2012年10月27日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第1回】 時間に細かすぎる親子

突然、苛立ちがエスカレートするとき

 僕と息子がその病院を初めて訪れたのは、8月下旬の、とにかく暑い夏の日だった。

 僕たちが病院の最寄り駅で電車から降りたのは、午後3時ちょうど。一日で一番気温が高くなる時間だった。文字通り、うだるような熱と湿気が押し寄せて、全身からどっと汗が噴き出した。

 でも、駅のプラットフォームに立った僕をイライラさせたのは、その暑さなんかじゃなかった。そんなことは、正直、どうでもよかった。

 僕にとっての最大の問題は、何よりも、予約した診察時間までこれから30分もあることだった。病院はまだ昼休みの時間帯とかで、中に入れない。やむなく、何かをしてその時間を潰すしかなかった。「30分もあるんだな」と、僕は息子に言い聞かせるともなくつぶやいて、改札口を出た。

 駅の周りを見渡しても、息子と一緒に入って時間を潰せるようなファミリーレストランはないようだし、こういうときに一番頼りになる本屋も見当たらない。駅前の住宅地図を見ると、1㎞(息子は「1.2㎞だよ」と主張した)ほど道なりに進めば、コンビニエンスストアがあるようだ。

 でも、今からそこまで行って、本や雑誌を立ち読みして、そのあと病院まで戻るには、30分という時間は短すぎる。十数年、テレビ番組を作り続けてきた人間として、暇さえあれば出版物に目を通して世の中の動きをウォッチするのが習い性になっているのだが、今はいくら何でも無理だ。こうなれば、外をブラつきながら、時間が経つのを待つしかない。

 まったく、どうして30分も余分な時間があるんだよ---。そう思うだけで、僕の苛立ちはさらにエスカレートしてきた。悪い癖だが、どうしようもない。  僕は普段、物事に腹を立てたり、感情的になったりすることがほとんどない人間だ。ニコニコしていることが多いねとよく言われるし、自分でもそう思う。

しかし、僕の中にはいくつか「地雷」がある。その一つが「時間」だ。時間的に先が見えなくなるとき、急に空き時間ができたとき、僕の中で、急速に苛立ちや怒りが湧き起こってくる。

 真夏の駅前で、何もすることのない「30分」という時間が、ギリギリと心にのしかかってくるように感じられた。

1分単位で時間を気にする息子

 でも、その日に限って言えば、イライラしているのは僕だけではなかった。家を出てから、ずっと僕と手をつないだまま離そうとしない小学生の息子が傍にいたのだ。「初めての病院に行く不安から、僕の手を握ったままなのかな」と思った。

 息子の顔を覗き込むと、眉間にしわを寄せ、眉はきれいな八の字型になっている。イライラしたときや怒ったとき、不安なときになどに見せる、息子特有の表情だ。

 息子は、自分を凝視している父親(僕)に気がつくと、いきなり強い口調で食ってかかってきた。

 「お父さん、あと29分、どうするの!?」

 おっ、30分ではなく29分と言うのか、と僕は思った。この子らしいな、と。

 息子も、僕とは気にする点が少し違うものの、やはり「時間」に細かい。これは、どんなときも変わらない。確かに電車を降りて、僕が「あと30分もあるんだな」とつぶやいてから、改札を出て駅前に来た今まで、約1分かかっている。そのことを小さな頭で瞬時に考え、その上で父親に文句を言っているに違いない。

 息子にとっては、この「1分」が、いろいろな意味でとても大事なのだ。だから僕が答えないと、何度でも繰り返し聞いてくる。「あと30分どうするの?」ではなく、「あと29分どうするの?」と。

 僕がようやく「う~ん、どうしようか」と曖昧に答えると、息子は「え~っ、考えていなかったの!」と、小さな身体をぶるぶると激しく震わせて、不満の感情を露わにした。

 息子は、時間に細かいだけでなく、先の予定が見えないことを何よりも嫌う。その点は僕と同じだ。このとき、「つくづく親子だな」と思った。

僕が駅前の地図を見ながら、ああでもない、こうでもないと考え込んでいると、息子がさらに苛立ちの感情をむき出しにした声で、再び質問を浴びせてきた。

 「お父さん! あと28分もあるよ。どうするの?」

 さっきの問いかけの時点から過ぎた1分を引いている。僕は「う~む」と唸るしかなかった。

ASDの特徴が息子の行動と一致していた

 僕たちがこんなところに来ることになったそもそものきっかけは、1ヵ月ほど前にさかのぼる。僕はテレビで偶然、「発達障害」を特集した番組を見た。

 発達障害については近年、いろいろと報じられているのでご存じの方も多いと思う。発達障害の人は、他人とコミュニケーションを取ったり、対人関係を築いたり、感情を抑制したり、周りの人々と同調して行動したりすることが難しくなって、一般的な社会生活を営みにくくなってしまう。脳機能の障害によって起こると考えられており、「自閉症」「アスペルガー症候群」「注意欠陥・多動性障害」「学習障害」などが含まれる。

 そんな発達障害を扱ったテレビ番組には、日本を代表するその分野の権威が登場し、一口に発達障害と言っても多くの種類があることや、それぞれに対処法が異なることなどを懇切丁寧に説明していた。

 知らなかった情報が豊富に盛り込まれ、とても良くできた番組だったが、その中で特に、僕の強い興味を惹いたことがあった。「ASD」(自閉症スペクトラム)と呼ばれる症状である。

 発達障害の中でも、ASDは、アスペルガー症候群や自閉症も含む総称だというのが番組での説明だったが、僕がその症状に関心を持ったのには、ある理由があった。実は、番組で紹介されたASDの典型的な特徴が、息子の行動と一致していたのである。

なぜ親しい友達がいないのか

 番組では、ASDの特徴として、主に二つの点が挙げられていた。

 一つ目は「他人の気持ちが分からない傾向があり、人間関係の構築が苦手である」ということ。

親の僕が言うのも何だが、息子は利発で明るい子供だ。ゲームもやらず、テレビもほとんど見ないせいか、今の子供たちにありがちな"すれた"感じがなく、乱暴な言葉使いも一切しない。

 朝食と夕食は家族と卓を囲み、その日に起きたことを、嬉々としていくらでも話してくれる。親の手伝いも欠かさない、家族思いの、とても優しい子だ。近所の大人たちからも可愛がられている、自慢の息子でもあった。

 でも、そんな息子には、幼稚園の頃からずっと気になる点があった。同世代の親しい友達が、一人もいなかったのである。

 僕が幼稚園の授業参観に行ったとき、息子は休み時間にずっと一人で鉄棒にぶら下がり、グルグルと前回りをしていた。小学校に入ってからも、放課後に友達と遊ぶことはほとんどない。

 休日、僕と近所を歩いているとき、道でバッタリ会った同級生から「お~い!」と呼びかけられても、いつも完全に無視する。そのたびに「友達が呼んでいるよ。どうして答えないんだ?」と尋ねると、息子は「え、そんなことあった?」ととぼけるのだ。家の中で見せる明るく朗らかな姿とは、まったくかけ離れている。

 「よもや、学校でいじめられているのか?」と疑い、調べたこともあった。でも、そんな事実は出てこなかったし、本人も強く否定する。

 そもそも、息子の行動をよく見ると、一人でいてもまったく寂しそうではないのだ。誰かに迷惑をかけているわけでもないので、僕も「ただの内弁慶かもしれない」と自分に言い聞かせ、それ以上は気にしないようにしていた。

