2013年04月27日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第26回】
息子の心に、ナイフのように突き刺さった言葉

急に無口になり、笑わなくなった

 どうやら、悪い予感が現実になったらしい。

新学年が始まって 2週間あまり経った先週のこと。息子は、小学校に通うことができなくなってしまった。

すでに記したように、ほんの 1ヵ月前の3学期が終わる頃、息子は、自分から楽しく学校に通うようになっていた(第25回参照)。帰宅すると、「(学校が)楽しかった~」と言い、友達もできた。それらは小学校に入学して以来、初めてのことで、僕も妻も「これは奇跡ではないか」と涙を流して喜んだ。

 今度は、それが真逆の方向に暗転して、最悪の状態に陥ってしまった。詳しくは後で説明していくが、息子は精神的に強いショック状態に陥り、日常的な行動をする気力さえ失ってしまったのだ。こういう事態になると、「発達障害を抱える子供の言動を予測するのは難しい」とつくづく思う。

僕自身も ASDを抱えているが、それがどんな言動や症状となって表れるかは、個々人によってまったく異なる。息子と僕では「時間にものすごく細かい」「数字に徹底的にこだわる」「人の気持ちに配慮できない」などの共通点があるが、全然重ならない特徴もある。

だから、息子のことについては「一寸先は闇」だ。少しくらい物事が順調に進んだからと言って、油断は大敵だな ---。そう思って、僕は溜め息を吐いた。

 始業式と入学式が終わってから、息子は急に無口になった。家にいても、ずっとぼんやりした無表情になって、笑うこともなくなったのだ。

 いつもは食事の席でも、学校で勉強したことをあれこれ喋ったり、テレビを見ながらニュースや天気予報の内容を繰り返したりしているのだが、そういうことがふっつりとなくなった。黙ったまま食事を終えると、視点の定まらないうつろな目をして自室に戻っていく。

これまでも、たまに似たようなことがあったが、数日間で終わった。しかし今回は、 2週間も息子の無気力、無表情が続いている。

そのため、今週の月曜日の朝を僕は憂鬱な気分で迎えた。「また息子が今日から 1週間、学校に行って、ますます変調がひどくならないだろうか」という心配のあまり、眠りが浅くなってしまい、5時には起きてリビングで水を飲みながら、ぼんやりしていた。6時になると、やはり息子のことが心配で落ち着かなかったのだろう、妻も浮かない顔で起き出してきた。

そして、「おかしいよね、どうしようか」と相談してみたが、夫婦2人で頭を突き合わせたところで、急に画期的なアイディアが出るはずもない。かといって、息子にあれこれ問いただして、変なプレッシャーを与えたり心の傷を残したりするのは避けたい。では、医師に相談しようか・・・など、あれこれと2人で迷い続け、考えはまとまらなかった。

スケジュールが崩れたのに、パニックに陥っていない

ガタンとドアを開ける音がしたのは、 7時を4分ほど過ぎた頃だった。振り返ると、息子がリビングに入り、僕と妻が話しているテーブルにノロノロとやってくるところだった。

 足を引きずるような、だるそうな歩調で歩くと、息子は椅子にちょこんと座った。その間、何も話さず、僕たちを見ようともしない。

まず、この起床時刻からして驚くべきことだった。息子は通常、起きる時刻を自分で決め、これを厳守している。 3月下旬の春休みに入る頃、「これから僕は5時半に起きる」と宣言して(それまでは6時に起きていたが、何を思ったのか30分早めたのだ)、実際、この4月の新学期が始まるまでは、1分もずれずに5時半ぴったりに起きていたようだ。

それが、もう 1時間半も遅れている。先週も6時や6時半など、すでに自分が決めたのより遅い時刻に起きていたのだが、7時を過ぎたのは初めてだ。しかも、遅れる場合でも、息子には「ぴったり30分単位で時刻をずらす」という発想があるらしく、これまでも、それぞれ6時ちょうど、6時半ちょうどに起きてきた。

それ以降となれば、 7時ちょうどに起きなければならないはずだが、リビングに入ってきたのは7時4分である。この4分のずれは、ASDを持つ者にとって、あまりにも大きい(もし僕が、何かの行動をする時刻が4分ずれてしまったら、制御できないほどの苛立ちを感じるだろう)。息子の中で、何らかの原因で重大な変化が起きているのは間違いないように思われた。

もともと、「事前に定められたスケジュールが変わるのを極端に嫌がる」という、 ASDを抱える者の特徴を強烈に持っている息子である。他人から「自分のスケジュール」を崩されるだけで激怒する彼が、自分で「自分のスケジュール」を破るのを、僕は今まで一度も見たことがなかった。

 しかし、目の前では実際に、そのあり得ない事態が起こっている。さらに信じられないことには、スケジュールが崩れたのに、息子はパニックに陥っている様子もなければ、苛立っている風でもない。

これこそが、息子の心が極めて深刻な状態になっていることの証拠に違いない ---。僕はそう思って、胸の奥から急速に焦りがこみ上げてくるのを感じていた。

吐いた回数を数えていた

 息子はテーブルについたものの、ちょこんと椅子に座ったまま、ぼんやりしている。相変わらず、焦点の定まらない視線を前方に向けている。

普段のように、「遅れちゃった !」と叫び始める訳でもなく、テレビのニュースや天気予報を凝視する訳でもなく、食事を始める訳でもなく、僕たち両親と会話を始める訳でもない。ただ、気力や生命力といったものを感じさせない弱々しい雰囲気で、椅子に腰掛けているだけだ。

 とにかく、起こっている問題を把握し、解決策を考えなければならない。そう思った僕は、努めて明るい声で「おはよう」と息子に声をかけた。すると彼は、非常に小さく暗い声で、呟くように「おはよう~」と答えた。

僕は内心、「こんなにか細くて弱々しい声が出せたのか !?」と驚いたくらいだった。妻もびっくりしているはずだが、平静を装って、「おはよう。ご飯食べなきゃね」と言った。すると息子は、驚くべきことをぽつりと漏らしたのである。

 「今日も吐いちゃった」

 月曜の朝の会話としては、あまりにも異様な発言だった。僕はびっくりしたが、その様子をなるべく出さぬよう、冷静に話そうと努めながら、こう聞いてみた。

  「吐いた? 気持ちが悪いの?」

 息子はかすかに頷いて答えた。

 「うん。さっき起きてすぐにトイレで吐いた。夜中にも、昨日も・・・」

 「何だって?」

 「昨日は、朝から寝る前までに9回も吐いたんだ」

 妻からは、昨夜から今朝にかけて、息子が何度かトイレに行っているらしいということは聞いていた。だから、むしろお腹を壊しているのではないかと疑っていたのだ。

 それが、実は吐いていたとは・・・。僕は続けて聞いてみた。

 「食べたものを吐いちゃったのか?」

 「ううん。それは食べた後、最初に吐くときだけだよ。その後は、唾とか苦い水みたいなのしか出ない。でも、ずっと気持ちが悪い。今もむかむかする」

 「吐くようになったのは昨日から?」

 「ううん。先週から。その前の週も・・・」

 前に述べたように、「他人とコミュニケーションを取らされる学校に行きたくない」「苦手な集団生活はしたくない」という強い拒絶感が、特に毎学期の初め、息子によく頭痛や発熱を起こさせる(第25回参照)。吐き気を訴えることも、これまでときどきあった。

 しかし、実際に吐いたのは数回しかないはずだ。まして、そんなに何度も何度も吐いたというのは初めてである。

 「なぜ、こんなひどい状態になるまで俺は気がつかなかったのだろう」と、僕は心の中で激しく自分を責めた。隣の妻も、同じことを思っているのか、申し訳なさそうな表情で息子を見ている。

確かに年度の初め、僕の仕事が殺人的に忙しかったのは事実だが、もっと早く息子の変調に気づくことはできたはずだった。やはり、この前の 3学期、素晴らしい先生と出会ったおかげで状況が劇的に好転していたため、僕も妻も心のどこかで楽観、油断しており、息子への注意がややなおざりになっていたのである。

そんな風に、頭を抱えたくなるような自責の念に苛まれつつも、僕は心のどこかで「昨日吐いた回数を数えていて、それをまず言ったのは、やはり ASDの持ち主なんだな」と感じていた。そして、「もし息子が自分から吐いた回数を言わなかったら、間違いなく俺の方から『何回吐いた?』と聞いていただろう」と考えた。

実際、「吐いちゃった」と聞かされた直後、僕の頭には「何回吐いたのだろうか ?」という疑問が浮かんでいたのである。反射的なリアクションだった。

同じ ASDを抱える息子と僕。こんな非常事態の中でも、無意識のうちに、強い「数字へのこだわり」が出てしまうのが、不思議である。

こんなに「学校に行きたくない」と思ったのは初めて

 息子は再び口を閉じて、椅子に座ったまま動かなくなった。相変わらず、表情というものがない。

僕は妻と、とりあえず自分たちの分の食事をした。といっても、 2人で何かを話題に会話をするのもあまりに白々しく、やはり黙ったまま箸を動かした。テレビのニュースでアナウンサーが喋る言葉ばかりが、リビングに虚しく響いた。

重苦しい沈黙の中、時刻は 7時45分を過ぎた。もはや、息子がこれから食事をして登校しても、遅刻するのは間違いなかった。僕は意を決して、息子に、

 「今日は学校に行かなくていい。休みなさい」

 と言った。こうなったら、親子で徹底的に話し合い、何とか事態を好転させるべく、親としての対応の遅れを取り戻すべく、必死で努力するつもりだった。

幸い、それほど早く出勤しなくてもいい日だったので、スマホから職場の後輩に「会社に出るのが 1時間半遅れます。よろしく」とメールを送ると、息子の正面の椅子に腰かけた。妻は、僕たちが一対一で話した方がいいと判断したらしく、キッチンに行って食器を洗い始めた。

学校で何があったのか それを突き止めない限り再び学校に通うようにはならない、と僕は推測していた。 いったい、何が原因で、息子は毎日のように吐くほど追い詰められてしまったのか? ?

 しかし、性急に聞き出そうとするのは逆効果だ。息子のもつれた心をほぐすときは、絶対に、詰問する口調も、怒る口調も、逆に同情や優しさを強調するような口調も、避けなければならない。

 こういうとき、事情を聞く僕にとって重要なのは、感情をまったく込めずに、なるべく冷静に話しかけることだ。そうしないと、息子は逆にパニックに陥ってわめき始めたり、不信感に満ちた視線で睨み返してきたり、気持ちを閉ざして黙り込んだりしてしまう。

僕はその"心得" を改めて自分に言い聞かせ、息子の目をじっと見つめて、なるべく穏やかな声になるよう最大限の注意を払いながら、こう尋ねてみた。

 あるなら、言ってごらん。お父さんは絶対に怒らないし、バカにしたりもしない。お父さんが必ず解決してあげるよ」 「何か、学校で嫌なことがあるの?

