だったんですが、そうすると、「俺はよく分からないけど、あいつが分かっていそうだからいいか」みたいなことが出てくるんですね。

 

――当事者意識が薄れる。

 

伊藤:それで今ではリーダーだけが参加するようにしています。リーダーは、会議にしっかり参加して、納得しないと、自分のグループメンバーに伝えられないんですよ。そういうふうに、私が直接手を下さなくても、みんながやる気を出していく、というか、やらざるを得なくなる環境を作るようにしています。

 

――組織を日々革新していかなければいけないことと、ここが自分たちの居場所なんだ、と社員に安心感を与えること。両極のバランスはどのように取っているんですか。

 

伊藤:たとえば賞与についてですが、ウチは業績をオープンにしているから、業績があまりよくない時は、社員は「ボーナスは出ないかも」と思うようです。そんな時こそがんばって、「今日、賞与を出しますよ!」と朝礼で発表すると、みんながとたんに笑顔になるのがうれしいですね。一人ひとりに手渡して歩くのですが、みんなからは「ありがとうございます」と一緒に、「大丈夫ですか?」など、気遣う言葉をもらいます。

フラットな組織のままでいいのか?

 

――数字の開示は社内のフェアな人間関係を呼び起こすんですね。御社の直近の売上高を教えていただけますか。

 

伊藤:2013年度決算で、6億4000万円です。

 

――社長が責任を持つのは当然ですが、それと同時に、社員だって義務なり、責任なりはありますよね。伊藤さんは、社員の責任については、どのように考えていますか。

 

伊藤:私は最終的に、社員の一人ひとりに「経営者視点」の持ち主になってもらいたいんです。会社の100周年を見届けたいと言いましたが、私はいつも自分に何かがあった時のことを考えているんです。そうなった時に、誰が跡を継ぐかは分かりませんが、時代環境がさらに厳しくなっていることは必至です。

 ですから経営もひとりに頼るのではなく、代表取締役以下、何人かで意思決定と遂行ができるような、厚みのある組織を作ることが、自分の急務だと思っています。

 今、当社は社長と工場長がいて、後はリーダーとそのグループという構成で、本当にフラットなんです。

 

――課長、部長という役職はないんですか。

 

伊藤:ないんですね。リーダー制というと聞こえはいいのですが、フラットなままですと、組織として発展していかない、ということは、すごく考えているんです。

 それで、今後はみんなと一緒にディスカッションをして、ウチの会社における課長職や部長職、取締役は、どんな責任を持って、どんなことをするべきなのか、という辞書を作りたいんです。辞書というか、定義付けですね。定義が明確になれば、やりたいって手を挙げた人は、それに向かいやすくなるじゃないですか。

 これまでリーダーには手当を付けてこなかったんですが、去年から本当に小額ですが手当を付けるようにして、新しい組織作りのスタートアップにしようとしています。

 

――それぞれに「経営者視点」を求める、とはどういうことですか。

 

伊藤:「自分は部下ですから、指示されないと動けません」というのを一掃したいんです。これは会社の中に限らず、プライベートでも、自分の目標や夢に向かってもらうためです。たとえば会社の場合、分かりやすい目標は「リーダーになりたい」ですよね。そう思う人がいたら、ぜひ行動に移してもらいたい。その時は必要なのは、「部下」ではなく「経営者」の視点です。

 

――一方で、私はリーダーなんかになりたくないという人もいますよね。

 

伊藤:何人かは、そういう人がいます。その場合は、無理にリーダーにはしません。たとえば年功序列の会社だと、適任でもないのに年齢的にリーダーの役割が回ってくるじゃないですか。でも、やりたくない人や適性のない人をリーダーにしても、いい結果なんか出るわけがない。これは、その人に能力がない、と言っているわけでなく、あくまでも適性の問題で、その人はその立場で盛り上げてくれるからいいんです。

 

――リーダーばっかりが注目されますが、実はグッドフォロワーって、すごい大事じゃないですか。

 

伊藤:すごく重要です。だから、フォロワーにもちゃんと居場所をあげていきたいと思います。

 

成長と安定、どちらも選べるように

 

――やりたい人はリスクを負いながら社内でもどんどん出世して、一方でリスクを負いたくない人は、安定的にお給料をもらう、という二重の体制ですか。

 

伊藤:ずっとお給料が同じ人がいてもいいと思うし、一方で功績を上げて、社長の私よりも高いお給料をもらう人がいてもいいと思う。

 リーダーになりたい人がいるんだったら、その人たちにチャンスを与えてあげるのは、私の義務のひとつだと思っていますし、フォロワーだって経営の一画を担っているわけです。そういうことを、社員全員としょっちゅう話し合っています。いずれ、その基準を明確にしてあげられるようにしたいですね。

 

――その体制は、終身雇用、年功序列に代わって、今後の企業経営のひとつのモデルになると思います。今回の終わりに伊藤さんの、仕事のポイントを教えてください。

 

伊藤:「元気」と「やる気」と「根性」。話をする時は相手の目をしっかり見る。それですね。

 

――明快なレスポンス! 