 しかし、「息子はもともと、他人の気持ちを推し量ることや、人間関係を構築をすることが苦手なのだ」と考えれば、一連の不思議な行動を説明できる---。テレビ番組を見ていて、僕はハッと気づいたのである。

歴代横綱の生年月日と通算勝敗数を覚えている

 そして、番組が説明していたASDの二つ目の特徴は「特定のことへのこだわりが強い」というものだった。たとえば、自分のスケジュールを崩されるのを極端に嫌ったり、特定の事柄については深い知識と旺盛な興味を持つものの、それ以外の分野のことはまったく知ろうとしなかったり、といった人が多いのだとか。

 確かに息子は、普段は穏やかで明るく、申し分のない性格なのだが、一つだけ"怒りのツボ"がある。事前に立てた予定が変わってしまうと、感情を爆発させることがよくあるのだ。シクシクと泣き出してしまう場合もあり、家族もどうしたらいいのか、途方に暮れることが珍しくない。

 たとえば家族で外出するときなど、出発が、あらかじめ決めておいた時刻から少しでも遅れるようなことがあったら大変だ。何の用意もできていないのに、息子はいきなり「あ~、もう遅れちゃう!」と叫んで、一人で玄関から外に飛び出してしまう。出発が遅れたところで何も困らない遊びの外出であっても、息子は激怒する。

 このように突然、豹変するので、家族は驚くばかり。まさにテレビ番組が指摘していた「スケジュールを崩されるのを極端に嫌う」という特徴がそのまま当てはまるのだ。

 一方で息子は、数字に強くて、算数が大得意。数字に関する記憶力も凄く、ギネスブックを買い与えれば、そこに書かれた記録の多くを記憶してしまう。大好きな相撲に至っては、歴代横綱の生年月日から通算勝敗数まで覚えている。数字以外のことに興味を持たないかどうかはわからないが、「特定の事柄に深い知識を持つ」のは間違いなかった。

一度、息子を診察してもらおう

 もちろん僕も、テレビ番組が説明したたった二つの特徴に当てはまるというだけで、すぐに息子をASDだと信じたわけではない。

 しかし、番組に出演していた専門家によれば、「子供のときに、ASDだという診断をきちんと受けておけば、後にいろいろな対処が可能になる」というし、子供の頃から対人関係を築くことが苦手で、「変わった性格」だと思われてきた人が、成人してASDと診断されたケースも増えているそうだ。後者はいわゆる「大人の発達障害」である。番組では、そうした人たちの子供時代から続く苦労や悩みも丁寧に紹介されていた。

 番組を見終えた僕は「一度、息子を診察してもらおう」と決心した。ASDでなかったなら、それに越したことはない。でも、もしASDであるならば、息子の不思議な行動の原因がわかるし、家族も適切に対応できるに違いない---。そう考えたのだ。

 問題は、診断をお願いする医師だった。子供も診断できる、優れた心療内科医は限られている。僕は1ヵ月間、病院を探し回った。そして、ようやく辿りついたのが、この日の午後3時半に予約を取った病院だったのだ。小さな病院だが、学界でも高く評価されている医師がいるということだった。

 僕たちは結局、猛暑の中、静まり返った住宅街をぶらついて、診察までの29分間(息子に言わせれば28分間)という時間を潰すしかなさそうだった。息子も僕もイライラするばかり。まさかこの日の診断が、息子だけでなく自分の運命まで変えることになろうとは、汗まみれの僕は夢にも思っていなかった。

 

2012年11月03日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第2回】 フォトグラフィックメモリーの持ち主

曖昧な言葉を絶対に許さない

 僕たちが病院の中に入ったのは、予定より15分早い午後3時15分のことだった。

 いつまでも見知らぬ住宅街をぶらついているわけにもいかず、やむなく病院の前に行ったが、まだドアは閉ざされていて入れない。息子に「あと何分?」と何度も尋ねられ、僕がそれに丁寧に答えているうちに、猛暑の中で汗だくになっている親子を見て気の毒に思ったのか、病院のスタッフが早めにドアを開けてくれた。

 たった14分(息子に言わせれば13分)の待ち時間に息子が言った「あと何分?」は、10回を超えていたはずだ。

 息子は病院内に入るとすぐに、壁際に並べられた一冊の本を手に取り、一心不乱に読み始めた。その横で僕は、受付で渡された問診票に、息子の行動で気になる点を詳細に書き込んでいく。

 いつもニコニコしているのだが、本当は他人と人間関係を構築するのが不得手(嫌い?)なこと。事前に立てた計画を崩されたり、予想していない出来事が起こったりしたとき、うまく対応できないこと。時間に非常に細かいこと・・・。医師に伝えたいことはいくらでもあった。

 10分ほどかけて問診票にぎっしりと書き込み、受付に提出すると、すぐに診察室の中から「どうぞ」という声が聞こえてきた。本から顔を上げた息子が、僕の手をぎゅっと握って尋ねてきた。

 「お父さん、怖くない?」

 息子は、初めて行く場所が大の苦手だ。そこで起きることが事前に予想できず、行動計画を立てられないからである。

 小さな頭の中で、最悪の事態が起こることを勝手に想像して、ひどく怯えてしまう。このときが典型だった。僕は、息子の不安を取り除いてあげようと思って答えた。

 「優しい先生だと思うよ」

ところが、息子の表情は急速に険しくなっていった。それに気づいた僕は、瞬間的に「しまった!」と後悔したが、もう後の祭りだ。

 本当は、僕は息子に「優しい先生だよ」と断定しなければならなかったのである。息子は「思う」という単語に含まれる曖昧さを絶対に見逃さない。

 「お父さん、『思う』っていったいどういうこと? 怖い先生かもしれないの? 注射される? 怒られたりするの?」

 「思う」という主観的な一言が加わっただけで、「優しい先生」が、正反対の意味の「怒る先生」へと変わってしまう。これこそが、息子独特の思考回路なのだ。初めての場所に行くときと同じように、自分の身に起きる最悪のシナリオを作りだして、怖がり始める。

最悪の事態を想像して、恐怖で動けなくなる

 こうなったら、なだめるのは至難の業だ。僕はやむなく、息子のお尻を押しながら診察室に入っていった。

 そして、穏やかな表情をした医師に息子を預けると、一人で診察室の外に出た。医師が「息子さんと一対一でじっくり話をしたい」と言ったからである。これから1時間以上かけて、息子のIQテストを行うとのことだった。

 僕たち親子を安心させようと思ったのだろう。医師は「お子さん一人でも大丈夫ですよ」と言葉をかけてくれたが、僕は内心、気が気ではなかった。

 息子は小学生になった今でも、僕や妻と離れて一人きりになるのを極端に嫌がる(学校だけはようやく慣れたようだが)。家で一人で留守番をすることなど、短時間でもできない。やはり、最悪の事態(強盗が家に侵入するなど)になることを想像し、恐怖で動けなくなってしまうのだ。

 以前、妻がたった5分間だけ近所に出て帰ってきたところ、息子が家の門の前にうずくまって、「もうお母さんは帰ってこない!」と大泣きしていたこともあった。妻は出かける前、「5分で戻るからね」と息子に声をかけていたにもかかわらず、である。

 そんな息子なので、これまでも病院で診察を受けるような場合は、必ず隣に僕か妻がいなければならなかった。彼ははたして一人で医師の診察を受けられるのか。いつ、「お父さ~ん」と泣き叫ぶ声が診察室の中から聞こえてくるかと、僕は不安にさいなまれながら待ち続けた。