 それを聞いて、息子の目に涙がどっと溢れ始めた。そして、ヒックヒックと泣きじゃくりながら、「もともと学校は好きじゃないけど、こんなに『学校に行きたくない』と思ったのは初めてだよ」という事実と、その理由を話し始めた。

まっすぐに整列しない1年生を怒鳴りつける

息子が極度の変調に陥ったきっかけは、僕が危惧していた通り、「新 1年生の世話係」という役目を命じられたことだった。やはり、これが息子にとって猛烈なストレスとなったのだ。

躓きは、入学式の朝から始まった。負わされたミッションに緊張しながら登校した息子は、まず自分の教室にカバンを置くと、そのまますぐ、面倒を見ることになっている 1年生の教室に向かった。来るようにと指示された時刻の、ぴったり15分前に着いたという。

息子は、他人から命じられたことでも、自分が納得してやると決めれば、おそろしく真摯に取り組もうとするので、集合場所などに一番乗りすることが多い。このときも、「どんなことが起きるかわからないから怖い」「どんな 1年生がいるかわからないから不安」というプレッシャーを感じつつも、「僕は1年生の世話をするんだ」という思い込みを持って、早々と到着したのである。

 そんな健気な様子を思い浮かべると、僕は息子が可愛らしく、いじらしくてたまらなくなる。しかし、残念なことに、息子のそういう思い込みは、実を結ばないことが多い。

いや、それどころか、思い込んだ分だけ、負のハレーションが逆に自分にはね返ってきて、悪い結果になるケーやがて息子は、1年生のクラスの担任教師から、「奥村君、もうすぐ入学式の会場に向かうから、教室の前の廊下にみんなを整列させて」と指示された。そこで、廊下に出た1年生たちに「まっすぐ並んでください」と声をかけた。それが、悲劇の始まりだった。

このとき息子に起こったことは、前回述べた、やはり小学生時代の僕が新 1年生の面倒を見るように言われ、パニックに陥ったときの出来事と似ている。違うのは、昔の僕が、猿のように騒いだり走ったりする1年生に手を焼いたのに対し、息子はそのもっと前の「整列」の段階から、「1年生たちがまっすぐに並ばないこと」に恐慌をきたしてしまったという点だ。

 息子にとって、「整列」とは、定規で引いたような直線で並ぶことに他ならない。それ以外、整列というのはあり得ないし、「整列しなさい」と命じられた人間たちがまっすぐに並べないなど、息子にとっては絶対に起こってはならないことなのだ。

しかし相手は、ついこの間まで幼稚園児だった子供たちである。息子が声を張り上げて「列を崩さないで !」と注意しても、その通りに従うはずがない。落ち着きのない1年生たちは、手を振り回しながらふらふら歩いたり、廊下の反対側の壁によじ登ろうとしたり、意味もなくぴょんぴょんとジャンプしたりして、常に列を崩し、直線になどなろうとしなかった。

それを見た息子の心は、激しくかき乱された。「ほら、そこは1mはみ出しているよ!」「どうして2m50㎝も向こうに行っちゃうの。早く戻って」「まっすぐな直線にならないじゃないか!」などと1年生を片っ端から叱りつけたそうだが、モグラ叩きと同じで、小さい子供たちが作る"完璧な列" など、すぐ、どこからでも崩れてしまう。そんなことが延々と繰り返された。

他人に言われたことを、言葉通りに受け取ってしまう

息子は途中から全身汗だくになって、列の先頭から最後尾までを何度も行ったり来たりし、 1年生たちを怒鳴って注意し続けたという。しかし、彼らにまったく言うことを聞いてもらえず、ついに最後はどうしていいかわからなくなり、その場で呆然と立ち尽くす羽目になった。

 心も身体も疲れ切り、涙が出そうで、もう少しで「ギャーッ」と大きな叫び声を上げてしまうところだったという。その前で、子供たちは、息子の存在など無視するかのように、相変わらずぺちゃぺちゃと騒ぎ、ふざけ合っていた。

そこで終われば、まだよかった。問題は、そんな息子の様子を黙って見ていた 1年生のクラスの担任教師だった。彼は息子に向かい、こう言ったのである。

 「奥村、しっかりしろ。何をやっているんだ。そんなことじゃ、君は上級生とは言えないぞ」

 その場を見たわけではないから断言はできないが、おそらくその教師に悪意はなかったのだろう。叱責調だったかどうかもわからない(息子は「叱られた」と主張したが)。息子への教育的な意図と激励のつもりで発した一言なのかもしれない。

しかし、その言葉は、息子の無防備な心にナイフのように深々と突き刺さった。「1年生の世話は、何が起こるかわからないから怖いけど、やると決めたからにはしっかりやろう」と、懸命に気持ちを奮い立たせていた分、受けた衝撃は大きかった。

 息子は瞬時に凍りついた。きっとその顔は真っ青になり、何も考えられなくなっていただろう。

息子には、「スケジュールを厳守する」「数字にこだわる」「人の気持ちが読めない」以外に、「他人から言われたことを、言葉通りにそのまま受け取ってしまう」という特徴がある。医師によると、これも ASDを持つ者によくあるケースだそうだ。

 「そのまま」受け取るから、一般の人であればどうということのない言葉について、深く考え込んでしまったり、ひどく傷ついたり、あるいは、悩んだ挙げ句、突飛な行動に出たりする。このとき、息子の心の中でも、教師の発した言葉によって、内出血と化膿が起こり始めていたのだった。

〈次回に続く〉

 

 

2013年05月11日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第27回】
「まっすぐ家に帰る」ことができず、泣き叫んだ少女

3時間もしゃがみ込んで、道端の花を見ている

ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える息子の「他人から言われたことを、そのまま言葉通り、語義通りに受け取ってしまう」という特徴。これによって、他の多くの人なら何とも思わないような他人の言葉に、息子はあれこれ悩んだり、傷ついたり、突飛な行動に出たりすることが、今までにもよくあった。 

息子以外にも、似たようなケースはよくあるらしい。たとえば、しばらく前に知り合いになった、小学生の娘さん(名前をMちゃんとしておこう)がASDだというご夫婦から、こんな話を聞いた。 

Mちゃんは下校する途中、道端で見かけた草花や虫に興味を覚えると、そこにしゃがみ込んでじっと観察を始める。場合によっては、1時間も2時間も"固まった"まま、動かなくなることも珍しくないという。 

 「動きのある虫や動物ならともかく、まったく動かない植物を延々と見ていて何が面白いのか、さっぱりわからないんです」

とMちゃんのお母さんは首をひねる。とにかく、その癖のため、Mちゃんは予定時刻から1時間も2時間も過ぎても帰宅してこない、ということがときどきあった。 

あまり遅くなると、ご両親は当然、「何か事故にでも遭ったのではないか」「事件に巻き込まれたのではないか」などと心配でたまらなくなる。あるときなど、お母さんがたまりかねて学校へ電話し、「娘がまだ帰ってこないんですが、クラブ活動とか放課後の作業などがあったのでしょうか?」と問い合わせたところ、「今日は授業が終わってすぐ下校したはずです」という返事が返ってきて、大いに驚き、焦ったという。 

慌てふためいたお母さんは、近所に住むMちゃんの何人かの同級生の家に電話を掛けて、「下校するとき、うちのMを見なかった?」と聞いた。しかし、全員が「見ていない」と答えた。 

時刻は午後6時半を過ぎ、不安がピークに達したお母さんが「いよいよ警察に連絡した方がいいか」と考え始めたところ、Mちゃんは「ただいま」と言いながらひょっこり帰ってきた。お母さんはへたり込みながら、「遅いわよ。心配したじゃないの!  いったい何してたの?」と聞くと、Mちゃんは「お花を見ていた」と答えた。

どうやら、道路の脇に咲いていた花に興味を惹かれ、3時間以上もじっと見ていたらしい。そこは表通りから少し入り込んだ路地だったので、同級生を含めて、知り合いは誰も、しゃがみ込んだMちゃんの姿を見ていなかった。 

どんなにきれいな、あるいは珍しい花かと思ったお母さんだったが、翌日、当の路地で「この花だよ」と示されて、再びへたり込みそうになった。何の変哲もない、みすぼらしい雑草の花だったからである。

そのとき、Mちゃんはずっと黙り込み、お母さんが「こんな花、何が面白いの?」と聞いても何も答えなかった。ただ、「こんなものを3時間も見ていて飽きないの?」と尋ねられたときだけ、「全然飽きない」と即答したという。 

必ず約束を守る子が、なぜか約束を守らなかった

夕方6時半というのはさすがにその日だけだったそうだが、最近、やはり何度か、Mちゃんの帰宅時刻が遅くなってしまったことがある。そこで、ある朝、お母さんは登校しようとするMちゃんに「今日は学校からまっすぐ帰ってきなさい」と声をかけた。 

ちなみに、それまでは両親とも、「娘の伸び伸びとした行動をあまり制約したくない」「娘に強圧的に接したくない」という思いで、「まっすぐ帰ってきなさい」といった類の指示をMちゃんにしたことはほとんどなかったという。奇妙な行動を取っている我が子に対して、そういう寛容な姿勢が貫けるのは、ある意味で立派なことだと思う。 

ともかく、珍しく「学校からまっすぐ帰ってきなさい」と言われたMちゃんは、少し怪訝そうな表情になって「わかった。学校からまっすぐ帰ってくればいいんだね」とおうむ返しのように答えた。お母さんは「そうよ。今日はまっすぐ帰ってきなさいよ」と繰り返した。このときは、その一言がトラブルにつながるとは夢にも思っていなかった。 

その日の夕方、4時半になっても、5時になっても、Mちゃんは家に帰ってこなかった。お母さんは半分ひどく心配し、半分ひどく驚いていた。以前ならともかく、その日のMちゃんは朝、自分から「わかった。学校からまっすぐ帰ればいいんだね」と言って家を出たからである。 

Mちゃんは確かに、「何かを観察し始めるとじっと動かなくなってしまう」という癖があったが、それよりも、「約束したことは必ず守る」という強固な習慣を持っていた。「事前に決めたスケジュールが変わるのを極端に嫌がる」というASDの特性を、僕の息子と同じく彼女も持っており、お母さんもそれを知っていた。 

だからお母さんは、「今日に限っては、Mは自分から『まっすぐ帰る』と約束したのだから、必ずその通りにするに違いない」と思い込んで、安心していたのである。言ってみれば、発達障害ゆえに信用を勝ち得たわけだ。 

そのMちゃんが約束を破ったのだから、家族にとっては、ある意味で驚天動地の出来事だった。5時半になったのを機に、心配と不安でパニック寸前になったお母さんは、家を飛び出して小学校へと急いだ。あの子はまた座り込んで、何かつまらない雑草でも見ているのかしら・・・と思いながら。 

