2013年03月16日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第21回】
ふだんは穏やかな常識人が、信じられないほど横暴になるとき

 

 

兄貴のように優しく面倒を見てくれた人

数日前のこと、僕は、職場からそう離れていない繁華街の中華料理店で、「恩人」とも言えるOさん夫婦と料理の卓を囲んでいた。 

Oさんは僕が勤めるテレビ局の先輩で、入社以来、よく一緒に仕事をしてきた。企画の立て方といった大きなことから、日常の細かなルーティンワークまで、仕事のノウハウを一から丁寧に叩き込んでくれた人である。 

仕事でお世話になっただけではない。そもそも、就活が絶望的な状況になり、将来の進路に悩んでいた学生時代の僕に、テレビの世界に飛び込むことを決意させてくれた人がOさんだった。単なる恩人を超えて、職業人としての僕の「生みの親」なのである。 

大学4年生の春、僕は「空気を読めない発言の多さ」や「相手の気持ちに配慮せず本当のことを言いすぎてしまう傾向」が原因で、多くの面接官に嫌われ、入社試験の面接に落ちまくっていた。そんなとき、小さなテレビ局(現在の僕の職場だ)で働くサークルの先輩・Kさんを訪ねたことがきっかけで、その局の人たちからいろいろな話を聞くことができた。 

中でも、僕を最も元気づけてくれたのはOさんだった。「面接に落ち続ける僕は"ダメ人間"じゃないかと思うんです」と悩みを打ち明けた僕に対して、「君はダメ人間なんかじゃない。個性的なだけだ。この職場は、君のような個性的な人間を大歓迎するよ」と温かい言葉をかけてくれたディレクター、それがOさんだったのだ( 第19回参照)。

Oさんのおかげで、僕の中に初めて「世の中でやっていけるかもしれない」という自信が生まれ、天職に出会うことができた。彼の言葉を、僕はいつまでも忘れないだろう。 

Oさんはその後も、職場の後輩になった僕をずっと気にかけてくれていた。僕が仕事で失敗して落ち込んでいるときは、わざわざ席まで来て、「俺も若い頃には似たようなミスをやったもんだ。気にするな」と励ましてくれた。また、僕の手掛けた企画は本当によく見てくれていて、些細な部分でも気に入れば、「お前、ずいぶん成長したな」とか「あの切り口は斬新でいいと思うよ」などとマメに声をかけてくれた。 

同世代の同僚たちと比べても、僕は入社後の数年間でかなり充実した仕事をさせてもらった方だと思うが、それはOさんの教えと励ましによるところが大きい。あるとき、仕事帰りに居酒屋で2人で飲んでいたとき、僕は改めてお礼を言った。 

 「Oさんの下に付けて僕は本当にラッキーでした。入社前も入社後も、ずっと兄貴みたいによくして頂いて、本当に嬉しいです。ありがとうございます」

Oさんは「何を言ってるんだ、この馬鹿野郎」と答え、右手で首筋をぽりぽりと掻くと、「ちょっと電話してくる」と言って席を立ち、数分間戻ってこなかった。後で考えると、どうやら照れくさかったようだった。 

僕が結婚したときは、お祝いに自宅に招待してくれて、奥さん手作りの凝った料理をご馳走になった。Oさんの自宅は郊外の静かな住宅地にある一戸建てで、中は隅々まで掃除と整理整頓が行き届いていた。

Oさんと奥さんは大学時代の同級生だということで、夫婦というより友達同士のように仲が良く、いつも一緒にいて楽しそうだった。3人の子供はみんな小学生で、どの子もよく喋り、利発そうだった。今、上の2人の子は社会人になっているはずだ。 

結婚したばかりの僕の目に、Oさんの一家は「理想の家族」「目指すべき家族」のように映った。「これからは仕事だけでなく、家庭人としても教えてもらうことが多そうだな」と思ったことを覚えている。 

次々と耳に入る「音のカオス」を処理できない

その後もOさんとの家族ぐるみの付き合いは、今に至るまでずっと続いている。大学のサークル「Numbers研究会」で一緒だった何人かとも付き合っていたが、変わり者ぞろいのサークル仲間たち( 第15回参照)とOさんはずいぶん違った。

Oさんは、まったくの「常識人」だった。表情はいつも穏やかだ。人々を驚かす大スクープを放ったり、大ヒット番組を作ったりすることは少ないが、地味な企画も文句一つ言わずに黙々と進めて、クオリティの高いものに着実に仕上げ、納期をきっちり守る。そんなタイプの人だった。 

実はOさんは、事情があってこの3月末で会社を辞め、九州のテレビ局に転職することに決まった。そこで送別会と、これまでお世話になったことへの感謝の意味で、僕は中華料理店に一席を設け、Oさん夫妻を招待したのである。 

僕は以前にも記したように、ASD(自閉症スペクトラム障害)を持つ者に特有の症状として、周りでさまざまな音が聞こえるところで人と会話するのが困難だ( 第7回参照)。複数の音が同時に聞こえると、それらの聴覚情報を脳内で処理できなくなってしまうのだ。

特定の相手と会話をしようにも、耳に入ってくるたくさんの音のカオスから、相手の話だけを取り出してそこに意識を向けるということができない(日によって、好不調の波はあるけれども)。 

だから、ある種の飲食店のように、多くの客たちで常にガヤガヤしている空間では、目の前の人が話している内容が正確に聞き取れない(まったく把握できないときもある)。また職場の会合など、大人数のグループで飲みに行って、周囲に座った同僚たちと話を交わすのも苦手だ。 

特に職場の飲み会の話題は、大半が愚痴か人の悪口だ。ただでさえ、酔ってデヘデヘ笑いながら何時間も人の悪口を言い続けるというのは、僕が最も下らないと思う行為である。それに加えて、話の内容が聞き取れないまま、妙な悪口や噂話に下手に相槌など打とうものなら、また別のトラブルに巻き込まれかねない。 

だから僕は入社して以来、職場の新年会や忘年会、歓送迎会などにはろくに参加したことがない。じめじめした悪口より前向きの楽しい話を好む同僚や、僕が発達障害を持つ悩みをカミングアウトしている同僚(Oさんはその1人だった)と、静かな店にたまに飲みに行く程度である。もちろん、そういう同僚の数は多くないが、僕は十分に満足している。

そんな事情があるので、Oさん夫妻を招いた席も、周囲の音が聞こえないよう、中華料理店の個室を借り切った。そして、十数年にわたる思い出を語り合おうと思ったのである。 

完全に目が据わり、「これは真剣な話なんだ」と

Oさんが耳を疑うような告白を始めたのは、酒席が始まって1時間ほど経ったときだった。紹興酒が回ったのか、顔を真っ赤にしたOさんは、突然こう切り出したのである。 

 「実はな、この前、俺もお前みたいにASDの疑いがあると医者に診断されたんだ」

僕は思わず「はあ?」と聞き返した。一瞬、また聴覚の調子が悪くなって、どこか部屋の外で別人が出した声が聞こえたのかと思ったのだ。 

しかし、個室の中も外もしーんと静まりかえっている。耳を澄ませても、聞こえてくるのはOさんの声だけ。「ASDの疑いがあると診断された」と発言したのはOさんに違いなかった。 

でも、僕にはその言葉がどうしても信じられなかった。前述したように、Oさんは、職場の誰よりも常識人だった。しかも僕は、他人の言動を20分か30分ほど観察すれば、その人が自分と同じように発達障害を抱えているか否かがわかった。これは今まで、ほとんど外れたことがない。 

Oさんと僕は十数年間、ずっと仕事をしてきた仲である。僕はその間、彼の言動から、発達障害を抱えている雰囲気を感じたことは一度もなかった。そこで僕は、笑いながらこう答えた。 

 「冗談はやめてくださいよ。OさんがASDなんて、あり得ないですよ。自慢じゃないですけど、僕、他人が自分と"同類"かどうかというのは、会ってしばらく話をしていれば、ちゃんとわかるんです」

 「おい奥村、これは真剣な話なんだ」

Oさんはギロリと僕を睨んだ。目が完全に据わっていた。一度も見たことがない怖い表情に僕が驚いていると、彼は続けてこう言った。 

 「間違いなんかじゃない。もちろん冗談でも嘘でもない。俺は、お前と同じASDの疑いがあると医者に言われたんだ。たぶん、本当にそうだと思う。

実は、就活中のお前に初めて会ったときからずっと、『この奥村という男は俺と同じところがある』と思っていたんだ。だから、お前が会社に入ってきた後も、うまくやっていけるかどうかが心配で、気になって仕方がなかったんだ」 

 「そうだったんですか・・・」

 「で、しばらく前にお前が打ち明けてくれただろ。『医師から大人の発達障害だと言われました』って。それを聞いて、俺はハッとしたんだ。『奥村が発達障害なら、同じところのある俺もそうじゃないか?』ってな。

それで、診察を受けてみようと思った。その結果が昨日出たというわけだ」 

 「・・・」

思いもよらない突然の告白に仰天して、僕の身体も思考も完全にフリーズしていた。 

「夫も苦しんでいた」ということがわかった

僕は、騒がしい空間で人と会話するのと同じくらい、想定外の出来事に対応するのが苦手である。Oさんの話はまさに完全に想定外だったので、パニック状態になってしまったのだ。自分の顔が真っ青になり、背中から汗が噴き出しているのがわかった。 

しかしOさんは、そんな僕の様子など意に介さず、さらに耳を疑うようなことをぼそっと呟いた。 

 「ASDらしいと診断されて、やっと、俺が家族とうまく行かなかった理由がわかったよ」

僕は唖然として、Oさんの横に座っている奥さんを見た。この2人はとびきりの仲良し夫婦ではないか。それが「うまく行かなかった」と言われるなんて、奥さんはさぞショックを受け、傷ついたに違いない・・・。僕は瞬間的にそう案じたのだ。 

これまで僕が知っていたOさん夫婦とはまったく様子が違う。相変わらず凍りついたままの僕に向かって、奥さんは微笑を浮かべてこう話し始めた。 ところが奥さんは、「その通り」と言うかのように力強く頷いた。何のことだろう? 