息子が描いた絵の謎

 診察室のドアが開いて、息子が外に飛び出してきたのは、実に2時間後のことだった。しかし、不安そうな表情はまったく見られない。それどころか、笑顔で「楽しかったよ」と言うではないか。僕は「さすが名医は違うなぁ」と感心して、診断の結果を聞くため、診察室に入った。

 医師のデスクの上には、何かの絵が描かれた三枚の画用紙が並んでいた。見せてもらうと、一枚目の絵に描かれていたのは、小学生くらいの男の子が立っている姿。二枚目には、家の絵が描かれている。普通の一軒家だ。三枚目の画用紙には、枝葉を広げた木の絵が描かれていた。

 医師は「この『子供』と『家』と『木』の絵は、診察のため、息子さんに描いてもらったものです」と説明した上で、僕に質問を投げかけてきた。

 「この絵の中で、私が気になったところがあるんですが、わかりますか?」

 何だろう? 三枚の絵を見ながらあれこれ考えたが、わからなかった。たとえば、「子供」を描いた一枚目の絵は、頭から足の先までの全身像である。上手に描けていると思ったし、気になるところは一つもなかった。

 そう正直な感想を伝えてから、僕は、

 「別に変わったところがある絵とは思えませんけど・・・。ほら、僕だって子供の姿は同じようにこう描きますよ」

 と言って、画用紙の端のスペースに、男の子の絵を小さく描いてみせた。医師は、突然の僕の行動に意表を衝かれたのか、それとも僕の絵があまりにも下手で驚いたのか、しばらくそれをじっと見つめていた。

医師が凝視していたもの

 二枚目に描かれていた「家」には、母屋と物置らしき二棟の建物があった。屋根の瓦が一枚一枚、丁寧に描き込まれているので、とてもリアルだ。

 ただ、影が描かれていないため、家は宙に浮いているように見える。その点が問題だというのだろうか? でも、小学生であれば仕方がないと思うが・・・。

そんなふうに、僕は感じたままの感想を再び口にした。すると医師は「お父さんも、同じように描きますか?」と尋ねてくるではないか。その質問がどんな意味を持つのか、深く考えることもなく、僕は「そうですね」と応じ、また端のスペースに家を描いてみせた。

 屋根を描くのに少し時間がかかったものの、とりたてて特徴のない絵のはずだった。ところが医師は、「ほほう・・・」と唸りながらそれを凝視している。さっき僕が「子供」を描いた絵と同じく、あまりにも下手なのでびっくりしているに違いない。

 最後は「木」の絵だった。画用紙の真ん中を太い幹が貫き、紙の両端に向かう2本の線だけで、枝と葉を表現している。

 僕にはとても描けない芸術的なセンスのある絵だ。そう感想を述べると、医師は「そうですね」と頷いた。

僕を心底むっとさせた言葉

 それにしても、いつまでたっても「息子の絵で気になる点」が明かされない。僕は思いきって尋ねてみた。

 「先生は、息子の絵のどこが気になるというのですか?」

 「いや、別にどこが問題という訳ではないんですが・・・」

 医師は言いよどむと、「ちょっと伺ってよろしいですか」と再び僕に質問してきた。

 「問診票によれば、息子さんは、対人関係を構築するのが不得手で、予測できないことへの対応も苦手ということでしたが、逆に、何か得意なことはありませんか」

 そうか。言われてみると、僕は問診票に、息子について心配な点ばかりを書いて、長所を書き忘れていた。

 「息子は数に対する興味が強くて、算数が得意です。また、数字に関係する記憶は良いですね。大相撲なら、歴代横綱の生年月日と通算の勝敗表を言えるほどです」

 それを聞いた医師が「はぁ~、それは凄い記憶力ですね」と感心したような声を上げた。

その瞬間だった。胸の奥で何かが弾けた。僕の表情はひどく歪んだのではないかと思う。

 「凄い記憶力」という言葉に、僕は心底、むっとしたのである。実は、僕は記録力に関してだけは、子供の頃から誰にも負けたことがない。もちろん、息子にだって絶対に負けない。

 そして僕は、この記憶力の話題になると、なぜか感情が激しく波立ち、どんな場所でも、誰が相手でも、自分のことを話さずにはいられなくなるのだ。心の中で、「俺の記憶力がどれだけ凄いか知ってるのか!」と叫びながら・・・。このときも同じだった。

 「先生、息子より、僕の子供の頃の方が記憶力は良かったんですよ。僕はフォトグラフィックメモリーの持ち主だったんです」

 「フォトグラフィックメモリー?」

 単語の意味がわからなかったのか、医師は怪訝そうな表情をした。しかし、それに構わず、僕は喋り続けた。こうなると止まらない。口が勝手に動いてしまうのである。

 「フォトフラフィックメモリーとは、視覚でとらえたものを画像として脳に刷り込んでいく記憶法です。脳に画像を一枚一枚プリントしていく感覚です。僕はこの方法で、ちょっと時間をかければ、文字でも映像でも、見た通り丸暗記できるんです。

 子供の頃は、スポーツの記録集の内容を一冊丸ごと記憶していました。何の役にも立ちませんでしたが。歌謡曲番組の人気ランキングを毎週分、下位の方まで全部覚えておくなんて簡単でした。それから・・・」

 医師に何と思われようがどうでもよくなって、僕は自分のことを語り続けた。時間にして数分間だろうか、医師は「ふむふむ」とか「へぇ」などと相槌を打ちながら聞いていたが、やがて、こう切り出した。

 「お父さん、息子さんの話に戻りましょう。息子さんの絵で、私が気になった点を申し上げます」

 そうだ。本題は息子が描いた絵の話だった。それをすっかり忘れて、"自分語り"に夢中になっていたのだ。僕は姿勢を正し、「お願いします」と応じて、医師の言葉を待った。

 

2012年11月10日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第3回】 神から贈られた「ギフト」を持つ人間

人の話を聞かないタイプですか?

 息子の絵のどこに問題があるのか。再び緊張して待つ僕の前で、医師は息子が描いた子供の全身像の絵を手に取ると、こう説明を始めた。

 「いいですか。息子さんが絵に描いた子供には、本来、人間にあるべきはずのものがないんです」

 本来、あるべきはずのものがない?

 「耳が描かれていないんです」

 耳? そうか。言われて初めて気がついた。確かに息子が描いた子供には耳がない。

 でも、耳のない子供の絵を描くのは息子だけだっけ? 考えてみると・・・。

 「そう、さっきお父さんが描いた子供の絵にも、耳が描かれていないんです」

 そう言いながら、医師は画用紙を差し出してきた。受け取って、改めて眺めてみる。中央には、息子が描いた子供の全身像。その余白には、僕が描いた子供の全身像。二人の子供には、共に耳がなかった。

 今度は僕が唸る番だった。唸りながら、軽くショックを受けていることを自覚していた。

 なぜ僕は耳を描かなかったのか? これまで耳を描いたことがあっただろうか? あれこれ記憶を掘り起こすうちに、僕は幼い頃から、落書きだろうが、高校の美術の課題だろうが、一度も人の耳を絵に描いたことがないような気がしてきた。

 では、耳を描かないことがなぜ問題なのか? そう訝しんでいたら、医師はあたかも僕の心を読み取ったように、聞き捨てならないことを説明し始めた。

 「耳を描かない人には『人の話を聞かないタイプ』が多いんです。これは、あくまで絵から読み取れる精神分析学上の傾向で、すべてのケースに当てはまるわけではありませんが・・・。息子さんもお父さんも、そういうタイプですか?」