 

母親の言葉に突然キレて怒鳴り始める

Mちゃんが通っている小学校の前からは、正門を背にして直線の道路が延びている。正門を出てその道路を進むと、200mくらいでマンションの壁に突き当たる。つまり、そこはT字路になっているわけで、マンションの壁に阻まれてそのまま前には進めないから、右か左に曲がることになる。 

お母さんがそのT字路に着き、あとは学校まで直線の200mの道路を歩くだけとなったとき、30mくらい先に、やはり学校に向かって猛スピードで歩いていくMちゃんの背中が見えた。お母さんは「M!  どうしたの、ちょっと待ちなさい」と声をかけた。

ところが、聞こえなかったのか、Mちゃんはそのままずんずん学校の正門に向かって大股で歩き続けた。見たことのないほどの早足に、お母さんは不気味なものを感じたという。 

急いでお母さんが追いかけていくと、やがて正門にぶつかったMちゃんがこちらに引き返してきた。やはりかなりの早足で、思い詰めたように空中の一点を見つめている。正面にいるにもかかわらず、母親の顔は視界に入っていないようだ。 

お母さんが「M!  どうしたの」と呼びかけると、Mちゃんは「あっ、お母さん!」と小さく叫んで、急に我に返ったような表情になり、立ち止まってその場で泣き出した。「あなた、何をやっていたの?」とお母さんが聞くと、Mちゃんは涙声のまま、こう答えたという。

 「お母さんに『学校からまっすぐに帰りなさい』って言われて、『まっすぐに帰る』って約束したでしょう。だから、そうしようと思ったの。

それで、学校の前からまっすぐ歩いていったんだけど、マンションに突き当たって、そこからはまっすぐ進めなくなった。だから今度は逆に、学校に向かってまっすぐに戻ったの。学校の門に着くと、また回れ右をして、マンションの方に歩いた」 

 「えっ、そうやって、ずっと同じ道を行ったり来たりしていたの?」

 「うん」

 「いったい何をやってるのよ。それで家に着くはずがないでしょう。『まっすぐ帰りなさい』って、そういう意味で言ったんじゃないのよ」

そう言われた瞬間、Mちゃんはいきなりキレた。怒鳴るように、 

 「そんなのわからないよ! 『まっすぐ』って言われて、『まっすぐ』って約束したから、その通りにしたんじゃんか。なのに『それじゃ家に着かない』って怒られるなんて、どうしたらいいかわからないよ!」

と叫ぶと、またワッと泣き出したという。お母さんは呆然とする他はなかった。 

お母さんが「まっすぐ帰ってきなさい」と言ったのは、もちろん「道草を食わずに帰ってきなさい」という意味である。それを完全に語義通りに「道をずっとまっすぐ直進して帰ってきなさい=直進以外はダメ」という意味だと受け取ってしまったのだ。

その結果、小学校の正門前の200mくらいの道をひたすら行ったり来たりするという行動を、2時間以上も続けていたのである。お母さんが探しに来なかった場合、そして制止する人が現れなかった場合、いつまでそれを続けていたかは誰にもわからない。 

一般的に見れば、明らかにおかしな行動だが、ASDを抱える子供の場合、こういうことをするケースもたまにあるという。 

なぜ息子は、教師の言葉に深く傷ついたのか

前回、息子が新1年生をうまく整列させることができず、パニックに陥ってしまったことは述べた。しかも、1年生のクラス担任の教師から叱責され、 

 「奥村、しっかりしろ。何をやっているんだ。そんなことじゃ、君は上級生とは言えないぞ」

と言われた一言は、息子の心に刃物のように突き刺さった。息子はショックのあまり泣くこともできず、凍りついた心を抱えてじっと立ち尽くしていたという。 

とはいえ、通常の感覚では、「そこまでひどい叱責の言葉でもないんじゃないか」と感じる人もいるだろう。 

実は息子も、先のMちゃんと同じように、「言葉を完全に字義通り、語義通りに受け取ってしまう(受け取りすぎてしまう)」という傾向がある。そのせいで、心に深い傷を負ってしまった部分があるのだ。 

1年生の担任教師の「そんなことじゃ、君は上級生とは言えないぞ」という言葉を、息子は「お前は上級生である資格がない」「1年生の世話ができないのであれば、お前は上級生として存在してはならない」「このままでは、お前はいつまでも『上級生』に値する人間になれない」と受け取ってしまったのである。 

いわば、現在の自分の立場、自分の存在を完全に否定されたと思い、苦しんでいたのだ。そして、「1年生に対して上級生でないのであれば、僕はいったい何なのか」と自分を責め、追い詰めてしまっていた。 

僕の前でも、息子はそんな事情を打ち明けながら、「先生に上級生じゃないって怒られたんだよ!」と泣き出してしまった。そういう場合、安易に「違うと思うよ。先生はそんなつもりで言ったんじゃないだろう」などと返すと、息子はさらに混乱し、感情を爆発させてしまう。僕はしばらく黙って頷きながら、じっと息子の話を聞いていたのだった。 

 ただし、一方で、1年生のクラス担任の教師も、おそらく自分の言葉がそんな風に受け取られているとは思っていないだろう。教師にとっては、ある意味で、災難なのかもしれない。僕はそんなことはしないが、ある種のモンスターペアレンツのような親であれば、「教師の言葉で息子が傷ついた。どうしてくれる」などと騒ぎ立てた可能性もある 

今後の人生を、うまく生きていけるのか

もっと詳しく聞いてみると、息子をさらに追い詰めていた意外な発言があることがわかった。それは、息子が整列騒動と先生の言葉でボロボロになりながら出席した入学式で、校長が2年生以上の児童たちに語りかけた言葉だった。 

 「今日、新1年生を迎えたのだから、2年生から6年生の皆さんは、上級生の自覚を持ちなさい!」

どんな先生でも発するであろう、ごくありきたりな言葉。しかし、つい先ほど自分の心にぐさりと突き刺さった「上級生」という単語が含まれていたこともあり、息子はこれを聞いてじっと考え込んでしまった。 

 「上級生の自覚って何なのだろう?」

校長の声が何度も息子の頭の中でリフレインし、「上級生の自覚」という言葉にまつわるさまざまな疑問や悩みが巻き起こった。やがて息が苦しくなり、ずきずきと頭痛が始まって、頭が割れそうになってしまったという。 

「上級生の自覚」というのを、どうすれば持てるのか?
「上級生の自覚」というのが持てないと、どうなるのか?
「上級生の自覚」というのが持てないと、先生から怒られるのか?
「上級生の自覚」を持てないと、上級生になれないのではないか?

最後の疑問は、1年生の担任教師に「上級生とは言えないぞ」と叱られたことを再び思い出させた。それを考えたとき、息子は息苦しさと頭痛だけでなく、吐き気にも襲われたが、かろうじてこらえた。 

確かに、こんな些細なことをいちいち真剣に考えていたら、学校に行きたくなくなるのも無理はない。そんな気がしてくる。 

ただし、もっと大きな問題が横たわっているのも間違いない。それは、今後この調子でいちいち小さなことに考え込んだり、傷ついたりしていたら、はたして人生をうまく生きていけるのか、ということである。 

僕はそんな息子の悩みを、2時間近くかけて、静かに頷きながら聞き続けた。最後に息子は、こう言って再び涙ぐんだ。 

 「1年生の世話というのは、入学式だけで終わったわけじゃないんだ。そのあと、今も続いている。僕、それが嫌で嫌でたまらないんだよ」

 「わかった。1年生の世話については、お父さんから先生に頼んで、何人かのグループで担当するように変えてもらうよ。1人でやらないでいいのなら、できるだろう?」

 「うん。何人か一緒でやっていいのなら、たぶん大丈夫だと思う」

息子は小さな声で答え、頷いた。僕は努めて冷静な口調で話そうと意識しながら、こう続けた。 

 「あと、『上級生の自覚を持ちなさい』というのは、『2年生以上の児童は、困っている1年生を見たら、できれば助けてあげなさい』という意味だよ。

もし、自分1人で助けられない場合は、先生を呼べばいい。助けられない場合は、助けなくてもいい。仕方がないよ。『できれば』助けてあげなさい、という意味だからね」 

すると息子は急に顔を上げ、早口で畳みかけるように、 

助けられなくても上級生にはなれるんだね?」 『できれば』でいいんだね?  「『絶対に助けなければいけない』っていう意味じゃないんだね?

と念押ししてくる。僕は頷きながらこう応じた。 

 「もし、1年生を助けてあげられなかったとしても、上級生になれないなんてことは絶対にない。もし、それで上級生になれないようなことがあれば、お父さんが『それは間違っている』と先生に言ってあげる。安心していいよ」

僕たち親子が嫌いな「ケースバイケース」という言葉

これが「上級生の自覚」に関する正しい説明なのかどうか、正直なところ、僕にはわからない。ただし、曖昧な説明や、一貫性や整合性のない話は息子には一切通用しない(それどころか、混乱や苛立ちを増幅させてしまう)。だから、このように、なるべく論理的な(と思える)形で説明してみたのである。 

しかし、息子は不安そうな表情のまま、こんな質問を返してきた。 

両方とも僕は助けることができるとしての話だよ。  「もし、僕が1人の1年生を助けているときに、他の1年生に助けが必要なことが起こったら、どっちを助ければいいの?