 

 

「子供は放っておけば育つ」とあなたも思いますか

日本電鍍工業社長 伊藤麻美さん(第4回)

 

――第2回で伊藤さんは、「私にとっては23歳も76歳も、みんな子どものような存在なんです。社員全員がいとおしくてしょうがない」とおっしゃっていました。

 

伊藤:はい。本当にそう思いますよ。

 

――そう言う伊藤さんは、実際に男の子のお母さんでもあるんですよね。

 

伊藤:そうです。朝から晩まで仕事をする私の姿を見て、「伊藤さんは会社と結婚してるんでしょ」なんてからかう人もいるのですが、「何じゃい、それは! 私は仕事もするし、結婚だってするよ!!」と(笑)。

 結婚は2005年にして、子どもにもすぐ恵まれたのですが、家庭があったからこそ、再建一途の中で、自分がつぶれないで済んだと思っています。

 

――ということで、最終回はちょっと趣を変えて、だんなさまのことを聞いてもいいですか。

 

伊藤:はい、もちろん。また、これも波乱があったんですけどね(笑)。

 

――2000年に32歳で社長に就任された日本電鍍工業は、大きな負債を負っていました。事業の正常化を果たしたのが6年後の2006年。その前に伊藤さんはご結婚されています。

 

伊藤:夫になる人と知り合ったのは1999年。私がアメリカのカリフォルニア州で宝石鑑定士と鑑別士の勉強をしていた時です。その時は、よもや先に波瀾万丈が待っているなんてことも知らず……。

 

――お父さまが創業した会社が危機だと知らされて、その年に日本に帰国されたんですよね。

 

伊藤:そこから再建が始まって、数年は、ほとんどプライベートがなかったですからね。その間、夫となる人とゆっくり会って話し合う時間も余裕もなかったですし。2005年にラスベガスで挙式したのですが、思えばそこまでは長い道のりでした(笑)。

 

――しかし、立ち消えにならず、ゴールインしたところがすごい。

 

伊藤:本当ですよね。これも、話せば長い困難があったんです。夫の実家も、長野県の白馬五竜でスキー場やゴルフ場を経営している実業家の一族で、彼はまさに長男の跡継ぎだったんですね。

 

――ということは、伊藤さんは婚家から「嫁」として期待されたわけでしょう?

 

伊藤:でも、私は自分のところの会社の再建に手一杯ですから、「嫁」になんか、とてもじゃないけどなれる状況ではない。ですから当初、私たちの結婚はなかなか認めてもらえませんでした。そこで結果的に、夫が実家を出ることになったのです。

現在別居中、朝は4時起きです

 

――家族よりも伊藤さんを選んだんですね。

 

伊藤:そのような形になり、夫の実家とはしばらく微妙な距離ができました。でも、結婚した翌年に息子が生まれたことで、夫の家族も徐々に認めてくれるようになったんです。夫は結婚後の3年間は、当社の関連会社のジユリコで仕事をして、私の力になってくれました。でも、息子が3歳になったころ、かつて夫が在籍していたスキー場での実績が評価され、「もう一度スキー場の経営に携わってほしい」ということで、彼は家業に呼び戻されました。

 

――夫婦ふたりともが、それぞれの家業に取り組むことになった。

 

伊藤:ということは、夫は長野をベースにしなければならない。家族がバラバラに暮らすのは喜ばしいことではありませんでしたが、お互い経営者の子どもです。それぞれの会社が継続していくことが大切ですし、必要とされている時に行動しなければならない、という思いもあって、離れて暮らす決断をしました。

 現在は夫が長野、私と息子が東京で別居しての生活です。互いに行き来はしますが、会うのは月に3回ぐらいでしょうか。そのパターンで、ずっと来ています。

 

――今、息子さんはおいくつですか。

 

伊藤:7歳、小学校の2年生です。

 

――伊藤さんの一日のタイムテーブルはどんな感じなんですか。

 

伊藤:保育園の時は朝5時半に起きていましたが、今はお弁当を作っているので、4時に起きています。

 

――4時起き!