 「主人は基本的に穏やかで優しい人なんですけど、ときどき、信じられないくらい腹立たしいことや、こちらがぐったりと疲れてしまうようなことをするんです。そういうときの主人は普段とは別人のように横暴で自分勝手で、まったく理解できません。子供がいなかったら、別れ話を切り出していたかもしれません。

でも今回、主人がASDを持っているらしいということと、そのせいで私や子供たちと険悪になるんだということがわかって、少しホッとしています。原因がわかるというのは、やっぱり大きいですね。それに、この人も苦しんでいたんだな、大変だったんだなということがわかって、私ももっと理解する努力をしようと思いました。 

そのきっかけになったのは、奥村さんが勇気を持ってご自分のASDを主人に打ち明けてくださったことだと思います。本当に感謝しています」 

 「いえ、僕はそんなつもりで自分のことをお話ししたわけでは・・・」

いきなりお礼を言われて面食らった僕は、かすれた声でこう答えるのが精一杯だった。奥さんは続けて、これまでの家庭生活で、Oさんの独特の言動で苦労した数々のエピソードを語り始めた。それは、発達障害を抱える人間が結婚し、家族を持ったときに直面するさまざまな問題についての、貴重な証言になった。 

すべての予定を分単位で記した1週間の旅程表

奥さんがOさんの"個性"に最初に気づいたのは、子供たちが小学生の頃だったという。ちょうど僕が結婚して、妻と一緒に初めてOさんの自宅にお邪魔したくらいの時期だろう。Oさん一家は、夏休みに1週間の家族旅行に出かけた。 

当時のOさんは、40歳を目前にした働き盛り。休日もほとんど出勤し、会社に何日も泊まり込むような、猛烈に忙しい日々を送っていた。そんな中で奇跡的に、1週間の夏休みを確保することができたのだ。 

新婚旅行に行く暇もなかったOさんにとって、それは文字通り、初めての家族旅行だった。行き先は、奥さんの希望で沖縄になった。奥さんは、リゾートホテルに泊まって、家族全員でビーチでのんびり過ごそうと考えた。 

そこでOさんに「海沿いのリゾートホテルに泊まりたいの」と相談すると、「わかった。宿や飛行機は俺が押さえとくよ」という返事が返ってきた。奥さんは「じゃあ、よろしくね」と、夫に予約を任せることにした。 

問題が起きたのは、荷造りを終え、いよいよ出発する直前のことだった。3人の子供たちはリュックを担ぎ、「嬉しいな、沖縄だ!」「海が超きれいなんだよね!」などと弾んだ声を上げて、外に飛び出そうとしていた。そのとき、Oさんは後ろから「ちょっと待って。これを読みなさい」と声をかけ、怪訝そうに振り向いた子供たちと奥さんにパンフレットのようなものを配った。 

それは、Oさんが作った「旅程表」だった。彼は沖縄行きが決まってから、飛行機や宿泊の予約をしただけではなかった。忙しい仕事を終えて夜遅く自宅に帰ると、数冊のガイドブックや膨大なネット情報を参照して、1週間以上をかけて綿密なスケジュールを作り上げていたのだ。その分量は、A4の用紙で十数枚に及んでいたという。 

ただでさえ足りない睡眠時間はさらに削られたはずだが、それはどうでもよかったらしい。Oさんにとっては、旅行が楽しみというより、旅行の細かい計画を立てること自体が、踊り上がるほど嬉しくてたまらなかったのだろう。そして、連日の徹夜を経て完成したその旅程表を4部コピーして、出発直前に奥さんと3人の子供たちに渡し、読むように命じたのだ。 

最初、その旅程表を見た奥さんは、内容のあまり細かさに「頭がくらくらして、気分が悪くなりました」という。なにしろ、往復の飛行機の便名や離着陸の時刻だけでなく、あらかじめ予約しておいた座席の位置や、飛行機の機種まで書いてあったそうだ。奥さんは、旅行のスケジュールになぜ飛行機の機種を書かなければならないのか、また、なぜそれを読まされなければならないのか、さっぱりわからなかった。

沖縄に到着した後のページを見ると、空港からホテルに向かうバスの出発と到着の時刻だけでなく、途中の主要な停留所や、どちら側の窓からどんな名所や風景が見えるのか、それは乗車から何分後になるのかまでが、ぎっしりと書き込まれていた。それも含めて1週間分のスケジュールは、移動時間も名所観光の時間も食事の時間も、すべて分単位で記されていた。 

□□広場に隣接したカフェで食休み」・・・といった具合だったという。 会計を済ませて店を出る」「12時55分~13時30分 子供たちがトイレに行く」「12時50分 食事終了」「12時47分 食事開始(ただしネット情報によると昼は混雑するので12時20分になる場合もあり)」「12時45分 食事注文」「12時15分 公園前の△△食堂に入る」「11時55分 ○○海浜公園観光」「11時50分  「10時30分~11時45分

「お父さんとは二度と旅行に行かない」と言われて

出発前にこれを見せられて、奥さんは心底うんざりしてしまった。「これじゃ、まるで小学校の修学旅行じゃないの。こんなの、いらないわよ」と言って、傍のごみ箱に捨てようとした。すると、Oさんは激怒してこうわめいた。 

捨てようとするとは何事だ!」 旅程表がない旅行なんて、俺にはできないよ。そもそも、こんなに完璧に計画を立てたのに、何が不満なんだ?  「何を考えてるんだ!

馬鹿みたい」 のんびりして、ボーッとして、きれいな海を見ながらゆっくり過ごすために旅行に行くんじゃない。こんなにキチキチにプランを立てて、何が面白いの?  「あなたこそ何考えてるのよ!

 「馬鹿とは何だ。そもそも君は、俺にこんなに良いものを作ってもらって、ありがとうの一言も言えないのか?」

こうして互いに譲らず、空港に向かう電車の中でも夫婦で怒鳴り合っていたという。末の女の子は泣き出し、旅行はのっけから非常に気まずいものになった。結局、Oさんは奥さんの説得を諦め、往路の電車と飛行機の中で、子供たちに旅程表の内容を最初のページから逐一説明していたという。 

旅行の間は、もっと大変だった。問題は、奥さんと子供たちが「ビーチで泳いだり寝ていたりしたい」と考えていたのに対し、Oさんが「レンタカーであちこちを見て回りたい」と考えていたことだ。 

最初の2日間ほど、奥さんと子供たちは車であちこちを連れ回され、へとへとに疲れ切った。3日目の朝になって、奥さんが「今日はビーチでゆっくりしたい」と言い出し、子供たちも「泳ぎたい!」と調子を合わせると、Oさんはまた声を荒げた。

 「今日は××城の跡に行って、その後、海岸沿いにドライブして、水族館に行くことになってるじゃないか。泳ぐのなんて予定に入ってない。旅程表を見てないのか?」

なんで前もって相談もなく、勝手なスケジュールを立てて私たちに従わせようとするのよ。こんな旅行をして、何が楽しいの?」  「あんなもの、見てるわけないでしょ!

こうしてまた口論が始まり、不穏な空気を察した子供たちは泣きそうになって、奥さんはたまらなく惨めな気持ちになったという。妥協して一緒に観光に出かけても、目的地への到着が計画から数分ずれただけで、もう大騒ぎである。Oさんは「ああ、遅れちまうよ!」「ほら、もう次に行かなきゃ」と苛立ちをあらわにし、まだ十分に目的地を見ていない家族を急き立てる。 

こうなると、何のために来ているのかまったくわからない。最後にOさんは「みんながスケジュールを守れないなら、俺はもう次へ行くからな」と吐き捨てて、1人でスタスタ歩き出してしまう。奥さんと子供たちが、そんな彼の後を慌てて追いかけたのも一度や二度ではなかった。 

あんなに楽しかったじゃないか。お前たちもきっちりスケジュールを守れば、旅行はもっと楽しくなるんだぞ」と答えたという。妻と子供たちがなぜ不満を持ったのか、まったく理解できなかったらしい。 旅行から帰ってきた後、子供たちは口を揃えて「二度とお父さんとは旅行に行かない」と言ったそうだ。ところがOさんは「どうして? 