 僕はもう唸ることもできず、ただ唖然とする他はなかった。医師は正しい。確かに僕は「人の話を聞いていない」タイプの人間だからだ。いろいろな人から指摘されているし、自分でもそう思う。

 誰かと会話をしていて、相手の発言の中に自分が話したいことを見つけると、会話の流れがどうであれ、すぐに自分の話を始めずにはいられない性格なのだ。その結果、相手の発言を遮ってしまうこともしばしばある。

 もちろん理屈では、会話の相手の発言を遮ってあれこれ話し始めることがよくないというのはわかっている。しかし、実際にそういう場面になると、自分をコントロールできなくなる。自動的に口が動いてしまうのだ。

 そんな僕の性格をたった一枚の絵で言い当ててしまうとは、この医師はただ者ではない。まるで名探偵のようだと僕は舌を巻いた。でも、医師の話は、それからが本番だった。

「屋根瓦の絵」が語るもの

 次に医師が示したのは、息子が描いた家の絵だった。屋根瓦が一枚一枚、丁寧に描き込まれている。

 「息子さんの屋根瓦の描き方が丁寧すぎるんです。実際の家を見ずに、頭の中で想像して家を描くとき、普通の子供は屋根瓦を何十枚も丁寧に描けないものですよ。そもそも面倒で描かないということもあります」

 その言葉を聞いて、僕はハッとした。息子の授業参観に行ったとき、子供たちが描いた魚の絵が学校の廊下に貼られていたことを思い出したのだ。

 息子が描いた魚は、数十枚の鱗が一枚一枚細かく描写されていて、生きているようなリアルさだった。その絵を見た僕は、「息子は絵がうまいな」と無邪気に喜んだのだが、あれも問題だったのだろうか?

そんなことを思い返しながら、僕の目はふと、画用紙の端に描かれた絵に吸い寄せられた。そう、僕自身が余白に描いた家の絵だ。その絵にも、屋根瓦だけが飛び抜けて丁寧に描かれていた・・・。

 医師が再び、息子の絵について説明を始めた。

 「息子さんが描いた屋根瓦、本当に細かいですよね。これも、あくまで絵から読み解く精神分析学上の傾向ですが、『家の屋根瓦だけを細かく描く人には、特定のものへのこだわりが強いタイプが多い』と考えられています」

 前に述べたように、息子は歴代横綱の通算勝敗数や生年月日を覚えてしまうなど、特定のものへのこだわりが強いのは間違いない。僕は頷くしかなかった。

 そして医師は最後に、息子が描いた木の絵を手に取って言った。

 「この絵は素晴らしい。芸術的なセンスに溢れています。本当に才能豊かなお子さんだと思います」

 木の絵については誉められただけで、問題点は別に指摘されなかった。しかし、子供の絵と家の絵の「気になる点」を聞かされた時点で、息子がASDであるのは間違いないような気がしていた。僕は「息子がASDと診断される覚悟をしておこう」と心に決めた。

非常に恵まれた才能を持っている

 医師は顎に手をやってしばらく何かを考えていた。言いにくいことをどう言うか、言葉を選んでいるのかもしれなかった。やがて医師はこちらを向くと、変わらぬ穏やかな口調で意外なことを話し始めた。

 「息子さんのIQを調べたところ、140以上ありました。その事実に加え、木の絵の見事さを鑑みると、息子さんは非常に恵まれた才能を持っていると言えます。

 同時に、他の二枚の絵や、お父さんが指摘した日々の行動を考えると、アスペルガー症候群の可能性も否定できません。ただ息子さんは、日常生活で他人に迷惑をかけている訳ではありませんし、自閉症のように内向きになっている訳でもないので、今は気にしなくて結構です」

 そうか、息子は発達障害の可能性があるのか・・・。しかし、事前に覚悟していたせいか、そう聞かされても動揺はなかった。

「私は少なくとも、息子さんをアスペルガーと呼びたくないのです。息子さんのような子供を、我々は『神から贈られた才能』という意味で『ギフト』と呼びます。科学者や芸術家に多いタイプです。息子さんは、その『ギフト』の一人です」

 僕は、医師の説明を聞きながら、「『アスペルガーと呼びたくない』ということは、本当はアスペルガーなのだろうな」と冷静に考えていた。

 アスペルガー症候群であっても、息子は他人が羨む才能を持っているらしい。才能があるというのなら、ASDだって問題はないじゃないか。因果関係は素人の僕にはわからないが、ひょっとしたらASDだから才能があるのかもしれない。何よりも、思い切って専門医の診断を受けさせてよかった---。

 僕はそう考えてから、医師に切り出した。

 「先生、おおよそのことはわかりました。ありがとうございます。

 一つだけ、伺いたいことがあります。息子が勝手に悪い方に想像を膨らませてパニックになりやすいことはお話ししましたが、そういうときの対処法はあるのでしょうか。あるのなら、教えて頂けませんか。それさえわかれば、日常生活の悩みの多くが解消されると思うんです」

 僕の質問に医師は即答した。

 「パニックになる必要がないという理由を、問題が起きた発端の段階から、丁寧に、かつ論理的に息子さんに説明してあげてください。決して曖昧な表現はしないでください。余計に不安になります。

 そして今後は、日常生活の中で、社会と軋轢を起こさない方法を一つずつ、やはり丁寧に論理的に教えていってください。大事なのは、『問題の発端から』『論理的に』教えるということです。私もお手伝いしていきます」

 なるほど、と僕は思った。この医師は本当に息子の日常生活を熟知しているかのようだ。確かに普段から、恐怖を呼び起こしそうなことが起こっても、丁寧かつ論理的に説明すれば、時間はかかっても息子は納得してくれる。

 これならできる。しかも今後、もし何か困ることが起こったら、そのたびにこの医師に電話して相談できるのだ。何だ、息子のパニックなんて簡単に対処できるじゃないか・・・。

 しかし、現実はそんなに甘いものではないと僕は数日後に思い知らされることになるのだが、それについては後述することにしたい。

僕をパニックに陥れた言葉

 説明を聞き終えると、僕は医師に礼を言って立ち上がった。そして長時間の診察が無事に終わってホッとした気持ちから、一言だけ医師に冗談を言ってみた。

 「社会と軋轢を起こさない方法を息子に教えるのは、僕の方が先生より上手かもしれませんよ。僕もたぶんアスペルガーなので、息子の気持ちがわかりますから」

 あくまでも冗談のつもりだった。ところが医師は、真顔でこう応じた。

 「そうですね。ご自身がアスペルガーを克服した方法を息子さんにお話しするのは、すごくいい方法だと思いますよ」

 あれっ? と思った。聞き間違いだろうか。医師の言い方だと、僕は本当にアスペルガーのように聞こえる。表情を窺ったが、彼にふざけている気配はみじんもなく、穏やかな視線を僕に向けている。

 僕は椅子にもう一度座り直した。心臓の鼓動が激しくなってくるのがわかった。内心、「まさか・・・」と思いながら、おずおずと医師に聞いてみた。

 「すいません、今のは冗談のつもりだったんですが。僕、ひょっとして、本当にアスペルガーなんですか?」

 「可能性は十分にありますね。お話を聞く限り」

 数秒間の沈黙が流れた。何かを言おうにも、言葉が出なかったのだ。それでもかろうじて、絞り出すようにして声を出し、もう一つだけ尋ねてみた。

 「それって、マスコミなんかで最近よく取り上げられている『大人の発達障害』のことですか?」

 「はい」

 医師はあっさりと頷いた。

 全身からどっと汗が流れ出した。心臓の鼓動は一段と激しくなった。

 そうなのだ。息子だけではなく、僕も子供の頃から、予想していなかった出来事に対応するのが苦手なのである。確かに、息子も僕も発達障害であれば、同じようなことを苦手とするのは別に不思議でも何でもないのだが、このときはそんな思いを巡らす余裕はなかった。