 

伊藤:保育園の時は、食事も全部保育園にお世話になれたので、5時半で大丈夫だったのですが。

 

――そうなんですよ。日本では、働く女性を増やすために保育園の拡充が大きなテーマになっていますが、実は小学校に上ってからが、もっと大変になる。子どもが成長するに従って楽になる、というのは思い込みで、大変さは質と内容を変えて、ずっと続いていくんです。

 

伊藤:実は小学校に入ってからが、働く母にとっては本当の勝負ですよね。息子が通っている学校ではお昼ご飯を買うこともできるのですが、私はあえて手作りにしているんです。

 というのは、男の子は好きなものしか食べないので、栄養のバランスが悪くなる。お弁当を持たせれば、帰ってきた時にそのお弁当箱を見て、何を食べたか分かるじゃないですか。

 

――その気がかりはよく分かります。仕事が立て込んでいる時に子どもを放っておくと、好きなスナックばかりを買って食べるようになる。そうすると、子どもの雰囲気が荒れてくるんですよ。私も子育てをしている時は、そういうことがとても気になりました。

 

伊藤:食はすごく大切だと思いますね。

 

――でも、このことを周囲の男性に話しても、なかなか分かってもらえない。「子どもなんて放っておいても育つ。それ、過保護だよ」とか言われたりして。

 

伊藤:いや、やっぱり食事は人間形成の基本ですよ。私は、自分の子だけれども、日本の子、社会の子として育てないといけないと思っているから、すごく大事に考えています。

骨折しても「しぬわけじゃないよ」

 

――この母親目線の気配り、目配りは、男性が肌で分からないことのひとつ。子どもは放っておいても成長する、と本気で思い込んでいる節がある。でも、その男性たちは、専業主婦のお母さんに、至れり尽くせりで育てられているんですよ…。

 

伊藤:今の私は自分が起きる4時から、息子が起きる6時半までの2時間半が勝負の時間帯で、この間に朝食を作って、お弁当を作って、お夕飯の下ごしらえをして、洗濯もしています。たまに疲れていて、起床が5時になると、もう家の中がめちゃくちゃになっちゃいます。

 

――小2でしたら宿題のお世話もあるでしょうし、本人が「あれを忘れた」「これを忘れた」とか、そういうのばっかりでしょう。

 

伊藤:そうですよね(笑)。あと、今は足を骨折していたりします。

 

――ああ…そういうケガ、アクシデントも付き物です。

 

伊藤:息子にはラグビー、サッカー、スイミングをやらせているのですが、サッカーの後に「足が痛い」って言っていたんですね。私は「そんなんで休んでいる場合じゃないわよ、走れーっ」と、檄を飛ばしていたんです。

 でも1週間たっても様子がおかしいので、病院に連れていったら、「膝のお皿が割れています」ということでした。
伊藤:「痛みは気のせい、大丈夫」と言う私を信じて、我慢していたんでしょうね。病院から帰った時に私、「分からないでいて、本当にごめんね」って、抱き締めて泣いちゃったんですよ。そうしたら、「ママ何で泣いているの? 僕、しぬわけじゃないんだよ」って。

 

――カッコいいな、小2(笑)。

 

伊藤:私は仕事で修羅場をくぐり抜けているので、ついつい子どもにも厳しくなってしまいます。本当はいけないですよね。自分が限界までやるからといって、7歳の子にそれを押し付けていたら。

 

――それは、とりわけできる母親がやりそうなことですね。

 

伊藤:今回のことでは、少し反省しました。

 

――でも、息子さん、愛情や信頼にちゃんと応えてくれるタイプじゃないですか。すてきな男性になると思いますよ。

 

伊藤:あ、それは確かにモテ男に育てたいんです。男に生まれた以上はモテないとね、と(笑)。

 

――すばらしい。退社時間は何時にされていらっしゃるんですか。

 

伊藤:特に決めていないんですが、会食などがない日は、8時までには帰るようにしています。

 

――だんなさまは離れた場所で暮らしているわけですよね。学校から帰った後の息子さんの世話はどなたがされているんですか。

 

伊藤:亡くなった母のお友達の、80歳のおばあちゃまが面倒を見てくださっているんです。私も気心が知れていて安心で、とても感謝しています。その方の都合がつかない時や、私の帰りが遅くなる時などは、シッターさんをお願いしています。

