2013年01月05日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第11回】
「自分は嫌われている」と初めて知った日の衝撃

「ガン無視」を続ける息子の異様な行動

この正月、年明けも早々に、僕は息子が取ったある行動に驚かされることになった。 

1月2日、僕の実家を訪ねるため、息子と電車に乗っていたときのことだ。車内は、混雑しているというほどではなかったが、晴れ着を着た若い女性たちや、有名なお寺や神社に初詣に行くらしい家族連れなどで席が埋まっていた。やむなく僕たちは並んで立ち、僕は左手で吊革に掴まって、右手で息子の手を握っていた。 

すると突然、斜め前の座席に座っていた、息子と同年代くらいの可愛い男の子がハッとしたように視線を上げ、こちらを見た。そして、息子に声をかけてきた。 

 「よう、奥村!」

男の子はニコニコして息子を見つめている。僕は隣に立つ息子に「学校の友達?」と聞いてみた。しかし、次の瞬間、息子は思わぬ行動を取った。 

男の子に横目でチラッと一瞥をくれただけで、後は視線を正面に戻してしまったのである。顔は完全に無表情。男の子に返事もしない。その後も、男の子は何度か、「奥村、どこに行くの?」などと声をかけてきたが、息子は一言も発しなかった。しまいには、プイッと横を向いてしまったのである。 

いわゆる「ガン無視」である。気の良さそうな男の子は、かわいそうに、はっきり動揺していた。それでも、「あれ、お、奥村だよね・・・」などと口ごもりながら、しきりに息子に声をかけてきた。息子はそれでも男の子の存在を黙殺し続けた。明らかに異様だった。 

そんな空気に耐えられなくなったのは僕の方だった。息子の代わりに、男の子に「うちの子と学校で同じクラスなのかな?」と話しかけてみた。すると男の子は「いいえ、水泳クラブで一緒なんです」と答え、自分の名前をハキハキとした口調で教えてくれた。小学生なのにきちんと自己紹介ができることに、僕はちょっと感心した。 

そういえば、息子は最近、水泳クラブに行き始めたと言っていたな・・・と僕は思い出した。そのクラブでできた友達(?)なのだろう。とてもしっかりした、感じの良い子供だった。きっと親御さんもきちんとした人たちなのだろうな、と僕は想像した。

いつもと違う呼び方をされたら、返事なんかしない

そんなふうに、自分の父親とクラブ仲間が脇で会話をしているのに、息子は横を向いたままだ。男の子とは目も合わせたくないといった雰囲気である。さすがに僕もむっとして、息子を叱ろうとしたが、ハッとして思いとどまった。 

息子のただならぬ様子を見て、僕はふと「これはASD(自閉症スペクトラム障害)に関わる症状に違いない」と気づいたのである。そのため、息子を叱責することも、男の子と話をするように促すこともしなかった。男の子が電車を降りるまで、ずっと僕が彼の話し相手になり続けた。 

やがて電車は、男の子が降りる駅に着いた。彼は息子に「じゃあな、奥村」と健気にも挨拶したが、息子に引き続き完全に無視され、悲しそうな表情で下車していった。 

男の子が見えなくなった後、僕は息子に尋ねてみた。 

喧嘩でもしたのか?」 水泳クラブの友達なんだろう?  「どうしてあの子に話しかけられても返事をしなかったんだ?

息子は表情を変えずに答えた。 

 「だって僕、水泳クラブで、『奥村』って言われたことがないんだもん。友達はみんな、いつも僕を『オク』って呼んでるんだよ」

僕は一瞬、息子の言っていることの意味がわからず、首をひねった。僕も息子と同じASDなのに、なぜいつも、彼の言葉の真意がすぐに理解できないのだろう・・・と少し悲しく思いながら。 

それでも、息子の思惑をあれこれ推測してみた。水泳クラブで、友達はいつも自分を「オク」と呼ぶ。だから、それ以外の呼ばれ方をした場合は、本名であっても、自分を呼んだことにはならない---。息子なりに、そういうルールを作ってしまっているのだろうか。 