 僕は予想外の出来事に出くわすと、いつもパニックになり、汗が大量に出て気分が悪くなる。このときがまさにそうだった。おそらく顔色は真っ青になっていただろう。医師の前で立ち尽くしたまま、頭の中では「大人の発達障害」という文字がグルグル回っていた。

〈次号に続く〉

22012年11月17日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第4回】 教科書を丸ごと脳にプリントする方法

母の胎内にいたときの記憶

 「大人の発達障害」だと医師に告げられた---。

 ショックが冷めやらぬまま、僕は息子と共に病院を出た。医師の前でパニックに陥りかけて冷や汗をかいた後に、今度は炎天下の猛暑による汗がどっと噴き出してきた。普段なら気持ちが悪くてうんざりしているはずだが、もう、どうでもよくなっていた。何も考える気力がなくなり、足取りだけがひたすら重かった。

 その僕を、さらに息子が驚かせた。彼は突然、こんなことを言い出したのである。

 「お父さん、さっき先生には言ったんだけど、僕、お母さんのお腹の中にいたときの記憶があるんだ」

 「本当か? どんな記憶だ」

 「ボンヤリした、うす~い赤い色の中に僕がいて、目の前に長い紐が伸びている。そんなことを覚えているんだよ」

 その言葉を聞いて、僕は息子の手を握ったまま立ち尽くしてしまった。歩こうにも足が動かない。異変に気がついたらしい息子が、心配そうにこちらを見上げる。

 「どうしたの? 何か変なこと言っちゃった?」

 我に返った僕は、急いで「違うよ。何でもない」と言って息子を安心させ、再び駅への道を歩き始めた。でも、全身が震えて止まらなかった。それは、息子から、母親の胎内にいたときのことを記憶していると打ち明けられたからではない。

 僕はこのとき、自分と同じ記憶を持つ人間に、生まれて初めて出会ったのだった。しかも、その人間が、他でもない「愛する息子」だったことに、驚愕しながらも深く感動していたのである。

「最初の記憶」を語ったら、嘘つき呼ばわり

 そう。僕の脳に刻まれている最初の記憶も、やはり母の胎内にいたときにまでさかのぼる。

 そして、それは息子が持つ記憶と寸分違わぬものなのだ。目の前に広がるのは、淡い紅色のボンヤリとした視界。薄く赤に染まった透明な膜に、早朝の太陽の光が当たったような色と言えばいいだろうか。足元からは、遠くに向かって、曲がりくねった細い紐がゆらゆらと揺れながらどこまでも続いている・・・。これが僕の最初の記憶である。

 このような「母の胎内にいたときの記憶」は、誰もが持っているものだとばかり思っていた。しかし、どうもそうではないらしいと僕が知ったのは、小学生3年生のときだった。何かのきっかけで、この話をクラスの担任教師にしたところ、「本を読んで、そういう記憶があると思い込んでいるだけだろう」と笑い飛ばされ、友達に話したら、今度は「嘘つき!」と言われて、囃し立てられたのである。

 母に言わせると、僕は本を読めるようになる前から、この胎内での記憶のことを母に何度も説明していたそうだから、思い込みなどではない。もちろん嘘でもない。でも、小学校で教師に笑われ、クラスメートに嘘だと決めつけられて以来、僕は誰にもこの「最初の記憶」のことを話したことはない。成人して今に至るまで、淡い孤独感と一緒に、宝物のようにひっそりと心の中にしまってきた。

 だから後で息子にも、「お母さんのお腹の中にいたときの記憶は、他の人に話してもきっと信じてくれないし、いいことはないから、言わない方がいいぞ」とだけアドバイスしておいた。

 後日、医師に電話でこのことを尋ねてみたところ、「息子さんのようなタイプの子供に、胎内の記憶があることは珍しくありませんよ」と教えてくれた。「息子さんのようなタイプ」というのが、ASD(自閉症スペクトラム障害)やアスペルガーなどの発達障害を持った子供を意味しているのかどうかはわからない。

 でも僕は、この話を聞いたことでようやく、「息子と俺は同じタイプの脳を持つ人間同士だったのか!」と確信が持てるようになった。そうであれば、医師がアドバイスしてくれたように、僕自身がこれまで、いかにしてアスペルガー症候群の特徴に悩まされ、克服してきたのか、その答えを知らなければならないと思った。

 そして、そのために、自分の記憶を徹底的に探ってみようと決心した。そこにこそ、息子が今後、社会を生き抜いていくための重要なヒントが隠されているに違いないと考えたからである。

 いったん心を決めると、医師から「大人の発達障害」を告げられたショックもどんどん薄れてきた。息子と並んで駅へ戻りながら、僕の歩調は次第に力強さを取り戻していった。

意地悪をされても、何も言い返せない

 僕は、子供の頃から少し「変な奴」だった。

 現在の僕は、仕事場では「機関銃のようによく喋る奴」だと思われているし、実際、その通りである。よく喋り、よく笑う。前に述べたように、人と会話をしているときでも、勝手に相手の話をさえぎって喋り始めてしまうほどだ。だから、周囲は割とにぎやかな雰囲気になることが多い。

 でも、僕は4歳の終わり頃まで、ほとんど喋ることができなかった。そのためなのだろう、当時、同じ団地に住む2歳年上の意地悪な女の子に、毎日のように「バ~カ!」と罵られていた。

 夕方、団地の入口で彼女に通せんぼをされ、中に入れない。早く家に帰って家族と団欒したいのだが、周囲が暗くなってもなお、彼女は僕を罵倒しつつ、通してくれない。

 そういうとき、文句を言おうにも、僕は何も喋れなかった。相手の言葉は理解できるのだが、自分の口から言葉が出てこないのだ。悲しく、辛く、惨めな思い出であり、いまだに忘れることができない。

 言葉を口に出すことができなかった当時の僕は、いつも「キーッ!」と泣き叫ぶしかなかった。そのときの、異常にもどかしい、苛立たしい感覚を思い出すと、今でも身の毛がよだつほどだ。

 しかも、子供の頃の僕は身体が大きくて、4歳でも小学生に見られるほどの体格だった。それでもうまく喋ることができなかったのだから、周囲からはずいぶん不思議な子供に見えたに違いない。

 実は、医師に電話を入れ、「母の胎内にいたときの記憶」についての説明を聞いたとき、あわせて「僕は子供の頃、喋り始めが遅かったんです」とも話してみた。すると医師からは、「胎内の記憶」に関するものと同じような答えが返ってきた。つまり「あなたのようなタイプには、喋り始めが遅い例が珍しくありません」と言われたのである。

 ただし、喋り始めが遅いからと言ってアスペルガー症候群であるとは限らないし、たとえアスペルガーだったとしても、その後、僕のようにお喋りになる人間も多いという。だから、「仮に子供の喋り始めが遅かったとしても、それだけで親が心配する必要はあまりないんですよね」と医師は語っていた。

すべて消えた幼稚園時代の記憶

 そんな僕も5歳になると、少しだけ喋れるようになり、両親は僕を幼稚園に入れた。でも、同学年の子供たちは僕より前から通っており、すでに園内で幼いながら人間関係を構築してしまっていた。