 

――働く母は帰宅してからの時間も勝負、ですよね。

 

伊藤:夜は8時半に寝かせたいんですが、宿題もあるし、私も何かとバタバタするしで、だいたい9時半になっちゃいますね。10時くらいになったら、私も子どもと一緒に寝ちゃいます。

 

――早めの就寝が、ハードな日常の中で健康を維持する秘訣なのでしょうね。

 

伊藤:3秒で寝付けることが私の自慢です(笑)。あと、朝はグリーンスムージーを毎日作っていて、それで疲れを取っています。


――へえ。材料は何なんですか。

 

伊藤:今朝は、コマツナ、ホウレンソウ、ショウガ、リンゴ、バナナ、ケール、パセリ、レモン、ミカン、きな粉、黒ゴマ、エキストラ・バージン・オリーブオイル、はちみつ、豆乳、ヨーグルト。

 

――すごい。でも、その食材をキープするのって大変じゃないですか?

 

伊藤:コマツナとリンゴ、バナナ、レモンを基本にして、あとはその時にあるもので。きな粉とかは冷蔵庫へ入れておけばいいし、野菜は買えるときに足しています。

 

――伊藤さんの現在をごく簡単にまとめると、4時に起床して夜の10時過ぎには就寝。その中で社長業と母親業をこなしている、ということですね。

 

伊藤:先日は長野にいる夫が高熱を出したので、朝一番の新幹線で行って看病したんですが、そういう日でも夜の10時には家に帰っていて、我ながらなんて効率的に動いてしまっているんだろう、と思いました(笑)。

 

――そうそう、伊藤さんには「妻業」だってある。

 

伊藤:私は子どもが生まれてからの方が、時間の使い方がうまくなったと思います。時間だけに限らず、人間って厳しい現状にさらされると、それに対応する能力が出てくるといいますが、それは本当だなと思います。

 

――そんな伊藤さんに、女性ゆえの不利、有利についてうかがいたいのですが。

 

伊藤:女性ゆえの不利は感じたことがないです。

男性社会の中での“おつきあい”

 

――セクハラをされても? 銀行で「女じゃ話にならない」と言われても?

 

伊藤:初期には物珍しい女性社長ということで、おふざけ半分のセクハラにも遭いました。社員がふざけてお尻を触ってきたりした時は、私も触り返してあげたんですよ。ある時、会社に来た夫に「こちら、○○さん。たまに私のお尻を触る人」と紹介したら、夫は「どんどん触ってあげてください」って挨拶してました(笑)。

 

――その、明るくささーっと流すところがコツですか。

 

伊藤:もちろん深刻なこと、本当に不快なことを見逃してはいけないので、社内にはセクハラ委員会をちゃんと設けています。でも、うちに深刻な空気はないですね。たまに、わざと男性社員のお尻を私が触って、「これはセクハラというんだよ。あ、パワハラか」とか言って、みんなで笑っています。

 

――男性社会でのおつきあいは?

 

伊藤:それもマイペースで普通に。私、会食の延長で1回、キャバクラまで付き合ったことがあるんです。私はみんなの奥さんとかを知っているんですが、一緒に行った社長たちは、そんなことは関係なしに、ほくほくしている。ただ、私個人の感想としては、いいのかな、と思う以前に、本当にこれが楽しいのかな、って思いましたけど(笑)。だって、こちらがお客でお金を払っているのに、人生相談をされたり、「アタシってね」みたいな話につきあってあげたりしなきゃならなくて。

 

――伊藤さんは頼られて、ケータイの番号とか聞かれそう。かといって、別にカリカリ怒っているわけでもないんでしょう。

 

伊藤:全然。男という生き物はそういうものだ、と流すだけです(笑)。一緒にいった社長たちからも、「麻美ちゃんのだんなさんも絶対浮気をしているんだから」なんて言われましたが、「いや、ウチのはしていませんよ」「そう思っておけばいいよ」「あ、そうですね、ありがとうございまーす」とか、そんな感じで(笑)。

 

――そこもささっと(笑)。では、銀行で、「女じゃ話にならない、本物の経営者を連れてこい」と言われた時はどうでしたか。もし私がそれを言われたら、憤死しそう。

 

伊藤:場数を踏むうちに、そんなことには全然慣れていきますよ。

 

――本当ですか?