Oさんのこの旅行中の行動は、同じような傾向を持つ僕にとって、「自分もやりかねないな・・・」とヒヤリとさせられるものだった。僕はたまたま、そういう行動はなるべく避けた方がよいということを十代の頃から後天的に「学習」して、かろうじて自分を抑制できているに過ぎない。 

僕の本質はOさんと変わらないし、「1週間分きっちりスケジュールを立ててその通りに動けたら、最高の気分だろうな」と心の中では強く思っている。そんなとき、「同行者はどんな気持ちになるだろうか」といった配慮など、完全に意識の外にある。 

とにかく、沖縄旅行はOさん一家にとってさんざんな結果に終わった。しかし、奥さんにしてみれば、それはまだ夫のASDとの闘いの"序章"に過ぎなかったのである。 

ゴルフの予定日に娘が高熱を出して、苛立った?

奥さんは続けて、「旅行よりも、主人の言動で一番許せなかったことがあるんですよ」と前置きして、別のエピソードを披露し始めた。Oさんは横で腕組みをし、口をぐっと真一文字に結んで聞いている。 

それは、末の女の子がまだ幼稚園児の頃の出来事だった。実はその日、僕はOさんと行動を共にしていたので、10年以上経った今でも、彼の言動を鮮明に思い出すことができる。確かにその日のOさんは、いつもと明らかに違っていた。

よく晴れた日曜日だった。Oさんは、僕も含めた職場の仲間たちとゴルフに行くことになっていた。 

確か、スタートは朝8時だったと思う。しかし、いつもならスタートの2時間前にはゴルフ場に1人でやって来て、念入りに準備体操をし、僕たちを迎えてくれるOさんが、スタートの20分前になっても姿を現さない。皆、「何かあったのかな?」と心配し始めたその矢先、Oさんから僕に電話が入った。 

 「実は一番下の娘が、今朝いきなり39度の熱を出しちゃったんだ。それで、女房に車で救急病院に連れて行けと言われて、ついさっき病院に着いたところなんだ。

だから、今日はゴルフに行けないかもしれない。悪いけど、みんなにそう言っておいてくれないか」 

そんな家族の一大事とあっては、ゴルフなどしていられないのは当然だ。僕は「もちろん了解です。また今度やりましょう。お嬢さん、お大事に」と言って電話を切った。同僚たちに事情を説明すると、口々に、「それは心配だね。付き添ってあげないと」「肺炎とかじゃないといいね」といったごく普通の反応が返ってきた。 

幼い娘が39度の高熱を出して苦しんでいても、間に合えばゴルフに来たいということなのか? しかし僕は、Oさんの話の中で、どうしても引っかかる点があった。なぜ、「ゴルフに行けない」ではなく、「ゴルフに行けないかもしれない」と言ったのか? 

Oさんの声のトーンも気になった。娘の容体を心配しているというより、ひどく苛立っているように感じられたのだ。それも、「病院が思ったより遠かったから」とか「医者に診てもらっても子供の病状がわからなかったから」といった理由ではなく、「楽しみにしていたゴルフに行けなくなったため、本当に腹を立てている」かのような口調に聞こえたのである。 

夫の言動を思い出し、情けなさに涙ぐむ奥さん

しかし僕は、その後は下手なゴルフに没頭して、Oさんのことなどすっかり忘れてしまった。そして前半のプレーが終わり、昼食を取ろうと、皆でクラブのレストランに入ったそのときだった。僕は自分の目を疑った。 

ゴルフ用シャツを着たOさんが、レストランの入口に満面の笑みを浮かべて立っていたのである。さらに驚いたのは、彼が発したこの言葉だった。

 「こんな大事な日に娘が熱を出しちゃって、本当に嫌になるよ。朝、『ゴルフの予定があるから』と言って出てこようとしたんだけど、女房がどうしても『すぐ車を出して救急病院に連れて行って!』ってギャアギャア言うから、仕方なく病院に行ったんだ。

でも、『俺はどうしてもゴルフに行く。これは予定なんだ』と女房に言って出てきた。こうしてみんなと合流できてよかったよ。遅れて申し訳ない」 

僕も、あちこちで空気を読めない発言を繰り返している以上、他人のことをとやかく言える資格はないが、それでもOさんのこの発言には心の底から驚いた。そして、「幼い娘が高熱で病院に担ぎ込まれたのに、『どうしてもゴルフに行く』と言って出てきたOさんを、奥さんはどう思っているのだろう?」と心配になったのである。 

その答えが、まさか10年以上経ってわかるとは想像もしなかった。当時のことを話し終わった奥さんは、「本当につらかった・・・」と漏らすと、悔しさと情けなさが心の中によみがえってきたのか、手をぶるぶると震わせ、涙ぐんでいる。Oさんは相変わらず、口を閉じて黙ったままだ。 

僕は料理を食べることも忘れて聞き入っていた。楽しい席のはずが、まったく違う雰囲気になってしまった。でも僕は、Oさんと奥さんが、僕を"仲間"として信頼し、普通は隠しておきたいであろう秘密を明かしてくれたことに、深い感謝と尊敬の念を覚えていた。 

ただし、奥さんが身をもって経験してきた「夫が原因なのに、夫にその自覚がまったくない家庭内トラブル」は、こんなものではなかった。次回も、奥さんの告白を続けて紹介していきたい。 

 

2013年03月23日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第22回】
理解できない夫の言動に、泣いて怒って苦しんだ妻の告白

本当は、妻に嫌われているのかもしれない

立派な中年になってから、医師に「『大人の発達障害』の疑いがあります」と診断された、会社の先輩で大恩人のOさん。4月から九州に転職する彼のため、僕は職場近くの中華料理店にささやかな送別会の席を設けたのだが、そこでいきなり彼の奥さんが語り始めた家庭でのエピソードは、僕を仰天させるものだった。 

僕は職場での、常に冷静沈着で黙々と働き、かつ優しく穏やかなOさんの姿しか知らなかった。それが、家族旅行ではあまりにも細かすぎるスケジュールを作って、その通りに動くことを妻子に強制したり、いったんゴルフに行くと決めたら、幼い娘が急病で救急病院に担ぎ込まれていても、平気でゴルフ場に現れたり・・・といった、かなり横暴な行動を取っていたのだ( 第21回参照)。

僕は驚きのあまり、好物のエビチリに箸をつけるのも忘れて、呆然と奥さんの話を聞いていた。そして同時に、「Oさんの家庭での行動は、俺には理解できるものばかりだ」と内心ひそかに思っていた。Oさんと同じASD(自閉症スペクトラム障害)を持っている僕は、「人に嫌われないように振る舞う」という自制心さえ吹っ飛んでしまえば、きっと彼と同じことをしたに違いなかった。 

次に襲ってきたのは恐怖感だった。Oさんは、心の底から愛し合っていて大の仲良し(に僕には見えた)の奥さんから、ここまでひどい嫌悪感を持たれていたのだ。Oさんの奥さんと同じ感情を、僕の妻が持っていても全然おかしくないからである。 

本当は、妻に嫌われているのかもしれない---。そう思うと、食欲など完全に失せてしまった。酒も飲む気にならなかった。 

もちろん、僕がそんなことを考えて恐怖におののいていようとは、Oさんの奥さんは想像すらしていなかったのだろう。彼女はさらに、夫の家庭内での行動をいろいろと思い出し、憤りをあらわにしながら話し続けるのだった。 

 「旅行の計画ほど大きなことじゃないんですけど、主人が毎日する行動で、いつも腹が立って仕方がないことがあるんです。奥村さん、わかります?」

何でしょうか?」  「毎日する行動?

「テレビを見るたびに主人がやることが、本当に私には凄いストレスなんです。同じASDの奥村さんなら、ひょっとしたらわかるんじゃないかと思って」

 「さあ・・・?」

見当もつかず、僕が首をひねっていると、奥さんの代わりに、それまで横でずっと黙って聞いていたOさんが口を開いた こんなにおとなしい奥さんを、何がそこまで怒らせるのか。しかも、テレビを見るとき? 