 そんな中に、当時の僕のような、言葉での意思表示やコミュニケーションがろくにできない子供が入っていったのだ。スタートは最悪のものとなった。

今でも脳裡によみがえってくるのは、初めて登園した日の光景だ。先生に呼ばれ、教室の前にうつむき加減で立った僕の前で、何人かの子供たちが体育座りをして、紹介される僕をじっと見ている。皆が睨みつけてくる。意地悪そうな目で、攻撃的な目で。

 もちろん、意地悪ではない子もいただろう。しかし僕は、彼らの視線が怖くて怖くて、凍ったように立ちすくんでいた。そして、たどたどしく挨拶を終えるや否や、幼稚園の敷地を囲む塀を乗り越えて、脱兎のごとく走って逃げた。

 それ以来、僕には幼稚園に関する記憶がまったくない。誇張ではなく、本当に記憶が消えてしまっているのだ。園庭で遊んだ思い出も、クラスメートの思い出も、一切残っていない。

 昔のアルバムに貼られている幼稚園時代の写真は、団地の一室で、両親や祖父母と遊んでいる姿を撮ったものばかり。幼稚園の制服を着ている写真は、卒園式の日に、担任の先生らしき大人の女性と並んで撮ったものが数枚あるだけだ。写真の中の僕は、泣きべそをかいている。でも、泣いたことも、その先生のこともまったく覚えていない。

 母に言わせると、僕が人並みに喋れるようになったのは、幼稚園を卒園した頃、つまり小学校に入学する直前だったという。いったん言葉を話すようになると、それまでの分を取り返そうとするかのように、猛烈な勢いで喋り始めたそうだ。

 同時にこの頃、僕は、別の特殊な能力を発揮し始めた。前に述べた「フォトグラフィックメモリー」と呼ばれる記憶力である。

 小学校に入る頃、僕は、集中すれば、視覚で捉えた事象を画像として脳に焼きつけられるようになっていた。別に辛いことでも何でもなく、ごく自然にできた。この能力は年齢と共に向上し、小学校高学年のときにピークに達した。

 小学校5~6年生の頃の僕は、A4版のノートに書かれている言葉の羅列を1ページずつ、集中して3回読み返せば、一字一句まで完璧に記憶することができた。教科書も似たようなやり方で内容を記憶した。

 たとえば歴史の教科書を覚えようとするとき、僕はまず、教科書の最初の1ページを、大声を出しながら猛烈なスピードで3回読み、脳にプリントしていく。次に目を閉じて、脳に焼きつけたページの文章を、また大声で、最初の文字から最後の文字まで猛スピードで音読していく。これでプリント完了である。

 この作業を2ページ目以降も繰り返していく。そうやって全ページを覚えれば、教科書が丸ごと頭に入ることになる。

なぜ歴史の年号なんかを間違える人がいるんだろう?

 中学時代以降、僕のこの能力は少しずつ落ちていった。特に記憶するスピードがだんだん鈍化した。脳へのプリントはできるのだが、そこに至るまでに必要な音読の回数が増え、3~4回では収まらなくなったのだ。

 それでも高校時代には、山川出版社が刊行する日本史の教科書を完璧に暗記したことがある。1ページ当たり10分もかからない程度のスピードで、すべて脳に焼きつけていった。

 フォトグラフィックメモリーの能力がピークだった小学校高学年の頃には、こんなことがあった。

 当時、僕は近所の小さな学習塾に通っていた。ある日、社会の先生から「次の授業までに、テキストを10ページ分覚えてきなさい」と言われた。

 僕は家に帰ると、すぐに課題にとりかかったが、30分で該当箇所を丸ごと暗記してしまい、遊び始めた。すると、その様子を見ていた母が「早すぎるわよ! 遊びたいから適当にやったんでしょう」と怒鳴りつけてきた。むっとした僕は「全部間違いなく覚えたよ」と言い返した。

 母は、僕がいい加減なこと言っていると思ったらしい。「じゃあ、今ここで暗誦してみなさい」と言ってきた。僕はその場ですぐ、10ページすべてを大声で暗誦してみせた。一文字の誤りもなかった。脳に刻み込んだテキストを読んでいけばいいのだから、当然である。

 テキストを見ながら聞いていた母は、「ふ~ん」と言ったまま、黙ってしまった。以来、暗記科目の勉強に関しては、一切口を出さなくなった。

 僕はしばらく、この「フォトグラフィックメモリー」を、「胎内の記憶」と同じように、暗記するときに誰もが使う方法だと考えていた。そもそも、この記憶法を会得しているからと言って得をすることは、テストのとき以外にほとんどなかった。しかも、暗記系科目以外のテストではまったく役に立たない。だから暗記系以外の科目で、僕の成績は今一つぱっとしなかった。

 そんなこともあって、小学生時代は、自分の記憶力を誇りに思うこともなかった。近くの席には、いつも成績が良いのに、なぜか歴史のテストで年号をよく間違えるクラスメートがいて、「勉強ができる奴なのに、なぜあんなものでミスをするのかなぁ」と不思議に思っていたくらいである。

 しかし、中学校に入学して間もなく、僕は、この能力をほとんどの人間が持っていないのだと知ることになった。そのきっかけは、ここに書くのが申し訳ないほど「しょうもない出来事」だった。

〈次回に続く〉

2012年11月24日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第5回】 「お前は天才だ」と呼ばれた日

奇妙な緊張感に包まれた教室

もしも僕の人生を振り返って年表を作るなら、決して欠かすことのできない「あの出来事」が起きたのは、今から25年ほど前。蒸し暑い7月のある日のことだった。 

その日、僕が暮らす町では、朝からずっと雨が降っていた。鬱陶しい雨は勢いを弱めながらも、僕たちの登校中も降り続いていた。まだ梅雨が終わる気配はなかった。 

教室に入ると、クラスメートたちは皆、何やら落ち着かない様子だった。隣や前後の席同士で二人組になって、ヒソヒソと小声で数学や英語の問題を出し合う連中がやたらと目についた。 

普段は教科書を学校に置きっぱなしにして、「勉強なんか人生の役に立たねえんだよ。体力と人間関係がありゃいいんだ」と、威勢よく"世間のすべてを知っているかのような口"をきいて同級生の尊敬を集めていたIは、深刻そうな表情で教科書をのぞき込んでいる。その隣の席の生徒は、もう何もかも諦めてしまったかのように、机の上に突っ伏したまま動かない。 

とにかく、いつもなら騒々しいはずの朝の教室は、奇妙な緊張感に包まれ、静まり返っていた。 

それにはもちろん、理由があった。その日は、僕たちが夏休みを迎える前の最後の難関、期末テストが実施される日だったのである。 

躍り上がって喜ぶほどの大ニュース

しかし---。 

この日の僕には、期末テストよりも大事なニュースがあった。それは、前夜に起こったばかりの、とても嬉しいニュース。僕は朝起きたときからそのことを誰かに話したくて、ずっとウズウズしていた。だから教室に入ると、何はともあれ、この思いを共有できるはずの2人の同級生の姿を探した。 

目指す2人、サッカー部のTとバレーボール部のMは、すぐに見つかった。2人は他の同級生と離れて、窓際の壁にもたれかかり、ヘラヘラした様子で何かを話し込んでいた。予想通り、あの嬉しいニュースの話題を交わしているに違いない。僕は興奮気味に2人の元に駆け寄ると、声をかけた。 

サザンがトップ取ったな!」 「ザベテン、見たか?