 

伊藤:「ああ、世の中にはそんな人もいるものだ」、と。そういう場面でいちいち心を折っていたら、経営者なんてやってられませんので。最初はびっくりして、傷付きもしましたが、その繰り返しの中で、否応なく鍛えられていきます。

 銀行さんからだけでなく、社員も人間ですから、社内で行き違うこともゼロじゃないですよ。それも、いちいち気にしないで、どんどん忘れるようにしています。

 

――ちょっとぐらい能天気な方がいい?

 

伊藤:そうです、そうです。だから私、セクハラもパワハラも、互いの失言も、過去に経験したイヤなことも、全然、根に持たない。一晩、寝て終わり。

 

――その“更新力”にあやかりたいです。では、女性ゆえの有利はありますか。

仕事は人と人、名前と顔を覚えてもらえることは“武器”

 

伊藤:有利なことは、顔と名前をすぐに覚えていただけることですね。

 たとえば今、国の委員会でいくつかの委員を務めているのですが、自分の能力に対してお声が掛かったとは思ってないんですね。私が女性で製造業の社長をしているから、その物めずらしさで呼ばれているんです。

 で、せっかくこんなチャンスをいただいているので、多いに楽しもうと思い、がんがん発言しています。この前は、委員の前向きな提案に対して、お役所の方がことごとく「現状を変えるのが難しい」と言うので、「お役所のみなさんが変わればいいんじゃないですか」と発言したら、場がしーんとなりました(笑)。

 

――伊藤委員には、厳しいご意見をありがとうございました、って。

 

伊藤:あはは(笑)。

 

――国の委員会って、役人が何かを通すためのアリバイというイメージがあります。伊藤さんのような、うるさ型の女性も賛成しましたよ、みたいにしておきたいんですよ。

 

伊藤:議事録ではそこは、うまーくぼかされていましたけどね(笑)。

 

――伊藤さんの話を聞いていると、元気が湧いてきますね。

 

伊藤:今朝もヨソの社長さんから電話があって、「いや~、伊藤さんの声を聞くと元気になるねえ」と言われました。今では、取引先の銀行の担当者さんとも、結構たわいない話で盛り上がっているんですよ。やっぱり底にあるのは人と人ですよね。

 銀行さんには、表面の数字だけで、会社を早々に判断しないでください、とお願いしています。人間の評価もそうですけど、すべて数値化されてしまうと、結果的に数字さえよかったら何をしたっていいじゃないか、ということになってしまうから。

 もちろん数字は大事ですが、会社経営では数字の周りにあるものも大事なんです。それをお伝えするためにも、銀行さんとは距離感を縮めて、思っていることはちゃんと伝えるようにしているんです。


――数字の周りにある要素に注力することで、数字そのものを上げていく、というのは、これまでうかがってきた伊藤流のポイントですね。

 

伊藤:実は私自身は、経営において何がいちばん正しいのか、いまだに分からないんです。ただ、無理に着飾っても、衣装が重すぎれば、すぐに化けの皮ははがれますし、足が疲れるほどの背伸びをしたら、姿勢が崩れちゃう。だから、少し背伸びをしながら、分からないことは素直に人の話を聞いて、自然体で物事を決めていくのがいいと思っています。社長だから、すべてパーフェクトである必要はないと思っていますし、利益最優先で社員が不幸になるのも、目指す経営とは違うと考えています。

 

――では逆に、ここだけは社長の責任だと思っていらっしゃるところはどこですか。

 

責任を取る人が必要だから、「社長」がいるだけのこと

 

伊藤:「絶対に会社を倒産させちゃいけない」、ということです。会社の存続と雇用の維持は絶対ですし、その中で社員を幸せにしなければいけないし、働きやすい環境を構築しなければいけない。

 それから情報は誰よりも早く得て、ネットワークも誰よりも多く持って、それらをしっかりと保ち続けることも大切。あと、基本として、自分自身が健康でハッピーでいるということですよね。

 

――会社にいる時はスーツにスニーカーですね。

 

伊藤:きちんとした服装を心がけていますが、社内での足元は、動きやすさ最優先です。私は今、ブランド物とかを身に付けているわけではありませんが、すごくハッピーに毎日を過ごしています。喜びはモノじゃないんだな、と思いますね。あと社内では、社長は別にエラくないから、といつも言っているんです。

 

――どういうことですか。

 

伊藤:会社の一員ということで、私もみんなと一緒だと。ただ、どうしても誰かひとり、決断と責任を取る人が必要だから、それを私がやっているだけだ、と伝えています。

 

――カッコいいじゃないですか!