そういう場合は、今、世話をしている1年生を放り出して、もう1人の1年生を助ければいいのかな?」 

こうなると、僕もどう答えるべきかわからなくなってしまう。しかし、絶対に言ってはならないのは、「それは時と場合によるよ」とか「ケースバイケースだね」という答えだ。息子にとって、「ケースバイケース」という発想自体が理解できないものであり、ひどい不快感を起こさせるものらしい。 

ちなみに、実は僕も「ケースバイケース」という言葉が嫌いだ。人に質問して、「ケースバイケースだね」という答えが返ってくると(おそらく正しいのだろうなと思いつつ)、ひどくいらいらする。妻も、そんな息子と僕の嫌悪感を知っており、したがって、我が家でこの言葉はほとんど使われない。

先の息子からの質問に対し、僕はとっさにこう答えた。 

 「そんな風に、誰を助ければいいのかわからなくなった場合や、どうしてもうまく1年生の世話ができない場合、他にもいろいろわからないことが起こった場合は、自分で何とかしようとせずに、すぐに先生を呼んで『助けてください』と言いなさい。そうしたら、必ず先生が駆けつけてきてくれる。

先生が来たら、その段階で、君の役目は終わりだから安心しなさい。難しいことは、絶対に自分だけで解決しようと思わないこと。いいね」 

すると、息子は僕にこう求めてきた。 

 「じゃあ僕は、これから、自分1人では1年生のクラスの世話もしないし、助けられないことは助けない。そのことを、お父さんから先生に言っておいて。絶対だよ」

僕は「わかった。絶対に先生にそう言っておくよ」と答えた。息子はようやく安心したような表情になり、「フーッ」と溜め息を吐いた。 

息子は翌日からまた学校に通い始めた。まだ登校時の「行ってきます」の声は小さくて暗いものの、何とか学校に通っている。妻によると、吐き気も収まったらしい。 

もちろん、息子と話し合った月曜日の夕方、僕は小学校に行き、新たに担任となった教師と、1年生のクラス担任教師に事情を説明して、頭を下げてお願いした。幸い2人とも、1年生の世話係を他の児童にもやらせることも、先生に助けを求めてもよいことも、すぐに快諾してくれた。 

それにしても、最近、息子のように発達障害を抱える子供が増えているというニュースを聞くたびに、僕は考え込んでしまう。本人も大変だが、親も大変だ。他の親御さんたちは、今回のようなトラブルが起こったとき、いったいどうやって解決しているのだろうか。 

医師に診てもらうのも重要だが、発達障害を持つ子供の親のネットワークのようなものがあったら、その中のきちんとしたところに顔を出し、あれこれ相談してみるのもいいかもしれない。特に新学年が始まって間もない今は、大切な時期なのだから---。 

そんなことを考えつつ、テレビ番組の制作という、生活が不規則になりがちな仕事のせいで、息子のケアをする時間がなかなか十分に取れないことを、僕は少し恨めしく思うのだった。 

〈次回に続く〉

※この連載は原則として毎週土曜日に掲載されます。

 

 

2013年05月18日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第28回】
せっかくの誉め言葉が、なぜ息子の心を激しく掻き乱したのか

 

父親の問いかけをまったく無視した息子

息子が小学校で新1年生の世話係をするように命じられ、それがうまく行かなくて精神的に追い込まれてしまったことは、すでに述べた( 第27回参照)。僕は急いで学校を訪ね、先生に事情を説明して、世話係を息子だけでなく、他の児童と一緒の何人かのグループにやらせてほしいと頼んだ。

幸い、僕の頼みは聞き入れられた。そのおかげで、息子の心もとりあえずは落ち着き、登校することを思うたびに襲ってくる吐き気や頭痛も、しばらくは収まっているらしい。妻も僕もひとまずホッと胸をなでおろし、喜んでいた。 

最近、僕の勤務先では、現場で働く人手が少しずつ減らされており、仲間はみんな過労気味だ。今年のゴールデンウィークも、ひょっとしたらすべて出勤する羽目になりそうなところだったが、僕は何とか1日だけ休みを取れることになった。とりあえずはぐっすり寝て、日頃の疲れを取るつもりだった。 

ところが、せっかくのその休日、なんと早朝5時半に起こされてしまった。その時刻に、息子が寝室にやってきて、 

 「お父さん、朝だよ。もう起きる時間だよ。起きてよ」

と言いながら、僕の身体をゆさぶり始めたからである。 

僕はといえば、帰宅したのが午前3時で、歯を磨いてパジャマに着替えると、倒れるように寝込んでしまったのだった。それからわずか2時間あまりしか経っていない。半ば朦朧(もうろう)とした意識のまま、枕元の時計を見て、 

 「ん?・・・まだ5時半じゃないか。なんでこんな早く起きるんだ?」

と聞くと、息子はこう答えた。 

 「違うよ。起きたのは5時だよ。僕はこの前、『連休中は5時に目を覚まして、5時半に布団から出ることに決めた』って言ったじゃないか。お父さん、覚えてないの?」

 「ああ、そうだったっけな」

 「そうだよ。それで、僕は5時からの30分間を使って、その日やることを順番に、細かく頭に思い浮かべていくんだよ。それは普通の日も、もう少し遅い時間にやってることだけど」

 「それはわかってるよ。でも、なんでお父さんまでが、こんなに早く一緒に起きなきゃいけないんだ?」

それに対する息子の反応に、僕はかなり驚いた。父親の問いかけをまったく無視して、こう続けたからである。 

 「今日は、6時半から朝ごはんを食べて、8時45分に家を出て、9時に○○公園に着くんだよ。そして、僕とお父さんは芝生の上で1時間15分、一緒に駆けっこの練習をするんだよ。22日後が運動会だから、練習しなきゃいけないからね」

何とも奇妙な息子の口調だった。それは学校の先生が、遠足に出発する朝、生徒たちにその日のスケジュールを説明する話し方に似ていた。 

つまり、流暢で、かつ極めて一方的な口調だったのだ。完全な決定事項を通達しているだけ、という感じの、まさに反問や疑問を許さない雰囲気が、声の事務的なトーンからにじみ出ていた。 

息子からの「想定外の電話」に驚き、焦る

そのとき僕は不意に、妻から数日前に聞かされたことを思い出した。5月下旬、息子の小学校で運動会が開かれ、そこで息子が80m走に出場するというのだった。 

妻の話によると、息子は、自分と並んで80mを一緒に走る児童たちの名前を書いた紙を見せて、「みんな足が速い方だから、この中で走ると、いい順位が取れないと思うんだ」と心配そうに話し始めた。そして、「お父さんが休みの日に、お父さんと一緒に練習したいんだよ」と訴えたのだという。 

 「そうか、息子が僕と走る練習をすることにしたのが、今日だったんだな・・・」と、僕はぼんやりした頭で思った。しかし、2時間しか寝ていないため、なかなか起き上がる気にはなれなかった。息子はそんな僕の身体をゆさぶりながら、「ほら、もう5時32分になっちゃったよ~」などと言うのだった。

このとき、息子が僕に"通達"してきたスケジュールは、僕の了解を得ずに立てたものだった。しかし、僕の都合で変えてはならない類のスケジュールでもあった。 

それは、息子と僕の間で、この日をスケジュール通りに過ごすことに「同意」ができているかどうかで、認識がまったく異なるからだ。息子は、自分の立てたスケジュール通りに行動することに、父親が同意したと思っている。一方、僕は、息子に同意したつもりはない。 

誤解なきように付け加えると、息子は僕の意向をまったく無視して計画を立てた訳ではない。もちろん、僕が了解した訳でもない。事情は以下の通りだ。 

その前日の夜7時45分、会社の小さな会議室でカメラマンと2人、映像の検討作業を行っているとき、突然、僕の携帯が鳴った。液晶画面に、発信元が「自宅」と表示されている。 

僕は、家で何かあったのかと心配になって、すぐに出た。すると、息子の「お父さん?」という可愛い声が聞こえてきた。僕が「どうした?」と聞くと、息子はいきなりこう切り出した。 

 「僕は、あと15分経って20時になったら寝るんだけど、お父さんは、明日は一日中ずっと休みなの?」

思わぬ電話に僕はびっくりした。カメラマンとの作業が佳境に入っていたところでもあり、また、「息子がなぜ、いきなり電話をかけてきて、こんなことを聞いてくるのだろう?」と理由がわからなかったこともあって、僕は少し焦りを感じつつ、「たぶん明日は休みだよ」と答えると、「お父さんは仕事中だから、今これ以上は話せないんだ。おやすみ」と付け加えて、電話を切ってしまった。 

実際は、検討作業の結果によっては、翌日、再度打ち合わせをする必要が生じる可能性もあったのだが、そのことは伝えなかった。 

禁句を思わず口走ってしまった

このときの僕のミスは、「たぶん」という曖昧な言葉を使ったことだった。ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える息子は、自分からはそういった曖昧な表現は用いないし、逆に他人から曖昧な言葉を言われると、主に二通りの受け取り方をする。 

 「『たぶん』なんていい加減な言い方じゃはっきりしないよ!」と怒り出すか、あるいは、曖昧な言葉そのものが認識から抜け落ちてしまうか、どちらかなのだ。このときは、後者だった。

息子の頭から、僕が言った「たぶん」という言葉はすぐに消えてしまった。いわば"スルー"され、完全に聞かなかったことにされたのだ。したがって、息子の中では、僕が「明日は休みだよ」と断定したことになっており、その結果、彼は「明日、お父さんは一日中休みだ」と思い込んでしまったのである。 

もちろん、僕もそういうことがわかっているので、ふだん息子と話すときは、曖昧な言葉や表現を使わないように努めている。これは、医師から「息子さんに対しては、曖昧な言い方はしないでください」と戒められたことも大きい。特に「たぶん」は、使わないよう注意している単語の一つだ。 

ところが、まさか仕事中に息子から電話がかかってくるとは思わなかったため、すっかり動転し、よりによって「たぶん」という禁句がとっさに口を衝いて出てしまった。これは、僕自身のASDの「想定外の出来事にうまく対応できない」という特性によるところが大きいのだろう。情けないが、仕方がない。 

こうして息子の中で、「お父さんは明日、一日中ずっと休み」という思い込みが生じ、「だから明日、僕はお父さんと一緒に走る練習をする」「そのためにスケジュールを立てて一緒に行動する」ということが100%の決定事項になってしまった。もちろん、僕はそれに同意していることになっている。 

一方、僕自身はそんなことに同意などしていない。休みになるかどうか、完全には決まっていないわけで、だから「たぶん」という言葉を使ってしまった。その言葉が息子の中で完全に消えていることなど、想像もしていない。 

こうして、息子と僕との認識は正反対になった。そして僕は、朝5時半に息子に叩き起こされてその日のスケジュールを一方的に"通告"された瞬間、2人の認識にギャップがあることを悟ったのだ。 

こうなると、僕が仕事で疲れていると訴えて、「今日は一緒に走る練習をするなんて無理だよ」とか「走るのはやめて散歩にしよう」とか「もう少し寝ていたいから、公園に行くのは午後からにしよう」などと言うことは絶対できない。もし、そんなことを口にしたが最後、せっかく作ってその通りに行動すると決めたスケジュールが根こそぎ崩れてしまい、息子は激怒するか、パニックになるだろう。

そして、「お父さんは僕が嫌いなんだ!」と泣き叫び、それから何時間も不機嫌な感情をあらわにし続けるだろう。その様子が目に見えるようだ。 

各周、まったく同じ秒数でトラックを走りたい

そんなことを考えた僕は、睡眠を欲している肉体と脳に意志の力で必死に逆らって、のろのろと起き上がった。久しぶりの休日だが、息子をパニックに陥らせずに平穏に過ごすため、どんなに眠くても、疲れていても、僕には「息子が立てた計画通り、一緒に公園に行く」という選択肢しかあり得なかった。 

幸い、その日に出勤する必要はなかった。前日のカメラマンとの作業が滞りなく終わったおかげだった。 

妻は、僕を気の毒そうな視線で見ながら朝食を作ってくれた。それを食べ、シャワーを浴びて何とか身体を覚醒させると、息子に言われるがまま、8時45分に一緒に家を出た。そして、徒歩15分のところにある広い公園に出かけたのである。 

