完全なるチェックメイト

 

トビー・マグワイア主演・製作の伝記ドラマ。東西冷戦に翻弄された伝説のチェス世界王者ボビー・フィッシャーの数奇な人生を描く。

 

制作 2014年 米=カナダ

 

アメリカの伝説的チェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーに迫る伝記ドラマ。東西冷戦の代理戦争として利用されたチェス世界王者決定戦に翻弄されたことから、やがて神経をすり減らしてゆく若き天才を描く。当時34年間も世界王者だったソ連のスパスキーとの緊迫を極めた攻防戦は、今なお“世紀の対局”と言われている。『ラスト サムライ』のエドワード・ズウィック監督のもと、トビー・マグワイアが主演・製作を務めた。

 

ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ生まれの伝説のチェスプレーヤーである。チェスの伝説的な世界チャンピオンでもあり、「米国の英雄」あるいは「幻の英雄」とも呼ばれ、IQは187あったという。このIQは世界で歴代8位とされる。
また、日本との関わりも深く、日本の将棋棋士・羽生善治に「二十世紀の人類を代表する天才の一人」「チェス界のモーツアルト」と言わしめるほどの人物だ。
しかし、同時にその謎めいた人生、数奇な人生という点でもよく知られている。

 


フィッシャーの半生は、多くの謎と伝説に満ちていた。


 ノーベル賞科学者の秘書をし、ロシアで医学を学んだ母とユダヤ人物理学者の間に、1943年3月9日、シカゴでロバート・ジェームズ・フィッシャーは生まれた。(ただし父には諸説あり)

しかし、母親レジーナがシカゴの病院で彼を出産したとき、彼女はほとんどホームレス同然だったという。
自分の思い通りにならないことに癇癪を起こし、落ち着きのない彼を静かにさせるため、彼が6歳のとき、姉は1ドルのチェスセットを与え簡単なルールを教えた。これが彼とチェスとの出会いだった。

ボビーは幼いころから自分のリズム合わないことはすべて拒否した。思い通りにならないことは喚きちらし、興味のないことは一切しなかったという。彼が没頭したこと、それはチェスの本を読むことだった。彼は記憶の天才だった。

やがて棋譜の本を手に入れたフィッシャーは、なんと1年後、有名なチェスクラブに会員として認められる。まだ当時7歳時だった。これは前代未聞のことであった。


その後、フィッシャーは神童と呼ばれ、14歳のときにグランドマスターにまでなってしまう。チェス界で史上最強と謳われ、14歳からチェスの全米選手権で8連覇。

そのプレースタイルにはフィッシャーならではのものがあり、ドナルド・バーン戦(後のチェスファンから「世紀の一局」と呼ばれる)でクイーンをわざと捨てることで勝ち、ロバート・バーン戦でもナイトを捨てて勝った。

このような驚くべきスタイルによって、フィッシャーはしばしば「天才」と呼ばれるようになっていった。


1972年、当時の世界チャンピオンボリス・スパスキーとフィッシャーの世紀の対決が行われた。フィッシャーは29歳。

当時、世界は冷戦のさなかであり、ソヴィエト連邦は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたため、この対決は冷戦の代理戦であるとされ,「世紀の対決」と呼ばれた。
フィッシャーはこのレイキャヴィークで行なわれた伝説の世界選手権で、ボリス・スパスキーを破りとうとう世界チャンピオンとなる。


 アメリカや西欧諸国から見てこれは歴史的な勝利となり、冷戦の代理戦争とも言えるこの試合に勝利したボビー•フィシャーは英雄視される事となったのだ。

 


しかし、その3年後に防衛戦の運営をめぐり連盟と対立したフィッシャーは、対戦者と戦わなかったことによりタイトルをはく奪され、その後消息不明になってしまう。

それ以来、フィッシャーは試合を拒否するようになった。その後何十年もの間表舞台から離れ、隠遁生活と言えるような生活を送り、世間から見るとすっかり消息不明となった。

その後はほとんどホームレス同然の20年間を送っていたとされる。チェスの表舞台から身を引いた彼は、宗教活動に入る。人目を避け隠棲し、次第に人種差別論者となり、たまに登場すると問題発言を繰り返した。
 


表舞台から姿を消し隠遁生活を送った彼は、「天才」であるのと同時に「変わり者」として語られるようになっていった。1970年代のフィッシャーは、信仰し支援していたアメリカの福音系新宗教団体「ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド」の施設で暮らしていた(同教団の創設者ハーバート・アームストロングのラジオ伝道を聞いて傾倒し、献金していたが、アームストロングが唱えていた終末予言が外れたことから次第に距離を置いていった)。

 

ただし途中で一度、表舞台に出てきたことがある。ハンガリーの17歳の女性チェスプレーヤーから「なぜプレイしないのか」という手紙を受け取ったことをきっかけに、その少女と交流が生まれ、(フィッシャーを二十年間の隠遁生活から目覚めさせた要因となり、彼が47歳にして初恋の感情をおぼえた相手でもある)彼女の根回しによって1992年にユーゴスラビアでスパスキーと再現試合を行なった。

 

フィッシャーは試合前に、アメリカの当局から「試合に参加するな」という警告の手紙を受け取ったと公表し(アメリカ政府はボスニア問題に絡んでユーゴスラビアに対して経済措置をとっており、アメリカ国民が同国において経済活動をすることを禁止していた)、記者会見でその手紙に唾を吐いて挑発的な態度を見せた。フィッシャーはこの試合に見事勝利し、300万ドル以上の賞金を得た。アメリカ政府は「ユーゴスラビアに対する経済制裁措置に対する違反だ」として起訴し、フィッシャーのアメリカ国籍を剥奪した。彼は後に「この起訴は反ユダヤ的発言と反米発言に対する政治的迫害である」と語った。これ以降彼は再び表舞台から姿を消した。


公にはならなかったが、フィッシャーは10年以上にわたりハンガリー、スイス、香港、マカオ、韓国など世界の様々な場所を転々としており、2000年ごろまでにはフィリピンと日本が主たる拠点になっていたという。2000年から日本では元日本女子チェスチャンピオンで日本チェス協会事務局長の渡井美代子と、フィリピンでは元フィリピンチェス協会会長らの支援でマリリン・ヤングという若い女性と暮らしていた。


そして2004年7月14日、成田空港からフィリピンへ出国しようとしたところを入国管理法違反の疑いで東京入国管理局成田空港支局に収容された。世界中で、フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したとニュースが駆け巡った。アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、米国を憎むフィッシャーはそれを拒否していた。

 

パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態だったが、各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。


日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、将棋棋士・羽生善治などが運動を起こし、それが功を奏し、2004年12月、アイスランド政府がフィッシャーに対して市民権を与える措置をとって、拘束から約8ヵ月後、日本政府はフィッシャーのアイスランドへの出国を認め釈放したという。以後フィッシャーはアイスランドに滞在し、2008年1月17日に64歳で死去した。

 

激しい奇行、表舞台からの失踪、ホームレス寸前の日々、そして日本での潜伏生活。
アメリカの神童は、なぜ狂気の淵へと転落したのか。

その真相はいまも謎のままである。