 「ザベテン」というのは、当時、毎週木曜日の夜9時から1時間、TBS系列で放送されていた音楽番組「ザ・ベストテン」のこと。「サザン」とはもちろん、桑田佳祐率いる「サザンオールスターズ」のことだ。

この日、僕が話したくてウズウズしていたニュースとは、「ザ・ベストテン」で、サザンオールスターズの「BYE BYE MY  LOVE」という曲が総合ランキングのトップに立ったことだった。

 「そんなのが大事なニュースなのか?」と呆れる人もいるかもしれない。しかし、10代の頃の僕にとって、それは世の中で起こるどんなことよりも重大で、気持ちをハッピーにさせるニュースだった。

僕とTとMの3人は、小学生の頃からサザンの大ファンだった。でも当時は、チェッカーズ、松田聖子、中森明菜、田原俊彦、近藤真彦、小泉今日子などが次々とヒットを飛ばすアイドル全盛期。「ザ・ベストテン」の総合ランキングも、毎週のように彼らに席巻されていた。 

そんなアイドルの牙城を前夜、サザンが突き破り、総合ランキングのトップに立ったのである。『いとしのエリー』『チャコの海岸物語』以来、久々の快挙とのことだった。それは、「ザベテンおたく」で「サザンファン」だった僕たち3人にとって、躍り上がって喜ぶ他はない大ニュースだった。 

「ザ・ベストテン」の順位を決める4つのランキング

僕の問いかけに対し、Tは「もちろん見た!」と答えて喜びの表情を浮かべると、「BYE BYE MY  LOVE」のサビの部分を歌い出した。近くの席で教科書を読んでいた秀才タイプのクラスメートがうるさそうに振り返った。「試験の前にうるせえんだよ!」と文句を言いたそうだったが、僕らの知ったことではなかった。

腕っ節の強いTが睨み返すと、秀才クンは悔しそうに視線を教科書に戻した。僕とMも、Tの声に合わせて歌い始めた。まさに至福のときだった。 

こうして3人は、試験が始まる直前まで「ザ・ベストテン」とサザンの話を続けた。ちなみに、僕たちが「ザ・ベストテン」の話題で盛り上がるのは、この日に限ったことではない。番組が放送された翌日、つまり金曜日の朝はいつも同じ調子だった。 

前夜、番組で発表された総合ランキングに関して、中学生なりの分析を行うのである。それは、僕たち3人にとって、他にどんな重大な問題が起きていても決して欠かすことのできない「金曜朝の慣例行事」だった。 

僕たちが夢中になっていた、「ザ・ベストテン」の総合ランキングは、4つの各種ランキングを元に決定されていた。それは、

① レコードの売り上げ(当時、ダウンロードというものはもちろんなかったし、CDは存在していたが普及していなかった)
 視聴者から番組への葉書によるリクエストの数(今ならメールだろうが、当時のファンは手書きの葉書で番組にリクエストを出したものだ)
 ラジオ各局のベストテン番組のランキング
 有線放送へのリクエスト数のランキング

の4つである。曲の総合点は、①~④それぞれのランキングに何らかの係数を掛けたものを足し合わせ、算出していたようだ(満点は9999点)。この総合点によって、毎週、すべての曲の総合ランキングが発表される。 

覚えている人も多いと思うが、「ザ・ベストテン」は生放送だった。1位から10位までの曲は、歌手がスタジオや中継先から歌うことが許されていた。 

中にはオフコースや中島みゆきなど、「テレビに出ないことがポリシー」などと言って出演しない人たちもいたが、多くの歌手にとって、この番組で歌うことは最高の晴れ舞台だった。工夫を凝らしたセットをバックに歌う歌手たちを緊張感が包み、その雰囲気は、今思い返しても素晴らしかったと思う。 

でも、僕にとっての楽しみは、何と言っても、毎週変動するランキングにあった。中でも、前述した4つのランキングの動向を細かくチェックしているときが、僕にとっては何よりも幸せな時間だった。 

大半の視聴者が興味を持たないシーンを見つめて

4つのランキングについては、いつも番組の冒頭に、それぞれの1位から10位までがテロップ(画面に出る文字)で発表されていた。ただし、1つのランキングが画面に映っているのはわずかな時間。僕の記憶では、その順位をアナウンサーなどが口頭で読み上げるということはなかった。あくまでも、文字情報として短時間、視聴者に提示されるだけだった。 

でも、スポーツの記録集やギネスブックを細かく眺めるのが大好きだった僕にとって、4つのランキングが次々と表示される番組冒頭のシーンは、まさにこたえられないものだった。大半の視聴者があまり注意を払わないであろうこの最初のシーンを、僕は毎週、じっと見つめていた。 

僕たち3人は、番組を楽しむポイントがそれぞれ違っていた。

サッカー部のTは、ゴシップ雑誌に載っているような噂が大好きだった。たとえば、「演歌歌手のKは有線放送に自分でリクエストして、『ベストテン』の上位を狙っているらしい」といった、どこから仕入れたのか、はなはだ怪しい業界の裏話をいつも自慢げに披露する。 

バレー部のMは、普段は真面目な男なのだが、「聖子ちゃんのスカートが長すぎて脚が見えなかったのにはむかついた」とか「キョンキョンの脚はキュートだよ」などと、なぜかアイドルの脚の話ばかりする。「サザンのファンのくせに何を言ってるんだ」と僕は内心思っていた。当時はそんな言葉を知らなかったが、Mは「脚フェチ」の傾向があったのかもしれない。 

そして僕は、「ザ・ベストテン」を見始めた小学校低学年のときから、冒頭に流れる各種ランキングの分析を自分なりにして、友達に話すのが大好きだった。たとえば、こんな感じである。 

 「松田聖子の『チェリーブラッサム』は今週、レコード売り上げが1位、葉書の数も2位だった。有線ランキングで9位じゃなければ、総合1位だったのにな・・・。

やっぱり、有線では演歌が強いよ。竜鉄也の『奥飛騨慕情』なんか、レコード売り上げは下位なのに、有線ランキングではここ3週ほど、1位→4位→2位となっているからね」 

断っておくが、これらの数字は例として適当に書いたものである。でも、松田聖子と竜鉄也が同時にランクインしたことがあるのは事実だ。『チェリーブラッサム』と『奥飛騨慕情』が同時期に総合ランキングに入ったのだ。 

 「ザ・ベストテン」では、番組の最後に、スタジオで歌った歌手たちと司会者が一緒に記念写真を撮影するのが慣例だった。松田聖子と竜鉄也が一緒にソファに座ったシュールな光景を、僕は今も鮮明に覚えている。

お前、細かいランキングをどうやって記録しているの?

TとMは、僕の各種ランキング話を、いつもフンフンと頷きながら聞いてくれていた。そのため、僕は、彼らも独自のランキング分析を行っているのだろうと思い込んでいた。しかし、「サザンの総合ランキング1位」で盛り上がったこの日、思わぬことがわかった。 

期末テストが終わった後、またTとMをつかまえて僕なりの分析を披露したところ、Tに突然、こう言われたのである。 

でも、あんなに短い時間で全部読み上げることなんかできねえよなぁ・・・。俺もあの4つのランキングをメモに取っておきたくてさ。お前がどうやってるのか、方法を教えてくれよ」 テレビを見ながらランキングを読み上げて、その声をラジカセで録音してるのか?  「おい奥村、お前さぁ、毎回、4つの細かいランキングをどうやって記録しているんだよ?