ちなみに疲労と睡眠不足を別にすれば、公園で息子と身体を動かすのは、僕にとって、考えうる最高の休日の過ごし方だった。以前も述べたように、僕は中学時代に陸上部に所属していたが、ASDを持つ者の「耳に入るさまざまな音声の中から特定の音だけを聞き分けるのが難しい」という特性のせいで、顧問教師に罵倒され、深く傷ついた末、部活動に出なくなってしまったことがあった( 第7回参照)。

しかし、走ることは一貫して好きだった。ただし、その頃から、他の陸上部員とは少しだけ、走ることの「楽しみ方」が異なっていた。どんなときでも「数」や「計算」が気になって仕方がない僕は、走ることに、数字に関連した独特の楽しみを見出していたのである。 

僕は中学校の陸上部で、1500m以上の距離を走る中長距離走を専門に活動していた。トラックを何周もグルグル回って走る、あれだ。その練習をするとき、僕は他の部員とは異なる一つの「こだわり」を持って走るのが常だった。 

ランナーのこだわりというと、「自己最高記録を出すこと」だと思われるかもしれないが、僕の場合、そうではなかった。「他人より早くゴールすること」でもなかった。 

当時の僕は、走るとき、「トラック1周にかかるタイムをレースの事前に設定し、それとまったく同じタイムで最後の周まで走り続けること」ばかりを考えていたのである。そして、それに近いことが達成できたときは、無上の幸福感に包まれるのだった。一方、1周ごとにかかったタイムがバラバラになったときは、いくら他の走者より早くゴールできても、嬉しくも何ともなかった。 

僕たちが使っていたトラックは、1周が300mだった。だから1500m走となると、全部で5周することになる。そして僕は1500mを走るとき、「1周を53秒あるいは54秒で走り続けること」を最大の目標にしていた。 

実は中学時代の1500m走の自己ベスト記録は、1周平均が約52秒のペースで走ったレースのタイムなのだが、このときは他の選手と競り合ったこともあって、各周のペースがバラバラだった。そのため、結果として好記録を出したにもかかわらず、走り終わった後、大きな不満と苛立ちを覚えていた。陸上部の仲間が「奥村、いい記録じゃん!」と誉めてくれたが、返事をする気も起こらなかった。 

具体的には、最初の1周が51秒、次が52秒、54秒、53秒と続き、最後の1周が49秒というタイムで走ったのだった。レース前に、「今日は各周をすべて53秒のイーブンペースで走る」という目標を立てていたので、自己ベスト記録が出ても嬉しくも何ともなく、「なぜ各周のタイムにこんなにばらつきがあるんだよ!」と吐き捨てたいような気持ちだったのだ。 

もちろん、すべての周をまったく同じ秒数で走ることは極めて難しく、僕も達成したことはない。しかし、事前に設定した1周当たりのタイムから1秒以内の誤差で、最後まで走り続けることができれば、大満足だった。たとえば、52秒→53秒→54秒→54秒→53秒で1500mを走れたときなど、僕は天にも昇るような恍惚とした気持ちになって、その後何日間も、心の中でレースのことを反芻するようなありさまだった。 

でも、僕のそんなこだわりは、陸上部の顧問教師にはまったく理解されなかった。彼に「お前はどうしていつも全力を出さず、手を抜いているんだ!」「なんでラスト1周になってもチンタラ走ってるんだ!」「お前は陸上をなめてるのか!」などと罵り続けられた僕は、練習に出る気をなくしてしまった。 

ただし、走ることはその後もずっと大好きだった。社会人になってからも、アマチュアのランニング大会にときどき出場してきた。 

もちろん、そういうときも「上位でゴールする」「良い記録を出す」といったことは別に狙わない。中学時代を同じく「まったく同じペースで最後まで走り続ける」ことに最大の重きを置いているのだ。 

「決めた時間と1秒以上ずれちゃうと、イライラするよね」

実は少し前から、息子にも同じこだわりがあるに違いない、と僕は見ていた。昨年、妻からこんなことを聞いたのがきっかけだった。 

ASDを抱える息子は、他人とコミュニケーションを取ることを極端に苦手にしているため、昔も今も友達がほとんどいない。学校でも家の近所でも、それは変わらないようだ。実際、学校から帰ってきた息子が近くで友達と遊んでいる姿を、僕はほとんど見たことがない。 

ところが昨年の秋、妻から聞いたところによると、帰宅した息子がランドセルを玄関に置き、「遊んでくる」と言って、よく外に飛び出すようになったという。「友達と遊んでいるのかもしれない」と期待した妻が、そっと後を追ってみると、息子は1人、猛烈なスピードで、家がある一角の周りをグルグルと走り回っていた。 

息子は僕と同じように、走ることは幼い頃から好きだった。妻もそれがわかっていたので、「この子にとっては、家の周りを何周も走ることが『遊ぶ』ということなんだろうな」と考え、「本人が楽しいなら、それでいい」と素直に受け止めることに決めたという。 

そのとき妻はふと、走り回る息子の腕に、ストップウォッチ付きの腕時計がはめられていることに気づいた。僕がランニングのときに愛用する時計である。しかも息子は、周りを走って家の前に戻ってくるたびに時計を凝視し、1周ごとのタイムを確認していた。 

しばらくして、走り終えて家に入ってきた息子に、妻が「ストップウォッチを見ながら家の周りを走ってたみたいだけど、1周ごとに時間を計っていたの?」と聞くと、「うん」と明るい声で返事が返ってきた。さらに妻が「1周を何秒で走るかとか、時間を決めているの?」と尋ねると、これにも「うん」と答えて、息子は続けた。

 「僕は1周45秒ぴったりで走れるように頑張っているんだ。でも、すごく難しくて・・・。どうしても43秒になったり、46秒になっちゃったりする」

 「45秒より長くても短くてもダメなの?」

45秒でずっと続けなきゃいけないんだよ。これって本当に難しい。でも、2周連続とかで45秒ぴったりになると、嬉しくてたまらないよ!」  「ダメだよ!

そう言うと、息子は小走りに自室に行って、一冊のノートを持ってきた。開いたページには、次のような調子で、延々と何百という数字が書かれていた。 

47.08・・・〉 44.38 45.41 43.70 44.33 〈46.59

妻が「何なの、これ?」と聞くと、息子は「1周走るのにかかった時間を全部書いているんだよ」と答えた。僕のストップウォッチ付き腕時計は、100分の1秒単位で時間を計ることができるので、こんなに細かい数字になるのだ。ちなみに息子は、毎日、1周走るごとにタイムをすべて暗記し、家に戻ってそれをすべてノートに記録していたという。 

妻からこの話を聞いた僕は、息子が自分と同じく、「1周をまったく同じ時間で走ること」に強烈なこだわりを持っていると確信した。そして嬉しくなり、翌日の朝食の席でさっそく息子に、 

目標はぴったり45秒なんだってな。  「毎日、家の周りを走っているんだって?

ずっとイーブンペースを維持するのは難しいぞ。でも、ぴったりで走れるとすごく楽しいのは、お父さんも同じだからよくわかる。練習しないとな」 

と話しかけた。息子も喜々としてそれに応じ、「なんでかわからないけど、決めた時間と1秒以上ずれちゃうと、すごくイライラするよね」などと言って、親子でしばらく盛り上がった。 

おそらく傍にいた妻は、そんなことの何が面白いのか、さっぱりわからなかったに違いない。それでも、息子と僕の会話に入り込もうとしたり、遮ったりしようとすることなく、放っておいてくれた。発達障害の人間にとって非常にありがたいのは、妻が息子と僕の価値観や認識を否定しなかったように、「放っておいてくれる」ことなのである。 

僕を嫌いになる?」 「お父さんは怒る?

話を連休中の一日に戻そう。8時45分に家を出た僕たちは、予定通り9時に公園に到着した。まず、芝生の上で巻尺を使って正確に80mを測ると、スタートラインとゴールラインを決めた。 

それから、2人で何度も何度も走る練習を繰り返した。そして息子が立てたスケジュール通り、きっかり1時間15分後の10時15分に練習を終え、再び家に向かった。 

僕が失敗を犯したのは、その帰り道を歩いているときのことだった。一緒に走ってみて、思ったより息子の足が速いことに感心した僕は、何の気なしにこんな言葉をかけた。 

 「ずいぶん速くなったんだな。今年はリレーの選手になれるんじゃないか」

実は、息子は小学校に入学して以来、毎年、リレーの選手の候補にはなっていた。しかし、正式な選手に選ばれたことはない。

そういうことを踏まえて、僕は「今年はリレーの選手になれるくらい、足が速くなったんだな」と誉める意味で言ったのである。だが、それを聞くや否や、息子の眉は八の字になり、笑顔は瞬時に消え、みるみるうちに固く険しい表情になった。息子はおそらく、僕の言葉をこう受け取ったに違いなかった。 

 「それくらい走れるのだから、今年はリレーの選手にならなければならない(選手にならないことは許されない)」

他者が発した言葉を、自分なりの特殊な論理で解釈し、まったく違った意味に受け取ってしまうのは、息子の特徴の一つだ。僕は彼の表情が激変するのを見て、「しまった!」と焦ったが、もう遅い。 

その後、息子は無言を貫き、思い詰めたような視線でじっと前を見つめ、僕が話しかけても何も答えなかった。やがて家の前に着くと、突然顔を上げて僕に問いかけてきた。 

僕を嫌いになる?」  「今年も僕がリレーの選手になれなかったら、お父さんは怒る?

僕は慌てて弁解するように答えた。 

 「そんなことは言っていないだろう。『あんなに速く走れるようになったのなら、リレーの選手になれるんじゃないかな』と思って誉めただけだよ」

息子は「ふ~ん」と一言だけ言って、そのまま家に入ってしまった。僕は、自分の何気ない言葉が息子の小さな心を掻き乱したのではないかと心配でたまらなくなったが、不幸にして、その予感は当たってしまった。 

翌週、ゴールデンウィークが明けた翌日、息子は「お腹がとても痛い」と言って、学校に行こうとしなかった。担任教師に欠席の電話連絡を入れたとき、それとなく聞いてみると、その週の体育の授業で児童たちの80m走のタイムを計り、それをもとにリレー選手を選抜することになっているという。 

僕の一言によって、「自分は絶対にリレー選手に選ばれなければならない。選ばれないことは許されない」と勝手に思い込んだ息子が、それを相当のプレッシャーに感じ、再び学校に行けなくなったのは間違いなかった。 

 「このままでは、運動会の日も休むと言い出しかねない。いったい、どうすればいいんだろう」

僕は頭を抱えた。いったんは好転した息子の状況に、再びどんよりと暗雲が垂れ込めてきたのである。 

〈次回に続く〉

 

 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第29回】
「嫌なこと」から逃げようとする息子は、将来、生きていけるのか

「今日、学校に行くのは絶対に無理だからね」

ゴールデンウィークの最中、僕が不用意に発した「今年はリレーの選手になれるんじゃないか」という一言がきっかけで、息子は登校しなくなってしまった。そして、連休が明けた火曜日、「お腹がとても痛い」と言って学校に行こうとしなかったのはすでに述べた通りだ( 第28回参照)。

水曜日の早朝、寝ていた僕は、急に腹の辺りで何かがもぞもぞと動く気配を感じ、目を覚ました。見ると、息子が僕の布団に潜り込んでいた。それ自体はたまにあることだったので驚かなかったが、最近は仕事が忙しく、いくらか寝不足気味だったので、さすがにうんざりしてしまった。 

枕元の時計を見ると、ちょうど5時半を指している。どうやら、いつものようにきっかり5時に目覚め、布団をかぶって30分間あれこれ考えごとをした後、5時半に起き上がってここへ来たのだろう。僕があくびをしながら、 

何かあったのか?」  「どうした?