 「テレビを見るときの、俺のリモコンの使い方に問題があるらしいんだ。俺がリモコンを使う回数が多いんで、女房や子供たちは『テレビを見ている気がしない!』って怒るんだよ。

そう言われても、俺にはよくわからない。俺は別に、リモコンを使う回数が多いとも、使い方に問題があるとも思っていないんだけどね」 

説明しながら、Oさんは「本当にわからないんだよ」と言いたげに首をひねっている。奥さんは、その様子を横目で睨むと、呆れたような表情で溜め息を吐いた。 

その目は「さんざん言ってるのに、まだわからないの?」と語っていた。そして彼女は、僕に視線を移すと、「テレビのリモコンに関する夫の問題行動」について、まくし立てるように話し始めたのである。 

穏やかな紳士だったはずが、「クソガキ!」と激高

 「実はうちの主人、テレビを見ている間、リモコンをぎゅっと握っていないと、パニックになってしまうんです」

と奥さんは切り出した。とにかくテレビのスイッチがオンになっている限り、Oさんはリモコンを握りしめている。そのため、リモコンが手の汗でべとべとになることもあり、奥さんも子供たちも、汚さと気持ち悪さでその後は触る気がしないのだという。 

 「Oさん、本当にそんなことしてるんですか?」と僕が尋ねると、彼は「気持ち悪いって言われてもさ、俺の方こそ、リモコンが手の中にないと、気持ち悪くて仕方がなくなるんだよ」と答えた。声にこそ出さなかったが、「何が悪いんだ?」と反論したくて仕方がないようだった。

まだ、奥さんや子供たちはその癖を知っているからいいようなものの、何も知らない人が来ると、ときに騒ぎになる。以前、親戚一家がOさんの家に遊びに来たとき、小学生の男の子が何の気なしに、「おじさん、テレビ変えていい?」と言いながら、Oさんの手からリモコンを取ろうとした。もちろん、その子には何の悪気もない。 

ところが、自分の手からリモコンが取り上げられた瞬間、Oさんは逆上して、「この野郎、何をするんだ!」と怒鳴りつけた。ショックのあまり男の子は泣き出し、彼が手放したリモコンは、そのまま真っ直ぐ落下して、再びOさんの手の中にすぽりと戻った。 

不幸中の幸いだった。もし男の子がリモコンを持ったままだったら、Oさんは彼を引っぱたいてかもしれない。小さな子供に大人が暴力を振るうという最低きわまりない事態は、かろうじて回避された。

しかし、収まらないのは男の子の父親だった。すぐにOさんに近づいて、こう抗議した。 

あなた、ちょっとおかしいんじゃないですか?」  「たかがリモコンを取ったとか取らないとかで、大の男が子供を怒鳴りつけるとは何事ですか。そんなことでうちの息子を泣かせて、何が楽しいんです?

お前のところのクソガキが俺のリモコンを取ろうとしたんだよ。それが許せるかよ。俺はね、絶対にリモコンを持ってなきゃい・け・な・い・の!  「何だと?

それを脇からサッと取っていかれたら、誰でも怒るだろう。てめえがガキのしつけをちゃんとやってないから、ガキが怒鳴られるんだよ。わかったか、この馬鹿野郎!」 

激高してこう口汚くわめき散らすOさんの目は吊り上がり、白眼は血走り、唇は震え、普段とは別人のようだったという。相手の男性も、てっきりOさんは優しい紳士で、声を荒げて他人を罵ることなど絶対にない人間だと信じていたようだ。 

それが、「クソガキ!」「てめえ」などの下品な言葉で罵倒を始めたあまりの豹変ぶりに、ショックで何も言えなくなったらしい。顔面蒼白になって、「帰ります」と言い残し、家族と一緒に無言で出て行ってしまった。 

Oさんの奥さんは玄関に走り出て、「ごめんなさいね。本当にごめんなさいね」と泣きながら親戚一家を見送った。それからリビングに引き返すと、「あなた、いい加減にしてよ。ひどすぎるじゃないの!」と夫に怒声を浴びせた。 

ところがOさんは、さっきの騒ぎはどこへやら、ニコニコと笑いながらテレビを見ていたという。その手はもちろん、リモコンをぎゅっと握りしめていた。 

ドラマのクライマックス直前で、チャンネルを変える

早く見つけろ!」と叫び声を上げ、周囲の物を片っ端から引っ繰り返し始める。 探せ! そんなOさんだから、リモコンがどこかへ消えてしまって見つからないときは、大変なことになる。テレビを見るどころではなくなってしまうのだ。家族全員で見ようと楽しみにしていた番組が始まる直前で、すでにチャンネルはその番組に合っているのに、「リモコンがない! 

奥さんが「リモコンなんて後でいいじゃない。もう番組が始まるよ。みんなで見て、後で探そうよ」と提案しても、「今見つけなきゃダメなんだ。リモコンがここにないと、俺は番組なんて見られないんだよ。何回言ったらわかるんだ!」と大声で意味不明のことを怒鳴り散らし、「お前はテーブルと椅子の下を探せ。早くしろ!」「お前はキッチンを探すんだ。俺をこれ以上イライラさせるな」などと高飛車に命令するので、やむをえず家族全員で探す羽目になるのだという。 

もし無事にリモコンが見つかって、ようやく家族一緒に番組を見始めたとしても、その後がまた大変だ。Oさんはぐっと握りしめたリモコンを、絶対に誰にも渡さない。そして、奥さんや子供たちなどお構いなしに、数分おきにザッピングを繰り返す。

そんなとき、「ちょっと他のチャンネルにしてみてもいいか?」くらい一言断ればいいのに、それもしない。何も言わず、いきなり勝手にチャンネルを変えてしまうのだという。 

当然、奥さんや子供たちからは「急に変えないでよ!」「せっかく良いところなのに、どうして他のチャンネルにしちゃうの?」などと文句を言われる。しかしOさんは、「あ~」とか「う~ん」などと言うだけで、黙殺するのだという。 

こんなことが重なって、奥さんや子供たちには次第にフラストレーションが溜まっていった。そして、テレビの視聴について一つの決断を下すきっかけとなった“事件”が起きた。 

それは、一家揃って「火曜サスペンス劇場」を見ていた晩のことだった。22時半を過ぎた頃、いよいよ犯人がわかるというクライマックス直前の場面で、Oさんは突然、チャンネルを変えてしまったのだ。 

何を考えてるの?」「一番いいところなのに、お父さんって最低だよ!」と怒りを爆発させたが、Oさんは一瞬、「何を怒られているのかわからない」と言いたげなポカンとした表情になり、こう答えた。 当然、奥さんと子供たちは激怒した。口々に「どうしてこのタイミングでチャンネルを変えちゃうの? 

 「だって、俺にはもう犯人がわかったんだ。だからチャンネルを変えたんだよ」

あなたには犯人がわかったかもしれないけど、私たちにはわかってないの。それに、あなたの推理が正しいという保証もないでしょ。あなたが思ったのとは別の人が犯人かもしれないじゃない」  「何を言ってるのよ!

テレビ視聴を巡るOさんの横暴さには慣れている奥さんも、さすがにこのときは一歩も退くつもりがなかったという。子供たちも、憤懣(ふんまん)やるかたなしといった視線で父親を睨んでいる。ところがOさんはひるむ様子もなく、淡々とこう応じた。 

 「お前たちが何を言っているのか、俺には意味が全然わからないよ。犯人がわからないって、そりゃ、犯人がわからないお前たちの頭が悪いってことだろ」

この一言で奥さんはキレた。「そうですか。私たちは頭が悪いんですね。よくわかりました」と棒読み口調で答えると、「もう今日は寝なさい!」と言って子供たちをそれぞれの部屋に連れていき、自分も夫には一瞥(いちべつ)もくれず、寝室に引っ込んでしまったという。 

奥さんと子供たちは、その日を境に、Oさんと一緒にテレビ番組を見るのをきっぱりやめた。そして、奥さんは翌日、家電量販店に行って小さなテレビを購入し、以後は別室にそのテレビを置いて、子供たちと一緒に見るようにしたという。

テレビを視聴中の「リモコン依存症」と「ザッピング中毒」

僕はときどき微笑を浮かべて相槌を打ちながら、そんな奥さんの話を聞いていた。しかし、その微笑は、必死で顔の筋肉を引きつらせて作った、偽の笑いだった。 

実は、話の途中から、僕は笑うことなどできなくなっていた。それどころか、身体がこわばり、自分の額や首筋、手のひらから汗が出てくるのがわかって、困惑したほどだった。パニックになりかかっている証である。 

なぜパニックになりかかっていたかというと、僕も自宅で、Oさんにそっくりの行動を取っているからだ。僕も、テレビを見ている間はずっとリモコンを手にしているし、そうしないと、不安で胸が張り裂けそうになる。 

あるとき、テレビを見ている僕の手から妻がリモコンを何の気なしに取り上げたときは、彼女を怒鳴ったりはしなかったものの、胃の奥の方から、恐怖と不安がごちゃ混ぜになったような、得体の知れない熱い塊が急にこみ上げてきた。気がついたら、「うわあっ!」と叫んでいた。 

また僕は、妻や息子と一緒にテレビを見ているとき、彼らの意向を聞かず、自分勝手にザッピングを繰り返してしまうところもOさんと同じだ。ザッピングを始めるのは、それまで見ていた番組がつまらないからではない。 

リモコンを握ってテレビを見ていると、数分間に一度は急に落ち着かなくなってイライラし、自然と貧乏ゆすりを始めてしまい、他のチャンネルをざっと見て回りたくなるのだ。それができないと、どんどん苛立ちがつのってしまう。 