僕は一瞬、質問されている意味がわからなかった。確かに当時、テレビ番組を録画するビデオデッキはあったけれども、まだそんなに普及しておらず、少なくとも僕たち3人の自宅にはなかった。そのため僕たちは、どうしても記録しておきたい歌番組などがあると、放送中の画面にラジカセを近づけて、録音(録画ではない!)するしかなかった。

しかし、前述したように、「ザ・ベストテン」の冒頭部分に出る4つのランキングは、画面上に文字で表示されるだけで、音声で語られるわけではない。だから、ラジカセによる録音もできない。かといって、自分でランキングを読み上げてその声を録音しようにも、Tが言うように、画面に出ている時間が短すぎて、とてもできない相談だ。 

ならば、僕はどうやって毎週、4つのランキングを記憶していたのか。そう。いつも食い入るようにテレビ画面を見つめているうちに、画面に映ったランキングの映像が、短時間でもくっきりと脳にプリントされていたのである。 

一度見ただけで、完璧に脳に焼きつけられるもの

僕は情報を、どのくらいのスピードで脳にプリントできたのか。どのくらいの期間、そのプリントを保持していられたのか。 

それは、プリントする情報が記されたもの(紙や画面など)の大きさや、記憶するときの集中度に左右された。前にも述べたように、普段、テストなどのために暗記するときは、A4版の資料に書かれた内容が最も脳にプリントしやすかった。具体的には、資料を3回声に出して読み込んで、それから1回、目を瞑って暗唱する。それでプリントは完了となる。 

中学生の頃までは、試験前になると、覚えなければならないことをA4版の紙にまとめ、1ページずつではなく、7~8ページずつを通して3回読み返して、一気に脳に焼きつけていた(高校生に入ると、一度にプリントできる量、つまりページ数が落ちた)。 

でも、ギネスブックやスポーツの記録集など、自分が特に興味を持っている情報を脳にプリントするときは別だった。集中力が高まるのか、3回も読み返す必要などなかった。1回読んだ(見た)だけで、完璧にプリントできたのだ。 

しかも、そういう内容は、テストのために暗記するものと違って容易に忘れない。テストのために覚えるのは本来、何も興味がない内容なので、脳にプリントされている期間は数日間に過ぎなかった。 

その意味で、大好きな「ザ・ベストテン」の画面で4つのランキングを見るときの集中力は、ギネスブックやスポーツの記録集を見るときに匹敵するレベルだったと思われる。一度画面を見ただけで、ほぼ正確にランキングを暗記できていたし、その内容は、放送から数週間経っても脳に残っていた。だから、過去のランキングのデータも、瞬時に脳から取り出すことができた。 

理解はできないけど、丸暗記ならできる

僕はTとMに対し、自分なりに上記のような説明をしてみた。 

自分の目で見ないと信じられるかよ」などと騒ぎ出した。そしてTは、「じゃあ、これで試してみろ」と言いながら、机の中から数枚の紙を持ち出してきた。それは、期末テストの科目に入っていないため、生徒の誰もがろくに授業を聞いていない「道徳」の教材だった。 すると2人は「お前、嘘ついてんじゃねえよ」「本当にそんなことができたら超能力だろ! 

当時、僕たちの中学校には、妙に張り切っている道徳の先生がいて、なぜかギリシャ哲学の基礎を教えようとしていた。授業は当然、中学生にとっては難解極まりない、ちんぷんかんぷんなものとなり、多くの生徒は居眠りしていた。 

でも、先生はとても立派な人で、授業が終わると毎回、講義内容を詳細に書き起こした手製の教材を、生徒たち一人一人に配ってくれた。A4版の用紙10枚ほどに細かい字で書かれたその中身は、僕たちにとって、宇宙人の言葉のように意味不明の代物だった。 

Tが僕の前にポンと置いたのは、そのギリシャ哲学の教材だった。僕は聞き返した。 

 「これがどうした?」

するとTは言った。 

 「お前が言ったことが本当なら、この紙に書いてあることも、3回読めば丸暗記できるわけだよな?」

僕は(他のほとんどの生徒と同じく)この教材をまともに読んだことは一度もなかった。それでも、「丸暗記ならできるよ」とTに答えた。「理解はできないと思うけど」と付け加えるのも忘れなかったが。 

2人は「お~!」と驚きの声を上げたが、何かの予感がしたのか、茶化すような雰囲気ではなかった。特にTは真面目な表情になり、「じゃあ、1ページでいいからやってみてくれ」と言った。 

音のない、完全に自分だけの世界に入っていく

こうなったら、何だかよくわからないが、やってみるしかない。 

僕は机の上に、教材から適当に引き抜いた1枚の紙を置き、睨みつけるように凝視した。そして、左上の最初の文字から、大声を出しながら猛烈なスピードで読んでいった。 

哲学用語なのか、聞いたこともない単語や、長ったらしい外国人の名前がいくつも出てきた。それらの言葉も、文章の意味も理解できない。でも、ひたすら音読しながら脳に焼きつけていく。

貧乏揺すりが始まり、止まらなくなる。揺れはどんどん激しくなる。三度目の読み込みに入った頃から、周囲に人がいることをまったく意識しなくなる。教室内のざわめきも一切聞こえない。 

僕は完全に一人だけの世界にいた。音のない深海に潜っていくような気分。集中して情報を脳に焼きつけていくときに訪れるこの感覚が、僕は大好きだった。 

紙に書かれた文章を3回音読した後、今度は目を閉じて、また猛スピードで暗唱した。これで脳へのプリントの完了だ。 

僕は紙をTに渡した。そのとき、初めて気づいたのだが、TとMの他にも10人ほどの生徒が周りに集まり、「何だ、何だ」と言いながら僕を見つめていた。それだけ大声を出し続けていたのだろう。異様な光景だったに違いない。 

僕は、皆の好奇心に満ちた視線に照れくささを感じたが、TとMが紙に目を落としたのを確かめると、脳にプリントした教材の文章を、左上の一文字目から一気に読み上げていった。かなりの早口で、一文字も間違えることなく。 

読み終えると、僕は「ふ~っ」と息を吐いた。周りのクラスメートたちは、呆然と僕を見つめている。彼らの表情には、明らかに驚愕と畏怖の色が浮かんでいた。 

僕と目が合うと、TとMが同時に大声で叫んだ。 

 「お前、天才だ!」

他の同級生も口々に「お前、天才だったんだな」と話しかけてきた。僕にとっては、それまでの人生で最も晴れがましい瞬間だった。そして僕は、この後、TとMに話を聞いて、多くの人が自分と異なる方法で暗記を試み、日々、苦闘していることを知った。 

 「天才」と誉められたものの、僕の記憶力(記憶法?)は残念ながら、頭の良さとはまったく結びついていない(らしい)。ひょっとすると、発達障害の症状と関係があったのかもしれない。

だから、「天才」の化けの皮がはがれるのも早かった。期末テストからわずか1週間後、答案が返された授業でのことだった。僕の点数を見たTとMは、またも非常に驚いた表情で聞いてきた。 

訳がわかんねえよ」  「奥村、お前はめちゃくちゃ記憶力がいいのに、どうしてそんな点数なの?

僕は「えっへっへ」と苦笑いしながら、「俺にもわかんねえ」と応じるしかなかった。 

TとMが驚くのも無理はない。確かに僕は、暗記科目である歴史の点数は良かった。しかし数学、特に幾何の証明問題は、惨憺たるものだった。そして、暗記力が大きく影響しそうな英語や国語も、点数は今ひとつ。 

実は、そういう結果が出た本当の理由はわかっていた。僕は、TやMが簡単に、意識しなくても自然にできる「あること」が、何度努力しても、どうしてもできなかったからである。 

〈次回に続く〉