と聞くと、息子は僕の腰にしがみついてこう答えた。 

 「お腹が痛い。頭も痛い」

 「何だ、両方とも痛いのか?」

 「そうだよ。だから、どうしても学校に行けない。学校に行きたくない」

以前であれば、息子のそんな訴えを無視して放っておいても、とりあえずは何とかなった。しばらく経つと諦めて、ぶつぶつ文句を言いながらでも登校してくれたからだ。 

しかし、最近は様子が違った。特に前日(火曜日)は、腹痛を訴えたあと、学校へ行くかどうか迷う素振りすら一瞬も見せず、しゃがみ込んでじっと床の一点を見つめ、取りつく島もないという感じだった。 

慌ててそんなことを考え、かける言葉を探していると、息子は「お父さん、聞いてるでしょ。僕は今日、学校に行くのは絶対に無理だからね」と念押しするように小声で言って、僕たち夫婦の寝室から走って出て行った。 今日も昨日と同じく、頑なに動こうとしなくなるのだろうか? 

寸分違わぬパターンを、毎朝繰り返す息子

息子はそのまま自室に戻り、朝食の時間になっても、登校時間になっても出てこなかった。僕と妻が何度か息子の部屋を覗き、 

 「お腹や頭がどう痛いのか、詳しく話を聞かなきゃ、どうすればいいかもわからないよ。一度、リビングにおいで」

 「とにかく起きて朝ご飯を食べなさい」

などと言い聞かせたが、まったく効果はなく、頭から布団をかぶって返事もしなかった。やがて8時を過ぎ、根負けした僕が「じゃあ、今日は休みにするしかないな」と声をかけると、息子は初めて弱々しい声を出し、「わかった」と一言だけ答えた。 

そのまま息子とじっくり話し合いたかったが、どうしても出社しなければならない時間が迫っていた。やむなく僕は家を出たが、後で妻に電話を入れて聞いたところ、1時間くらい経つと、息子の腹痛も頭痛も消えてしまったようだという。起き出してきて朝食を食べ、あとは一日中、何をする訳でもなく、あまり口もきかずに家でダラダラと過ごしていたらしい。

この場合、難しいのは、決して息子が仮病を使っていたのではないという点だ。それはこれまでの数々の経験から明らかだった( 第12回参照)。学校での、苦手な人間関係構築にまつわる諸々のことで生じる苦痛とストレスのせいで、息子は本当に腹痛と頭痛を感じていたのは間違いない。だから厄介なのだ。

そして、木曜日も金曜日も同じことが繰り返された。朝、僕の布団に潜り込んできて腹痛と頭痛を訴え、「学校に行かない」と宣言し、自室で布団を引っかぶって朝食にも出てこないものの、「今日は休んでいい」と言われると1時間後に起き上がってくる・・・という、水曜日と寸分違わぬと言っていいパターンを、さらに二度も繰り返したのだ。 

 「ASD(自閉症スペクトラム障害)だからって、こんなことまで毎日、判で押したようにぴったり同じ行動をしなくてもいいじゃない。あなた、どう思う?」

金曜の昼すぎ、自宅に電話を入れた僕に、妻が愚痴交じりに言った。同じASDを抱える者として、僕は妻に申し訳ないような、自分の無力さが情けないような、何とも複雑な気持ちになり、「う~ん、そうだな」と口ごもるしかなかった。 

とにかく、このままではいけない。翌週も同じことが続くようであれば、何か抜本的な対策を立てなければならない。しかし、何をしたらいいのかわからない。 

金曜の夜、帰宅したのはもう日付が変わろうかという時間帯だった。妻は先に就寝していた。 

 「来週からどうしようか。参ったな。弱った・・・」

深夜のキッチンでビールを飲みながら、僕は一人、途方に暮れるしかなかった。 

息子はなぜ豹変したのか

ところが、その翌日、つまり土曜日の朝になって、息子の様子が豹変した。 

土曜の朝も息子は、きっかり5時半に僕の布団に潜り込んできた。しかし、その表情は、昨日までとは大いに違っていた。なぜか微笑を浮かべ、久しぶりに明るい雰囲気を発散させていたのだ。 

そして、「お腹が痛い」とも「頭が痛い」とも言わず、打って変わってハキハキした口調で、「今日は土曜だから授業はないけど、運動会の練習があるから学校に行くよ。早く家を出るからね」と言い出した。驚いた僕は「ほ、本当か?」と返すことしかできなかったが、息子は「うん、学校に行く」と応じて、自室に戻っていった。僕は呆然として、その後ろ姿を見送るしかなかった。 

やがて息子は、妻と僕が待つ朝食のテーブルにやってきた。表情は先ほどと同じく穏やかなままだ。僕は戸惑いながら、「今日は気分が良さそうだね」と声をかけると、息子はまくし立てるようにこう答えた。

 「うん。今日から、運動会でやるダンスの練習が始まるんだよ。お父さんも絶対に運動会を見に来てね」

それまで4日間、学校を休んでいたことなどすっかり忘れてしまったかのような口ぶりだった。僕は、なぜ息子がそこまで態度を一変させたのかまったくわからず、また、息子が話す勢いにも圧倒され気味で、「もちろん見に行くけど・・・」と答えたまま、絶句してしまった。 

すると、隣に座っている妻が小声で教えてくれた。 

 「実は昨日の夕方、担任の先生から電話があって、『今日の体育の授業で、児童たちの80m走のタイムを計りまして、それをもとに、運動会に出るリレーの選手を決めました。奥村君は休んでいたので、残念ながらリレー選手に選ばれませんでした』と言われたのよ。それを伝えたら、この子、急に明るくなったの」

 「なるほど、そういうことだったのか」

妻の説明を聞いた瞬間、僕は、息子が豹変した理由がわかったのである。 

前回述べたように、僕が軽い気持ちで誉めた「ずいぶん足が速くなったんだな。今年はリレーの選手になれるんじゃないか」という言葉を、息子は「今年は、(選抜の場になる)体育の授業で速く走って、リレーの選手に選ばれなければならない」という意味に受け取ってしまった。

やがて、それは「リレーの選手に選ばれないということは許されない」になり、さらに「体育の授業で速く走ってリレーの選手に選ばれなかったら、お父さんに怒られてしまう」という風に、悪い方にどんどんエスカレートしていった。 

結局、その強烈なプレッシャーと恐怖のせいで、リレー選手の選抜が行われる日まで、息子は本当に腹痛や頭痛を覚え、登校できなくなってしまった。したがって、選抜が終わり、「速いタイムを出せなかったせいで、選手に選ばれなかった」という事態さえ避けられれば、僕に怒られることもなくなり、プレッシャーも消え、平気で学校に行けるようになる。 

実際、息子は選手になれなかったが、それは速いタイムを出せなかったからではなく、休んだせいだった。だから、タイムが遅かったという理由で僕に叱責されずにすむ。このことは、息子に大変な解放感を与えたのだろう。 

  これが、土曜になって豹変した理由であり、「4日間の休暇」の真相だった。 

他人からは逃げられても、自分からは逃げられない

朝食を終えた息子は、頭痛や腹痛という"病気"でずっと休んでいたことなどすっかり忘れてしまったかのように、「行ってきます」と言うと、それこそ猛スピードの駆け足で登校していった。それを見送りながら、僕はやりきれない思いに駆られていた。 

それは、息子が玄関先で靴を履きながら言った言葉に、大きなショックを受けたからである。そのセリフはこうだった。 

 「お父さん、僕は今回、病気になっちゃったせいでリレー選手になれなかったけれど、仕方がないよね」

息子は今回、親のひいき目ではなく、リレー選手になれる可能性が高かったと思う。毎年、リレー選手の候補(補欠)にはなっていたが、正選手になれたことがなく、彼はそのことを心の底から悔しがっているようだった。であれば、実力があるのに体調のせいで選手になれなかった今年は、例年にも増して「悔しい!」と思うのが通常の反応だろう。

しかし息子は、「選手になれなかったせいで父親に怒られる」という、自分が勝手に想定した最悪の事態を避けられたことを喜んでいるようだった。悔しさなど、みじんも感じていないらしい。僕は、そのことに衝撃を受けたのである。 

これまでの息子は、「失敗するかもしれないこと」や「他者から厳しい態度を取られる可能性があること」に直面したとき、最初は「やりたくない」という姿勢を見せるものの、しばらくすると、最終的には嫌々ながらも挑戦していた。しかし、そのスタンスは今、大きく変わりつつあるようだった。それも悪い方に。 

今回の、リレー選手に選ばれるかどうかの問題も、以前の息子であれば、最初は腹痛や頭痛を訴えるかもしれないが、やがて決心して学校へ行き、選抜の80m走を走っていたのではないか。しかし、今回のように、嫌なこと(僕に怒られる要因となること)があると、以前よりひどい体調不良になり、心も身体も総動員して何が何でもそれを避けようとする、テコでも動かない---といった強硬さを見せたのは初めてだった。 

今後も、成長していく中で嫌なことに直面するたびに、同じような態度を取るようになるのかもしれない。僕は、息子の言葉からそんな暗い予感を覚えたのだ。 

僕も子供時代から、ASDを持つ者の特性ゆえに、人間関係をうまく築けなかったり、嫌われたり、些細なことで怒りや苛立ちを感じたり、物事のゆくえを悪い方へ悪い方へ予測したりと、さまざまな苦労をしてきたつもりだ。しかし、前にも述べたように、周囲の人たちを観察して、後天的に「学習」するなど、生きるテクニックを身につける努力を必死で積み重ねてきた。苦しい中でも、逃げずに問題に向かい合ってきたという自負はある。 

だから、息子もそんな風に、苦闘しながら必死で自分を変え、この社会で生きていこうと努力するのではないかと、漠然とした期待を持っていた。その手伝いをして、生きにくさを抱えている息子が、この社会に少しでもソフトランディングするのを助けてやるのが、同じASDを持つ僕の役割だとも思っていた。 

そんな不安が頭の中をぐるぐると駆け巡り、気がつくと僕は食卓の前に腰掛けて、腕組みをして考え込んでいた。 そんな人生を歩ませないために、親にできることはあるのだろうか? しかし、嫌なことに直面するのを避け、逃げ回ることが習慣になってしまったら、はたして将来、この世の中で生きていけるのだろうか? 