とりあえずザッピングが終わると、心が落ち着く。しかし数分後、また謎の苛立ちが心に湧いてきて、ザッピングをせずにはいられなくなる。ある種の依存症か中毒のようだ。僕もOさんと同じく、そんなことを繰り返しているのだ。 

Oさん夫妻と僕たち夫妻の違いは、一点だけ。僕はまだ、妻から一度も「リモコン依存症」や「ザッピング中毒」を注意されたことがないのだ。ただ、それは、僕の妻があまりテレビを積極的に見たがるタイプだからではないせいかもしれない。 

夫の行動で深刻なストレスを受けたことを告白する妻の横で、さすがにOさんも気まずそうにしょぼんとしていた。僕も黙って下を向き、頭をもたげようとするパニックの症状を、何とかやり過ごすしかなかった。

大声で独り言を言い、近所の人に不審がられる

奥さんは興奮してきたのか、さらに喋り続けた。テレビの他に、彼女がストレスを感じている夫の生活上の習慣には「独り言」があった。特に、「風呂での独り言」だ。Oさんは風呂に1人で入ると、中でずっと「だからうちの会社はダメなんだ」とか「日本は完全にアメリカの属国になったな」とか「親父も健康に気をつければもっと長生きできたんだよ」などと独り言を言っているらしい。 

 「それがあまりにも大声なので、ご近所から不審に思われて、『Oさんのお宅から、太い声がよく聞こえてきますけど、大丈夫ですか?』と聞かれたりするんです。家の近くの路上ですれ違うときに、ニヤニヤ笑いながらこちらを見る人もいます。私が主人に何度、『変だし、恥ずかしいから独り言はやめてよ』と言っても、まったく聞く耳を持たないんです」

そこでOさんがぼそりと口を開いた。 

 「だって、俺には『独り言を言っている』という意識がまったくないんだよ。たぶん無意識のうちに喋っているんだ。だからやめようがないんだ」

携帯で誰かと話しているの?」とよく聞かれる。やはりOさんのように、無意識のうちに独り言を言っているらしい。 実は、この点も僕とそっくりだ。僕の場合、シャワーを浴びているときに、息子から「お父さん、誰と喋っているの? 

しかも僕の場合は、「へぇ、そうだったんですか」とか「なるほど、よくわかりました」とか「はい、おっしゃる通りです」とか、相手の発言に対する相槌が多いらしい。それを息子はひどく気味悪がっている。 

Oさんには、僕よりも、むしろ僕の息子と似ている点もあった。たとえば、Oさんはシャープペンシルを絶対に使わず、鉛筆を使う。自宅の彼の机の引き出しを開けると、綺麗に削られた鉛筆が常に5本並んでいるという。それらの鉛筆は、必ず残りが3㎝以下になるまで使い切る---。 

本当に僕の息子にそっくりだ。息子は「シャーペンを使うと、『もし壊れて芯が出なくなったらどうしよう』と考えて、怖くてたまらなくなるんだよ」と言って、ずっと鉛筆を使っている。そしてOさんと同じように、とことんまで使い切る。 

違うのは、鉛筆を捨てるときの基準としている長さだ。息子はOさんより1㎝長い、4㎝になるところまで鉛筆を使う。物差しできっちり測って、4㎝より1㎜でも短くなったら、すぐに捨ててしまうのだ。 

Oさんはまた、子供の教育やしつけ、あるいはそれらを含めて子供の人生にまったく興味がないのだという。これも初めて聞いて驚いた。円満な家庭の様子から、「きっと子供をきちんとしつけ、勉強させていて、うまくコミュニケーションが取れている親子なのだろうな」と何となく想像していたからだ。

Oさんの2人の息子は、いろいろな辛酸を舐めたという。次男は中学時代に悪質ないじめに遭い、不登校になってしまった。また、長男が就職したのは、早朝から深夜まで社員を奴隷のようにこき使い、休日出勤も当たり前、それらはすべてサービス残業で給料も恐ろしく安いという「ブラック企業」だった。 

長男は、苛酷な労働環境だけでなく、上司に毎日のように罵倒されるなどのパワハラも受けた。結局、入社して数ヵ月で鬱になってしまったそうだ。 

部屋から出てこないの」「毎日、睡眠時間が3時間もないらしくて、上司に毎日耳元で怒鳴られて、起き上がれなくなってしまったというの。どうすればいいと思う?」などと、時には泣きながら大騒ぎする。母親として当然の反応だろう。 当然、母親、つまりOさんの奥さんは夜も眠れぬほど心配し、息子たちのことを必死で夫に相談する。「いじめられて『もう学校に行かない』と言い出したのよ! 

息子の人生がどうなっても、俺はどうでもいい

ところがOさんは、それを聞いてもいつも他人事のように構えていた。奥さんが相談しても、「そのうち良くなるだろう」「そんなに心配なら、暇なときに先生に相談に行ってみたらどうだ」「俺も昔は寝ないで働いたもんだ」といった、生返事のような、あるいはピントはずれのリアクションしか返ってこない。奥さんはこう振り返る。 

 「主人の態度は、『子供のことは全部お前に任せていたはずだ!』といった暴君的なものではないし、『獅子はわが子を谷に突き落とす』といったスパルタ教育的なものでもないんです。単に、『自分以外の人間の人生には、そもそもまったく興味がない』という感じなんですよ。もう、私は悲しいやら心細いやらで・・・」

だから、奥さんが必死に説得してようやく家族会議にこぎつけたとしても、空気が読めず、子供に関心を示さないOさんは、妻子を傷つけるような発言ばかりを繰り返してしまう。あるとき、夫妻に長男も加わった席で、奥さんがこう切り出した。 

 「あなた、前から、S(長男の名前)が会社でメチャクチャな目に遭っているって話してるでしょ。最近はますますそれがひどくなって、『もう辞めたい』って言い出してるの」

 「そうなのか。辞めたいのか。じゃあ辞めればいいんじゃないか」

 「辞めても、次の就職先はどうするのよ。今は就職口も少ないし・・・。それについても悩んでるのよ」

「今はニートとか言って、働かないで引きこもっている若い連中も多いんだろ」

あなたの考えを聞かせてよ」 ニートとかいうのになったら、ずっと仕事に就かないで、私たち親に養ってもらうしかなくなるんでしょ。Sがそうなってもいいと本気で思っているの?  「あなたは、Sにそんなのになってほしいの?

 「俺は、Sが会社を辞めても辞めなくても、転職してもニートになっても、正直、別にどうでもいいんだよ」

本当に真剣に考えてるの?」  「ねえ、私たちの息子のことなのよ!

あと2分半で、見たいテレビ番組が始まるんだ」  「一応、考えてはいるけど、真剣というほどではない。・・・もう、この話、これくらいでいいか?

 「最低!」

奥さんは泣き崩れ、長男のSさんは真っ青な顔で席を立って、無言のまま自室に戻っていった。その傍らでOさんは、嬉しそうにテレビのスイッチを入れ、いつものようにリモコンを握って番組が始まるのを待っていたという。 

この点に限っては、僕とOさんは違う。少なくとも僕は、息子の教育やしつけのことを、人一倍気にしているからである。 

ただし、奥さんの話から「発達障害を抱える人間に特有の行為の一つ一つが、実は、長年共に暮らしている家族にも大きなストレスを感じさせるもので、家族はひたすらそれを我慢している。しかも発達障害を持つ本人は、家族のストレスにも忍耐にも基本的に気づいていない」ということがわかったのはショッキングだった。 

息子の教育やしつけはきちんとケアできていても、家庭生活の別の部分で、妻や息子の心を深く、連続的に傷つけているのかもしれない---。そう思うと、Oさん夫妻の前で僕の手は改めて震え出し、止まらなくなった。 

こんなにピュアで、嘘のつけない人はいない

奥さんの、つらく苦しいさまざまな思い出話を聞いているうちに、僕は内心、「この人は、ひょっとしたらOさんと熟年離婚をするつもりなのか?」と勘ぐってしまった。「Oさんの九州への転職→単身赴任&別居→離婚」という流れをたどるのかと思ったのだ。そのくらい、この日の奥さんは本気で怒っているように見えた。そこで、僕は酒席の最後に、 

 「なんか、今日の一連のお話が出たままOさんが九州に単身赴任したら、O家は危うくなっちゃうかもしれませんね。その場合、僕がきっかけになっちゃったみたいで、ちょっとヤバいかなぁと思ってます」

と冗談めかして言うと、奥さんは「主人の単身赴任じゃなくて、2人で一緒に九州に行くんですよ」と明かしてくれた。 

ホッと安心した僕が、

実はずっと奥さんのお話を聞きながら、『ひょっとして、最近流行りの熟年離婚とかになったらどうしよう』と心配していたんです」  「それはよかった!

と正直に打ち明けると、奥さんは、先ほどの涙ぐんだ表情から一転してニコニコと笑顔になり、きっぱりとこう言った。 

 「確かに、主人への不満とか怒りはたくさんありましたけど、それが、全部とは言わないまでも、かなりの部分がASDのせいらしいとわかったら、何だかスッキリしちゃったんです。もちろん、まだわだかまりが残っている部分はありますけど、すいぶん少なくなりました。

今日、あえて家庭の恥のような部分を含めて、主人の言動の理解できない部分についてお話ししたのは、実は、奥村さんの注意を促そうと思ったからなんです。私たちの話から、奥村さんが何かに気づいてくれて、奥さんやお子さんが傷つくことが減ればいいと思いました。そのために、自分たちの経験をお話ししたんです」 

 「そうだったんですか。ありがとうございます。今のお話は必ず妻に伝えます」

 「ASDを抱えているって、本人も周りも大変ですけど、そんなに悪いことばかりでもないと思うんです。主人は本当に不器用だし、誤解されがちですけど、いったんこの人のことが理解できれば、『こんなにピュアで、嘘をつけない人間は他にいない』とわかりますから。

だから、奥村さんも安心なさい。奥さんは、何があっても、きっとあなたの純粋さをわかってくれていますよ」 

僕は黙ってその言葉を聞きながら、心の中で妻の顔を思い浮かべ、「いろいろと迷惑をかけているけれど、僕の中にも純粋な部分があることをわかってくれていますように」と祈るしかなかった。 

〈次回に続く〉

※この連載は原則として毎週土曜日に掲載されます。

 

 

2013年03月30日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第23回】
車を運転すると、すぐ同乗者を怒鳴りつけてしまう理由

「お父さんとドライブしたい」と息子にせがまれて

先週末のこと、僕は、両親が住む実家のある街で、ノロノロと車を走らせていた。後部座席には妻と息子が座っている。僕にとって、本当に久しぶりのドライブだった。 

 「おい隆、大変だ。車検が切れちゃうんだよ!」

おかしいな」と思った。両親は2週間の予定で、初めて夫婦揃っての海外旅行に出かけていたはずだからだ。 父から突然、焦った声で電話がかかってきたのは、その3日前だった。僕は一瞬、「ん? 

 「あれ、今、イタリアだかフランスだかにいるんじゃなかったっけ?」

訝しんで尋ねる僕に、父は情けなさそうな声で答えた。 

 「確かに今、パリにいるんだけど、ここに来て急に思い出しちゃったんだよ。『あ、そういえば車検の期限はこの3月までだった』って。そう思うと、観光も楽しめなくなってなぁ・・・。隆、忙しいのに悪いけど、代わりに車検に出してといてもらえないだろうか」

父はよりによって、母と久しぶりにゆっくり観光を楽しもうとやってきた旅先で、自分の車(15年物のポンコツだ)の車検の更新時期が迫っていたことを、急に思い出したというのだ。両親の帰国は4月だから、その時点では車検切れになってしまう。焦っている父の姿を想像すると、何だか気の毒になり、僕は「いいよ、やっておくよ。費用も僕が立て替えておく」と応じた。 

実家の鍵は、近所に住んでいる叔母に預けられていた。それを受け取って実家に入り、父から聞いていた机の引き出しから、車のキーと自動車税納税証明書などの必要書類を取り出すと、車庫に駐めてあった車に乗り込もうとした。 

自動車整備工場に行って帰ってくる間、妻と息子には、実家で留守番をしてもらおうと思っていた。ところが、僕が玄関を出ようとしたそのとき、息子が叫ぶように言った。 

だってお父さん、めったに僕をドライブとかに連れて行ってくれないじゃん」 僕も車に乗りたい!  「お父さん、1人で行っちゃうの?

息子がそこで駄々をこね始めるとは、まったく想像もしていなかった。しかし、「お父さんと一緒にドライブしたい」と言われると、やはり父親としては息子が可愛らしく、嬉しいものだ。「よし、一緒に行こう」と答えて車に乗せたのだが・・・それが問題だった。 

ハンドルを握ると、身体が震え始める

妻は「私も一緒に行く」と言い出した。僕がここ数年、ほとんど運転していないことが不安だったようだ。いや、ここ数年どころか、そもそも僕が昔から運転が下手だということを心配してくれたに違いない。 

優しい妻は、「私の方がふだん運転に慣れているから、やってあげてもいいよ」とまで言ってくれたが、すかさず息子が「お父さんが運転するというのは、もう決まったことじゃないか。僕はお父さんの運転じゃないと乗らない」と答えた。妻が何の気なしに、「じゃあ、お留守番しててもいいよ」と言うと、息子は急に真っ赤な顔になって、 

泥棒や強盗が来たらどうするの?  「こんなところで1人で留守番するなんて、絶対に嫌だ!

ひどいじゃないか!」 だいたい、お父さんが運転するってことも、僕がその車に乗るってことも、もう決まっていることじゃないか。お父さんが『一緒に行こう』って言ったから決まったんだよ。どうしてそれを変えちゃうの? 

とわめき始めた。悪い兆候だった。いったん決まった予定が変更されると、ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える息子の中では、制御できないくらいの怒りが湧き上がってくる。 

 「まずい、このままだと息子は爆発してしまう」と慌てた僕は、「留守番なんかしなくていいよ。お父さんが運転するから、一緒に乗りなさい」と声をかけた。息子は、ついさっき顔を引きつらせて大声を上げたことなど忘れたようにニコリと笑い、「早く行こうよ~」と応じた。

運転席に着き、ハンドルを握ると、いきなり僕の身体はブルブルと震え始めた。エンジンもかけていないのに、ひどく緊張してきたのである。 

先ほど述べた通り、僕はここ数年、ほとんど運転というものをしていない。ごくまれに運転をしたと言っても、自宅の周辺の、道をよく知っているところを、日常的な用足しのためにちょっと動いたくらいで、とてもドライブなどと呼べるものではなかった。 

このとき、向かおうとしていた自動車整備工場は、父がいつも車検を任せているところだった。そこまでの所要時間は、車で片道30分ほど。僕がそんなに長時間(?)、知らない道の運転をするのは、十数年ぶりのことだった。 

地図と実際の道路状況が異なると、パニックになる

運転免許を持っているのに、なぜ僕はこれほど運転というものをしてこなかったのか。理由は簡単。一口で言うと、運転が超苦手だからである。 

まず、前にも述べたように( 第13回参照)、「数」が好きで好きでたまらない僕は、前を走る車やすれ違う車のナンバープレートを見ると、その数字を組み合わせて数式を作れないかとあれこれ考え始めてしまう。これは子供の頃、助手席に乗っていた頃からの癖で、運転中にやるのは危険だとわかっているのだが、どうにもやめられない。

気がつくと、ハンドルを握りながら前の車のナンバープレートを凝視していることもある。あるとき、そうやって一心不乱に前の車のナンバーを使った数式を考えていたら、対向車線から強引に右折しようとしてきた車とぶつかりそうになり、間一髪のタイミングで急ブレーキをかけたこともあった。心臓が止まりそうになった。

そして、僕を運転からさらに遠ざけているのが、「想定外のことに直面するとパニックになってしまう」という、ASDを持つ者ならではの特徴だ。特に知らない場所に行くときなど、僕は前もって地図や交通情報を細かく見て、ときにはフォトグラフィックメモリーの力も借りながらルートを細かく記憶する。それからいざ出発となるわけだが、実際に行ってみて事前の情報と違うことがあると、ハンドルを握りながら真っ青になって震え上がり、全身から汗をかき、思考が停止してしまうのだ。 

 「どうしてこの交差点に信号があるんだよ。地図には書いてなかったじゃないか!」

 「交通情報では『○○インターチェンジの先は工事中のため1車線通行』とあったけど、工事なんかやってないじゃないか。話が違うよ!」(考えてみると、工事をやっていなければ、2車線通行のままでスムーズに動けるので何の問題もないのだが、僕にとっては「想定した状況」と異なるため、苛立ちの原因になる)

などと怒鳴ってしまうこともしばしばだった。1人であればいいが、同乗者がいれば、間違いなく怖がられたり、不快に思われたりする。そして、パニックに陥っているときの僕は、周囲に人がいることを完全に忘れている。 

僕と同乗者の命が危険にさらされる

今の職場に入社して間もない頃、僕が車を運転して、ある先輩と一緒に取材に行ったことがあった。例によって事前にみっちり道路地図を見て、ルートを覚え込んで出発したのだが、途中、ある角を左折して道に入ろうとしたら、そこに侵入禁止の標識が出ていた。要は、一方通行の出口で、地図にはその道が一方通行だという記載が抜けていたのだ。 

思わぬ事態に、僕は目の前が真っ白になった。かろうじてブレーキを踏んで路肩に停車することはできたが、心臓が激しく鼓動し、何か言おうにも言葉が出てこない。不審に思ったらしい先輩が、助手席から「お前、どうかしたのか?」と聞いてきた。僕は、自分が何を言っているかもわからぬまま、とっさに叫んでいた。 

一通(一方通行)だなんて、変ですよ。おかげで計画が根本からメチャクチャにされたんです」  「おかしいですよ、この道!