ふと顔を上げると、黙ったままこちらをじっと見つめている妻と視線が合った。その表情は、ここ数ヵ月、見たことがなかったくらい悲しそうなものだった。やがて、彼女はぽつりと漏らした。 

 「人間って、他人からは逃げられても、自分からは絶対に逃げられないものね・・・」

妻が僕とまったく同じことを考え、不安を募らせているのは明らかだった。急に、僕の胸の中に重苦しいものがずしりとのしかかってくるような気がした。 

事態が悪化すると、頭の中で最悪のシミュレーションを始めてしまうのは、ASDを抱える僕の悪い癖だ。皮肉なことに、その点も息子とそっくりなのである。

そんなシミュレーションが始まったら、もう止まらない。その後、出勤しながらも、職場に着いてからも、僕は息子がたどる悲惨な人生をあれこれ思い描いた。仕事はろくに手につかず、しまいには「どうしよう」と思って涙が出てくる有り様だった。 

そんな数時間を過ごした後、ふと、この問題を相談できる絶好の相手を思い出した。 

 「そうだ、あの人に事情を打ち明けて、意見を求めてみよう。解決のための良いアイディアがもらえるかもしれない」

次の瞬間、僕は携帯電話を取り出していた。そして、電話帳リストからその相手の番号を選んで、「発信」を押したのだった。 

〈次回に続く〉

 

奥村 隆

(おくむら・たかし)大学卒業後、テレビの仕事に就く。以来、十数年ずっと現場で番組制作に携わる。妻と小学生の息子と暮らす。不規則な生活と激務の中、運動不足が悩みで、たまに行う水泳で息抜きするのが最大の楽しみ。映画と時代小説を好み、中でも池波正太郎の『剣客商売』をこよなく愛する。最近では高野和明の『ジェノサイド』に感銘を受けた。尊敬する人物は故ナンシー関。特技はデッキ2台を使った倍速視聴。


奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」

ふだんは明るく穏やかだが、時間に極端に細かく、予定が変わると激怒し、ときどき変わった言動を見せる小学生。そんな愛する息子が、実は発達障害だということがわかった。驚いて現状と対処法を探るうちに、父親の「僕」も、それまで意識しなかった自らの症状に気づいていく―。敏腕テレビ制作マンが、息子と二人三脚の「発達障害との戦い」を描く連載ノンフィクションです。

 

2013年06月08日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第30回】
期待の言葉をプレッシャーに感じ、最低の嘘を吐いてしまった

母に「あんたも昔は逃げ回っていたよ」と言われて

そうなってしまって、将来、この社会で生きていけるのだろうか? はたして今、息子は、嫌なことに直面するのを避け、逃げ回ることを人生の習慣にしつつあるのだろうか? 

そんなことをあれこれと考え続け、不安で胸が押し潰されそうになった僕は、ふと、絶好の相談相手を思い出して電話を掛けてみた。 

 「ああ、隆。久しぶりだね。どうしたの?」

携帯電話の受話口から聞こえてきた母の声は、昔と同じように大らかで柔らかだった。僕が子供の頃から、母は感情を波立たせるということがあまりなく、いつも落ち着いていた。 

母は「ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱えた息子を育てる」という点では、妻と僕の大先輩に当たる。そんな母なら、僕を育てたときのことを思い出して、すっかり行き詰まってしまった現状の解決策のヒントを与えてくれるかもしれない。そう考えて、息子の状況を打ち明け、相談することにしたのだ。 

ここ最近、息子がリレー選手に選ばれるかどうかで大きなプレッシャーを受けていたことや、そのせいで頭痛や腹痛が頻発していたことなどを、僕は母に説明した。さらに、リレー選手の選考がある日にも息子は腹痛や頭痛を訴えて学校を休んだこと、それを悔しがる素振りも見せていないこと、結果として、息子は問題から「逃げて」しまったことなども話し、「親として、どうしたらいいかわからなくなって途方に暮れているんだよ」と素直に告白した。 

母は、そんな長い話を、「へぇ」とか「ふんふん」などと相槌を打ちながら辛抱強く聞いてくれた。そして、僕が話し終えると、意外な言葉を吐いた。 

 「まぁ、大変なのはわかるけど、あんたも同じようなものだったよ。聞いていると、何だか懐かしいような気がしてくるね」

俺も同じようなものだったって、どういうこと?」  「ええっ!

母の感想コメントに、僕は大いに驚いた。確かに僕も、高校生の頃までは息子と同じように、新学期が始まるとよくお腹が痛くなったり、熱を出したりしていた。そして、学校に行くのを嫌がった。それは事実だ。 

しかし、どんなに嫌でも、僕は何とか学校に通い続けた。それができたのは、基本的に、母を含めた家族が僕を「放っておいて」くれたことが大きいと思うし、その点は僕の息子への接し方とは違う。ただし、いずれにせよ、僕はこれまで「嫌なことから逃げた」という経験がない。そこで、母にこう反論した。 

 「全然違うよ。確かに俺は学校に行くのが好きじゃなかったし、ときどき登校前に熱を出したりしてたけど、逃げたことはないじゃないか。凄いストレスはあったけど、嫌な問題にも向かい合っていたつもりだよ」

すると、母は笑いながら答えた。 

 「何を偉そうに言ってるの。あんたが『嫌なことから逃げなくなった』のは認めるけど、それは中学生や高校生になってからの話よ。小学生の頃は結構、逃げ回っていたよ。ある意味、もっとタチの悪いやり方でね」

そんなことはないはずだけどなあ」  「本当に?

 「本当よ。まったく人間って、自分に都合の悪いことはすぐに忘れるもんだねえ。あんただけじゃなくて、私も、他の人も同じかもしれないけど・・・」

そして母は、僕が小学校時代にとったある行動について、思い出話を始めたのである。最初は半信半疑だった僕も、母の話を聞くうちに、心のどこかで眠っていた記憶が少しずつよみがえってくるのを感じていた。 

そして、母の回想によって一つのエピソードを思い出したとき、僕は思わず「あっ、そうか!」と叫んでいた。小学生時代の僕の言動---それは確かに、今回の息子の言動とほとんど違わぬものだったからだ。 

「怒られる」と恐怖に怯え続けた2週間

話は小学校2年生の夏休みにさかのぼる。僕は当時、自宅から車で30分ほどの場所にあるスイミングクラブで水泳を習っていた。 

そのクラブは、入会した直後は全員が「無級」で、その後は、上達するたびに「15級」から「1級」まで、1つずつ進級していく仕組みだった。僕はなかなか進級できず、入会して半年程度が経った夏休みのスタート時点でも、まだ13級だった。 

一学期の途中、梅雨が明けて暑さが本格化する時期に、僕はクロールを習い始めていた。しかし、なかなかうまくならず、上達していく他の子たちを見て、「どうして僕はあんな風にできないのかな・・・」と、淡い焦りを感じていた。 

僕も皆と同じように進級したかった。しかし、進級するためには、クラブが行うテストを受け、コーチに合格と認められなければならない。そこを巡って、僕は問題を起こしてしまったのである。 

その日、スイミングクラブで練習を終えた僕は、迎えに来てくれた父から、帰りの車の中でこう言われた。

 「隆、クロールがすいぶんうまくなったな。もうすぐ進級できるんじゃないか。13級ももう卒業だろう」

父は、僕が泳いでいるところを見るのは、その日が久しぶりだった。だから、大した考えもなく「クロールがうまくなったな」と感じて、そのまま口に出したのだろう。そして、誉めておけば僕が気を良くしてテストで頑張るのではないかと考え、軽い気持ちで「進級できるんじゃないか」と言ったに違いない。 

ところが、父の言葉を聞いた瞬間、僕はこう考えてパニックに陥ってしまった。 

怖い。どうしよう・・・」  「大変だ。早くちゃんと進級しないと、お父さんにこっぴどく怒られてしまう!

振り返ってみれば、当時の僕の思考パターンは、現在の息子のそれとまったく変わらなかった。「お父さんに『もうすぐ進級できるんじゃないか。13級ももう卒業だろう』と言われた」→「絶対に進級して、13級を卒業しなければならない」→「進級できないと、お父さんにひどく怒られる」→「怖い」・・・という流れである。 

次の進級テストは2週間ほど後に予定されていた。僕はその間、何をしていても、ずっと激しい恐怖の感情が心を波立たせ、怯え続けていた。 

 「進級できなかったらどうしよう。でも、今の僕では進級できそうにない。お父さんに怒られる。ああ、怖い。どうしたらいいんだろう・・・」

という思いが、何百回も小さな頭の中を駆け巡っていた。吐き気も何度か感じていた。何のことはない、当時の僕は今の息子とそっくりだったのだ。 

スイミングクラブのコーチは、20代後半くらいの細身の男性で、とても熱心に教えてくれる人だった。僕のように進歩が遅い生徒に対しても、優しく、丁寧に接してくれた。 

コーチは、おそらく僕のことも「進級させてやりたいな」と、思いやりを持って考えてくれていたはずだ。その温かさは、彼に教わっていれば、何となく伝わってきた。 

でも、僕のあまりにも鈍い上達ペースでは、いくら2週間、必死で練習したとしても、とても進級できるレベルには届かない。それは、僕自身も薄々わかっていた。その結果、テストまでの2週間を、焦りと恐怖と諦めの入り交じった感情の中で過ごすことになった。 

シミュレーションが根底から覆され、動転した

テストの日は、あっという間にやって来た。そして、信じられないことに、奇跡が起きた---という風にはならず、やはり僕は進級テストに落ちてしまった。 

 「奥村君、残念だったね。でも、君の泳ぎは少しずつ良くなっているから、次のテストで頑張ろうな」

コーチの優しい言葉を、しかし僕はまったくの上の空で聞いていた。心の中にあったのはただ一つ、「お父さんにどんなに厳しく怒られるだろうか」という強烈な不安だけだった。 

しかし、家に帰らないわけには行かない。更衣室で服を着て、スイミングクラブのロビーに出たとき、僕は衝撃で凍りついてしまった。なぜなら、目の前に父が立っていたからだ。 

考えてみれば、父はただ僕を迎えに来ただけで、ロビーにいても何の不思議もない。しかし僕は、その瞬間まで、父が迎えに来るとは想像すらしていなかった。いつも、母が迎えに来てくれる曜日だったからである。 

ASDを抱える僕は、どんな行動を取るときも、無意識のうちにそのプロセスを事前にシミュレーションしてしまう癖がある。それは、当時も今も変わらない。 

そして、多くの人は何とも思わないような些事でも、シミュレーションと異なったことが起こると、ひどいパニックに陥ってしまう。あるいは、激烈な怒りや苛立ちを抑えられなくなる。このときがまさにそうだった。 

お父さんが今日ここにいるのはおかしいじゃないか!」と叫びたくなるほどの強い思いが、熱い塊となって胸の中にこみ上げ、完全に気が動転してしまったのだ。 僕は父の姿を見た瞬間、「どうして? 

確かに家族である以上、父に会うのは当然なのだが、それは帰宅した後になるはずだった。そして、進級テストに落ちたせいで怒られるまで、まだ帰宅時間というタイムラグがなければならなかった。 

そんなシミュレーションが根底から覆され、僕は頭の中が真っ白になり、まったく動けなくなってしまった。「どうしよう。お父さんはここで僕を怒るに違いない。怒鳴られたらどうしよう・・・」という気持ちがぐるぐると頭の中で渦を巻き、手の先が痺れるように冷たくなっていくのがわかった。しかし、そんなことなど知る由もない父は、笑顔でこう話しかけてきた。 

 「お疲れさん。さあ、うちに帰ろう」

その瞬間、僕は自分からこう口走っていた。意図せぬうちに、言葉が口からほとばしり出た感じだった。

 「今日の進級テストで、僕、落ちたんだよ。でもね・・・」

そうか、今日がテストだったっけ。落ちたのか」  「ああ?

どうやら父は、家を出るときに、母から今日が進級テストの日だと聞かされなかったらしい。そして、今にして思うと、僕から落ちたと報告を受けたときも、まったく落胆などしなかったはずだ。はっきり言って、僕が水泳の進級テストに受かるかどうかなど、父にとってはどうでもいいことだった。 

しかし、そのときの僕には、父の声音が「落ちたのか」から急に怒気を帯びたように感じられた。さらに恐怖に駆られた僕は、早口でこう続けた。 

 「進級できるくらいうまくなっているのに、コーチが落としたんだよ。それはね、コーチが僕のことを嫌いだからだよ」

まったくの虚言である。僕の水泳は下手だし、コーチは僕を嫌っているどころか、優しく、温かく接してくれている。下手をすると冤罪を生みかねない類の、恥ずべき最低の嘘だった 

しかし、誓って言うが、そのときの僕は、嘘をついているつもりはまったくなかった。少なくとも意識の上で、父を騙しているとは少しも思っていなかった。コーチを中傷するようなことを言っておきながら、僕は自分でその虚言を信じ込んでしまったのだ。 

父は驚いた表情を浮かべ、「ほう、そうなのか」と言った。以後、家に着くまで、車中で水泳の話はまったくしなかった。 

僕はただひたすら喜んでいた。父に怒られなかったからだ。心の中で「なぜかお父さんに怒鳴られなかった。よかった!」と叫びながら家に戻り、夕食を済ませ、寝るまでの時間を過ごした。それで、すべてが終わっていたはずだった。 

誉め言葉も期待の言葉も掛けてはならない

 「その後があるのよ」と電話の向こうで母が言った。30年以上も前の子供時代から一気に現在まで引き戻された僕は、ハッと我に返って尋ねた。

お父さんがどうかしたの」  「その後って?

 「そうなのよ。まあ、まだ小さいあんたには話してなかったから、知らないのも無理はないけどね」

父は、思いも寄らない行動を取っていた。僕が進級テストに落ちた数日後、1人でスイミングクラブを訪ね、コーチから事情を聞いていたのである。 

実は、「コーチに嫌われているせいでテストに落とされた」という僕の言葉を、父は完全に真に受けていた。そして内心、激怒していた。

テストの日、クラブから帰宅する車の中では平静に振る舞っていた(びくびく怯えている僕の目にも、まったく怒っていないように見えた)父だが、実際には腸が煮えくり返っていたらしい。帰宅後も怒りは収まらず、僕が寝た後、母に対して、 

 「まだ小学2年生にしかなっていない子供を嫌って進級させないコーチっていうのは、どういう奴なんだ?」

と八つ当たりしていたという。そう言われた母は、 

 「大したことじゃないし、隆が勝手に思い込んでいるだけよ。あの子はそういうところがあるの」

とたしなめた(母は昔も今も、僕のことを父よりも正確に見抜いていたわけだ)。それでも父の怒りはエスカレートする一方で、 

そのコーチの野郎と直談判してやる」 普通、大の大人が、小学校低学年の子供を嫌って差別したりするか?  「俺は納得できないんだよ!

と頭に血を上らせたまま、数日後、スイミングクラブに乗り込んでいった。母が「やめなさいよ」と止めても、まったく聞く耳を持たなかった。 

ところが、2時間後に帰宅した父の顔色は真っ青で、明らかに元気がなかった。何度も溜め息を吐き、しょげかえりながら報告したところによると、父はスイミングクラブでコーチと面会するなり、 

 「あなた、うちの息子が嫌いで進級させなかったそうですね。息子のどこが問題なのか、どこが気に食わないのか教えてください。直しますから」

と切り出したという。すると、コーチはきょとんとして、「何のお話ですか?」と逆に聞いてきた。父が「息子に聞いたんですけどね」と前置きして説明すると、コーチは目をぱちくりさせてこう答えた。 

 「まず、はっきり申し上げておきますが、隆君を嫌っているなんてとんでもないですよ。確かに、プールサイドを走る子や、ふざけ回っている子は注意しますが、それだけです。

そもそも隆君はそんなこともせず、私の教え通り、真面目に練習していますしね。だいたい、なんでまだ幼い小学2年生を、私が嫌ったりしなきゃいけないんです?」 

 「でも、進級テストに落ちたのは・・・」

 「当然ですが、純粋に実力の問題です。隆君の泳ぎは、入ってきた当初に比べればずいぶん良くなりましたが、12級への進級テストを受けるレベルに達するのは、もう少し先だと思います。特に、クロールに改善点がまだありますね」

 「じゃ、息子が嫌いだということではないんですね」

 「ハハハ。そんなこと、あるはずないでしょう。まあ、隆君は不器用なところがありますが、そういう子は、いったん正しい技術を身に着けると、逆に後でしっかり伸びていくんです。このままちゃんとクラブに通ってくれれば、着実に上達していくでしょう」

 「そうだったんですか・・・。すみません、息子の話を鵜呑みにして、せっかくきちんと指導してくださっているコーチに失礼なことを言ってしまいました。お詫びします」

 「いやあ、わかっていただければそれでいいですよ。勘違いや行き違いは誰にでもありますから。隆君はきっと、進級できなかったことが悔しくて、思わず事実ではないことを言ってしまったんでしょう。そんな子は他にもいますから、私は気にしていません」

とんでもない勘違いでコーチに因縁を付けたような形になってしまったこと、にもかかわらず、自分より年下のコーチが寛大な"大人の対応"をしてくれたことに、父はすっかり恥じ入ってしまった。まさに「穴があったら入りたい」気持ちになったようだ。 

そんな報告に続いて、父は話をこう締めくくったという。 

 「コーチと話した後、11級や12級の練習を見てみたんだけど、たしかに皆、隆よりうまいんだよ。俺はさらに恥ずかしくなっちゃって、コーチに『本当にすみませんでした』って何度も謝って、ほうほうの体で帰ってきた」

 「だから言ったでしょ、隆の思い込みかもしれないって。

でも、今回はあの子を叱らない方がいいと思うの。叱らないだけじゃなくて、今後、誉めたり、期待したりするようなことも言わない方がいいんじゃないかな。 

誉め言葉や期待の言葉が、隆にとっては実はプレッシャーになるのよ。あの子はそういうタイプ。少し前に気づいたんだけど」 

 「そうか。よし、今後は隆を不用意に誉めたり、期待したりするのはやめよう」

こうして、両親の間に合意ができた。正確に言うと、母の提案に父が賛成したわけだ。 

息子にどう接するべきか、母の的確なアドバイス

この話を聞いて、僕の中で長年の謎が解けた。そして、僕の本質を鋭く見抜いていた母の慧眼に、不思議な感動を覚えていた。 

実際、僕は大学を卒業するまで、両親から誉められたり、期待の言葉を掛けられたりした記憶がない。テストで100点を取っても「難易度が高くないテストだからな」とか「次はさらに頑張ろうな」と言われるくらいだった。 

陸上の中距離走の大会で優勝しても、「○○m地点からのタイムが前回より2秒落ちた」などと反省点を指摘され、3位になったときは、「戦略が不十分だった」と評された。大学に合格したときでさえ、母から返ってきた反応は、「お疲れさま。でも、もっと早く、2時間前には『合格した』って報告の電話を入れられたんじゃない?」というものだった。 

叱責されたことはない。ただ、誉められることもない。両親は常に、なるべく論理的、客観的に僕を観察し、批評しようとしていた。最近、流行りの「誉めて育てる」親からすれば、あり得ないやり方かもしれないが、僕は、親というのはそんなものだとずっと思っていた。電話でそう打ち明けると、母は笑いながらこう応じた。 

 「あんたみたいな子供は、誉めるなら、本気で論理的に誉めたり、期待の言葉を掛けたりしないとダメなのよ。軽い気持ちで、曖昧な言葉で誉めたり、期待したりしてはいけない。昔から私、それは本能的にわかっていたからね」

 「でも、いちいち理屈を考えながら誉めるなんて面倒だよ。うちの息子に対して、そんなことをするかと思うと、うんざりするね」

 「そりゃそうよ。だから、私も基本的にあんたのことは誉めなかったでしょ。でも、それで何か問題あった?」

母に"逆襲"されて、僕は「う~ん」と唸ってしまった。確かに、誉められたり、期待を表明されたりしたことはないが、一つも問題はなかったように思える。逆に、そのおかげで、変に自己評価が高くなることもなかったし、プレッシャーを感じることもあまりなかった。 

母は、僕の息子についてもこうアドバイスしてくれた。 

 「また同じように、嫌なことやプレッシャーがかかることから逃げようとするかもしれないけど、そのときは放っておくのがいいと思うよ。変にご機嫌を取ったり、下手に出て誉めたりするのは一番よくない。

どんなときも、なるべく論理的、客観的に説明する。それを続けていくしかないでしょ。あんたに似た子ならね」 

母は最後に笑いながらこう言って、電話を切った。僕は携帯を握りしめたまま、昔も今も僕のことを的確に見抜いている母親に、心の底から感謝したい気持ちで一杯になった。どす黒い曇り空の間から、一筋の光が差してきたような気がしていた。 

〈次回に続く〉

※この連載は原則として毎週土曜日に掲載されます。