 「変だと言っても、現に一通だから仕方がないじゃないか。別の道を探すしかないだろう」

 「地図には一通だなんて出てなかったんです。だからここを通る計画を立てたのに・・・。ああっ、この道、やっぱりおかしいですよ!」

 「・・・」

運転、俺がやるよ」とだけ言って、そこから先は運転を代わってくれた。僕は助手席に座り、あとは目的地まで、もっぱら対向車のナンバープレートを見て、その数字で数式を組み立てる作業に没頭した。 先輩は黙って僕の顔を覗き込んだ。その目は「おかしいのは道じゃなくて、お前の方じゃないのか?」と語っていた。しかし、心優しい彼は「お前、ここんとこ徹夜が多くてテンパってて、疲れてるんだろ? 

そんなことが何度かあった。僕はやがて、ほんの数分くらい運転するだけで、何も想定外の出来事が起こらないうちから、ひどく緊張するようになった。

追突してしまう」「今は知っているこの道が、ルートを間違えていたらどうしよう?」・・・などと、ありとあらゆる最悪の状況が頭に浮かぶようになったのだ。そのため、ハンドルを握る手のひらは、いつも汗でぐっしょりと濡れていた。  「いつ人が目の前に飛び出してくるかわからない。轢いてしまったらどうしよう?」「あの前の車が突然、急ブレーキを踏んだらどうしよう?

しかし、仕事となると、どうしても運転しなければならない場合がある。特にテレビ制作の現場で働いていると、当時の僕のような若手が運転手になって、スタッフや機材を車に乗せて取材などに行くことも多くなる。そのため、僕はあるとき職場の上司に、 

 「すみません、僕、前に運転していて軽く事故っちゃったことがあって、それがトラウマになって、実はハンドルを握るとすごい緊張と恐怖感に襲われるんです。なので、運転は勘弁してください」

と頼み込んだ。軽い事故云々はもちろん嘘であり、それを口にすることの罪悪感はあったが、背に腹は代えられなかった。僕が運転を続けたら、自分と同乗者の命を危険にさらす可能性が非常に高かったのだ。幸い、上司は僕の言い分を認めてくれ、それ以来、仕事で運転をする羽目になったことはほとんどない。 

お断りしておくが、これはあくまでも僕個人のケースである。本稿を書くに当たって医師に確認したところ、 

 「奥村さんが運転中にすぐパニックになりやすいのは、奥村さんのASDに由来する可能性が高いと考えられます。しかし、ASDを持つ人の全員が全員、運転が困難だということはありません。発達障害やASDを抱えていても、運転のうまい人はたくさんいます」

とのことだった。この点は、きちんとお伝えしておきたい。 

人の話も音楽もカーナビ音声も、すべて迷惑な雑音

しかし、仕事で運転することはなくなっても、家族や友人、知人を乗せなければならなくなるケースはときどきあった。そういうとき、慣れた道(たとえば通学路)を行く場合でも、僕の車に同乗する人には多くの災難が降りかかったらしい。「らしい」というのは、運転中の出来事が、僕の記憶から失われているケースが少なくないからである。 

僕はハンドルを握っている間、運転以外のことは一切できない。慣れた道でも、運転している間の緊張の度合いは、知らない道を走っているときと、実はそんなに変わらない。「目の前で予期せぬことが起きないだろうか・・・」と、常に不安にドキドキしながら前方を凝視しているためだ。 

だから、同乗者が助手席に乗っていても、まず会話がまったくできない。何かを話しかけられても、中身がまったく聞き取れないし、空返事すらできないのだ。運転中、耳に入る音声は、すべて僕にとって、自分を苛立たせる雑音に過ぎない。 

結果的に、話しかけてくる人を無視する形になるのだが、あまり何度も話しかけられると、「運転に集中したいんです。ちょっと黙っていてくれませんか」と切り口上で言ってしまうことがある。場合によっては、後部座席に座っている人たちに向かって、「静かにしてください」と言うこともある。

そんなとき、おそらく空気は"凍って"いるのだろうが、僕には気にしている余裕すらない。後になって「申し訳ないな」と思うのだが、仕方がない。 

助手席に座った人がラジオを聞いたり音楽をかけたりすると、これはもう、拷問以外の何物でもない。以前、親戚の女性を乗せたとき、彼女が「隆ちゃん、サザン(オールスターズ)が好きなんでしょ。さっきサザンのアルバム買ってきたから、聴こうよ」と言って、CDをかけようとした。甘いイントロが響いてきた瞬間、僕は「やめてよ!」と叫んでいた。 

彼女は「だって隆ちゃん、サザン好きだって言ったじゃん。聴こうよ聴こうよ」と繰り返した。僕は「好きは好きだけど、今は好きじゃないんだよ。やめてくれって言ってるだろ!」と、意味不明の大声を出した(意味不明というのは、その女性にとっての話で、僕自身は完全に論理的な説明のつもりなのだが)。彼女は無言のままCDを止め、その後、目的地まで一言も口をきかなかった。 

僕にとっては、カーナビも何の役にも立たない。カーナビを見ながら運転しようとすると、あっという間に混乱して、1秒たりとも続かない。事前にルートを覚え込む以外に、目的地までの道の選び方を知らないのだ。 

カーナビの指示音声の内容も理解できないから、それを聞いて、今進んでいるルートが正しいかどうかを確認することもできない。むしろ、ただうるさい、運転への集中を妨げるだけの存在になる。こんなことになるのは、「複数の音声を聞き分けることが苦手」という僕の特性( 第7回参照)に原因があるのかもしれない。

話しかけてきた母に「うるさいよ」と答える

このように不得手な「運転」の中でも、僕にはとりわけ苦手なことがある。それは後進、つまり車をバックさせることだ。 

僕が運転免許を取ったのは、大学1年生のときだった。教習所に通い始めてしばらくすると、すぐ、あることに気がついた。車に乗っていると、後方の距離感と側方(横)の距離感が、僕にはまったくつかめないのだ。 

具体的に言うと、「後ろの壁にぶつからないように、どこまで車をバックさせられるのか」と「縦列駐車をするとき、どこまで車を横の壁に近づけられるのか」が全然わからなかった。最初はともかく、何度練習しても、その感覚を把握することが一向にできなかったのだ。 

他の生徒は少しずつうまくなっていったが、僕は少しも上達せず、いつもぶつけそうになったり、こすりそうになったりして、そのたびに「なんでできないの!」と指導員に怒鳴られた。結局、この「後進が下手すぎること」が原因で、仮免テストで5回、本免許のテストでは6回も落ちてしまった。 

7回目のテストを受けて、ようやく合格することができた。しかし、不合格の回数分だけ後進や縦列駐車がうまくなっていたとは思えなかった。 

噂によると、当時、僕が通っていた教習所では、何度も何度も試験に落ち続ける生徒が出るというのは、教習所サイドにとってまずいことだったらしい。そんな事情もあって、おそらく下駄を履かせてもらったのだろうと思っている。 

だから、免許を取得したからと言って、僕は自分が運転に向いているなどとは夢にも思わなかった。しかし、その数ヵ月後、僕は1台の車と運命的な出会いをしてしまう。 

大学からの帰り道、家の最寄り駅の近くにある中古車販売店をふと覗いたら、ボロボロの国産車が目に留まった。僕を惹きつけたのは、その外見でも車種でもなく、値段だった。何と15万円という破格の安さで売られていたのだ。 

 「これなら貯金をはたけば買える!」と興奮した僕は、人生で最初で最後の衝動買いをしてしまった。たぶん、若かった僕は、「車を所有する」ということ自体に、理由はわからないものの、惹かれていたのだと思う。もちろん、車はかろうじて動くくらいの代物だったが、そんなことはどうでもよかった。

僕の車に最初に乗ってくれたのは、父と母だった。父は助手席に座るや否や、ラジオをつけて好きな野球中継を聴こうとした。僕は即座に「気が散るから消すよ」と言って、ラジオのスイッチを切ってしまった。 

後部座席に座った母は、「安い割には普通に走る車だね」とか「これで親孝行していろんなところに連れて行きなさいよ」などと話しかけてきた。僕は何も答えなかったが、母があまりにも頻繁に話しかけてくるので、「うるさいな。静かにしてよ」と言った。以後、車内には沈黙が流れた。 

最初のドライブは30分ほどで終わった。その間、僕は何度も急ブレーキをかけ、車線を変更しては隣の車とぶつかりそうになり、クラクションを何度も鳴らされ、自分でも「チクショー!」「危ねえ、バカ!」などと声を上げた(これは自分で覚えていた分だけで、実際はもっといろいろ、口汚いことを言っていただろう)。 

両親は相当怖かったようで、ときどき「うわっ」「ひゃあ」などと小さく叫んだが、僕には何も言わなかった。 

父は、家に戻って車から降りた途端、「命が縮むよ」と呟いた。母は気分が悪そうな青い顔をして、胸を手で押さえ、黙って家に入ってしまった。その後、「車で買い物に連れていってあげようか」とか「高速で親戚の○○おばさんの家に行こう」などと誘っても、両親は二度と僕の車に乗ろうとしなかった。 

行きも帰りも怒鳴り合い続けたドライブ

次に乗せたのは、大学のサークル「Numbers研究会」で親しくしていた仲間の1人、Yという男だった。どんな行動についても、事前に「分単位」で周到な計画を立て、そのせいで嫌われることもあった彼( 第15回参照)は、僕と最も似たタイプの人間だった。そんなYと、僕はなぜかドライブに行ったのだ。

ドライブは、一言で言うと悲惨なものになった。僕はYを助手席に乗せ、大学から車で1時間ほど走った場所にある公園を目指した。その往復の間、車内には、僕たち2人の怒声と罵声が延々と飛び交うことになった。 

 「完全計画主義者」のYは、この日も当然、大学から公園まで最短距離で行ける道をきっちり調べ上げていた。彼はそれを地図にピンクのマーカーで書き込み、大きな交差点など要所要所のポイントには赤ペンで丸をつけていた。

一方、僕も負けてはいなかった。やはり、大学から公園までのルートを調べ、頭に叩き込んでいた。ただし僕の場合、選んだのは「自分が一番運転しやすい道=広い道」だった。この違いが、僕たちの衝突の原因となった。 

スタートしてまもなく、Yは「次の信号、右だ」と叫んだ。僕は「いや、道は俺も調べて覚えているから大丈夫。真っ直ぐでいい」と答えた。するとYは「ここを右折しないと1時間じゃ着かないよ。右折だよ」と譲らない。 

僕がそれを無視して直進すると、Yは「勝手に遠回りのルートを行くなよ。俺は最短のを調べたんだ」と抗議してきた。そして、「ああ、イライラする。また一から調べ直さなきゃいけない!」とわめいて、慌ててガサゴソと地図を開くと、「次の次の交差点を右だ」と言い出した。僕は思わず言い返した。 

 「運転しているのは俺なんだよ。俺に任せろよ。俺が運転したいのは、広くて楽な道だから、それでルートを決めたんだよ。何か問題あるのか?」

 「いいか奥村。大切なのは、なるべく早く行くことなんだよ。1時間で公園に着いて、1時間を公園で過ごして、1時間で帰ってくる。俺はそういう計画を立て、ルートを考えた。わからないのか!」

と怒る。それに僕は「わからねえよ。勝手に計画なんか立てるなよ。そもそもドライバーの俺が、なぜお前が頭の中で考えた計画通りに運転しなきゃいけないんだよ」と怒鳴り返す・・・という具合の、不毛な罵倒合戦が延々と続いた。 

それでも最初、僕はYを無視して、自分の考えたルート通りに運転していたのだが、やがて困ったことが起こった。自分でも正しい道を行っているかどうか自信がなくなり、そんなとき、地図を見ているYから「そこ、左折だ」「次、直進しろ」などと言われると、「ひょっとしたらYの言う通りにした方がいいのではないか」という気がしてきたのだ。 

その結果、僕はYの指示に従ったり従わなかったりと、やっていることの一貫性を完全に失い、見事に道に迷うことになった。おまけにYも、想定外の道に入り込んだため、地図の中で自分たちがどこにいるのか、急にわからなくなったようだった。

そのくせ、相変わらず「右折!」「直進!」などとうるさく言ってくる。僕の苛立ちは頂点に達し、「うるせえよ!」「結局、俺たちはどこにいるんだよ?」などと何度も怒鳴り返した。そんな僕たちを乗せて、車はあてもなくさまよい続けていた。 

結局、目的地の公園に到着するのに3時間もかかった。想定していた時間の3倍以上である。僕は見物などせず、さっさと帰りたかったが、Yは「1時間見て回る予定だから」と言って園内の散策を始めた。あまりにも疲れ切っていた僕は、入口近くのベンチに座って、うとうと居眠りしていた。 

ぴったり60分後に戻ってきたYを車に乗せ、僕は帰途についた。情けないことに、僕たちは帰りも行きと同じように道に迷い、同じように怒声と罵声を浴びせ合い、やはり3時間近くかかって大学に着いた。 

車から降りたYは、一言、「もう、お前の車には絶対に乗らないからな」と吐き捨てて帰っていった。僕は言い返す気力もなかったが、内心、「俺こそ二度とお前なんかを乗せるものか」と毒づいていた。 

この事件(?)以降、学生時代を通じて、僕は他人をほとんど誰も車に乗せていない。卒業と同時に、このポンコツ車はあっさり廃車にした。手放すとき、「この車で一度も事故を起こさなくて本当によかった」と思ってホッとしたのをよく覚えている。 

「お父さん、運転が一番下手だね」

このように、学生時代も社会人になってからも、運転に良い思い出がほとんどない僕が、やむを得ない成り行きとはいえ、父の車を車検に出すために、十数年ぶりに30分間の運転をすることになったのだ。これを引き受けたのは、おそらく昔の悲惨な運転の記憶が薄れていたことが最大の要因だったのかもしれない。もちろん、「妻と息子と久しぶりにドライブしてみたい」と思っていたのも事実だったが。 

助手席の人間を怒鳴るのは避けたかったので、妻も息子も後部座席に座らせた。そして、「運転中のお父さんに絶対に話しかけるなよ。絶対にだよ」と言い聞かせると、極度の緊張に襲われながらエンジンをかけ、車を発進させた。不測の事態を恐れて前方を睨みながら車を走らせているうちに、思ったよりもスムーズに運転できているような気がしてきた。 

5分ほど走ると、赤信号にぶつかった。青になるのを待ちながら、バックミラーで後部座席を確認してみると、妻と息子は明らかにこわばった表情をしていた。妻はうつむいて右手の親指と中指で両方のこめかみを押さえ、ついさっきまであんなにはしゃいでいた息子は、眉を八の字にしている。予想外のことに直面して、不愉快になっているときの表情だ。 

僕が「どうした?」と声をかけると、息子は「お父さん、絶対に話しかけるなって言ったじゃん」と口をとがらせる。僕は「いいから、思ったことを言ってごらん」と応じて、路肩に車を寄せて停車すると、サイドブレーキを引いた。すると息子が口を開いた。

 「お父さん、運転が下手だね。僕が今まで乗った車を運転した人の中で、一番下手だよ。ずっとガードレールすれすれに走っていて、横がこすれそうで本当に怖かった。何度も急ブレーキをかけたり、ぎっこんばったん、車が前後ろに揺れたり・・・。

あとお父さん、運転中の独り言がうるさいよ。ふだんから独り言が多いけど、運転中はもっと多い。『バカ』とか汚い言葉を言ったり、『ここを曲がる』とか当たり前のことを言ったりして、なんで他の人みたいに黙って運転できないの?」 

息子に断定され、僕は何も言えずに黙り込んでしまった。そんな僕に、今度は妻が追い打ちをかける。 

 「前に何度かあなたの運転する車に乗って、下手だなと思ったのは覚えてるけど、久しぶりにまた乗ってみて、改めて『これはひどい』と思った。普通なら私が代わってもいいんだけど、なんか気分が悪くなって運転できないの。

あとはお願いだから、超安全運転で行ってね。スピードなんか出さなくていいから」 

僕は悲しくてたまらなくなったが、おそらく正論なのでどうしようもない。それから30分足らず、僕は「慎重に慎重に」「緊張しすぎるな」と自分に言い聞かせながら、超ノロノロ運転で車を走らせ、何とか自動車整備工場に着いた。 

その瞬間の、妻と息子の放心したような表情が忘れられない。僕も腰が抜けたようになって、その場にへたり込んでしまった。 

翌日の深夜、仕事を終えて自宅に戻った僕は、リビングルームのテーブルにA4版の1枚の紙が置かれているのに気がついた。一番上には一行、息子の筆跡で「お父さんへ」と大きく書かれている。さらに小さい字で、メッセージがこう続いていた。 

 「お父さん、昨日のドライブ、ものすごくこわかったけど、お父さんが運転する車に乗れてうれしかったよ。またドライブにつれて行ってね。でも、こんどは、予定どおりの時間で着いてね」

これを読んで、僕の胸には、何とも言えない幸福感と息子へのいとおしさがこみ上げてきた。「そうか。俺ももう一度、教習所に通ってみようか。運転の練習をして、また家族でドライブしたいな」と思ったくらいだった。下手ではあっても、息子を喜ばせるドライブができたのは父親として嬉しいことだった。 

ふと、息子のメッセージを記した紙の下に、二枚目の紙があることに気がついた。それを見て、僕はびっくりした。妻の字で「いくら愛するわが子の頼みでも、もう二度と車の運転をしてはダメです。妻としても母としても許せません」と書かれていたのだ。僕は溜め息をついて、「まあ、その通りだよな・・・」とつぶやくしかなかった。 

〈次回に続く〉

※この連載は原則として毎週土曜日に掲載されます。