僕が「水泳クラブでは、自分の呼び方を『オク』だけだと決めているのか?」と尋ねると、息子は小さく頷いた。「そういうこと。僕は水泳クラブで『オク』って呼ばれているんだから、クラブの人から『奥村』って呼ばれても困るよ。返事なんかしたくない。あのクラブでは、僕は絶対に『オク』なんだ」と答えるのだった。 

僕は驚きつつも、息子を諭そうと試みた。 

 「いいかい、君の名前は『奥村』なんだよ。お父さん、お祖父さん、さらにその先祖から伝わってきた立派な苗字じゃないか。水泳クラブの仲間に『オク』と呼ばれているのはわかるけど、『奥村』と呼ばれた場合も返事をしなきゃいけない。そうしないと、友達は無視されたと思って悲しくなってしまうよ」

こんなふうに説明しても、どうしても息子は納得できないようだった。「水泳クラブでは僕は『オク』なんだから、あいつだって、いつもみたいにそう呼べばいいじゃないか。今日だけ別の呼び方をするなんて、訳がわかなないよ」と、逆に食ってかかる始末だった。 

僕は息子への説得を諦めた。改めて、発達障害の人間が、発達障害と縁のない人間とコミュニケーションを取ることの難しさに思い至った。そして、同じ発達障害を持つ僕自身が、曲がりなりにも他人とコミュニケーションを取れるようになるまでの無数の苦い経験と試行錯誤を、いつか直接、息子に伝えなければならない---と痛切に実感したのである。 

自分の言動がなぜ他人の気に障るのか、まったくわからない

これまでも述べてきた通り、僕は子供の頃から、他人の気持ちを忖度(そんたく)したり、場の空気を読んだりすることができず、周囲との軋轢(あつれき)が絶えなかった。特に小学校時代にそれが顕著だった。 

そんな僕が、何とか他人とコミュニケーションを取れるようになったのには、一つのきっかけがあった。それは、高校時代の些細な出来事だった。いや、「些細な」というのは、あくまで客観的に見た場合で、僕にとってはあんなに重大かつ深刻な出来事はなかった。大きな衝撃と共に自分のコミュニケーション能力の欠如に気づき、それを克服するために、一人、努力を始めたのである。 

すると前方に、同じクラスの生徒が2人いるのに気がついた。SとYという、どちらも温和で楽しい性格で、同級生たちには概ね好かれている仲良しコンビだった。僕も、彼らと特別親しい訳ではなく、教室でときどき雑談するくらいだったが、何となく好感を持っていた。 

僕は彼らに近づいて話しかけようと思い、歩を速めた。2人は僕に気がついていない。いよいよ追いついて、「よう」と声をかけようとしたとき、彼らが話す声が耳に聞こえてきた。Sが腹立たしそうに他人をボロクソに酷評している。 

 「いつも気に障ることばかり言いやがって、本当にむかつくよ。これからは、あいつが話しかけてきても無視してやろうぜ」

 「そうだな。みんな頭に来てるしさ。俺らが無視すれば、あの野郎ももう話しかけてこねえだろう」

いぶかしく思っていると、Sが再び口を開いた。 Yも頷きながら同調する。温厚な2人がここまでネガティブな感情をあらわにするのは珍しい。彼らをそこまで怒らせているのは誰だろう? 

 「とにかく許せねえな、奥村のクソ野郎はよ。俺は本当にあいつが嫌いだ」

 「あいつを嫌ってる奴、すげえ多いぜ」

2人が延々と悪口を言っていたのは、僕のことだった。僕はその場で歩みを止め、2人に気づかれぬよう、とっさに近くの脇道に入ってしゃがみこんでしまった。再び立ち上がったのは30分くらい経ってからだったろうか。バス停に行くと、SとYは当然ながら前のバスに乗って帰った後で、姿が見えなかった。 

前回まで紹介してきたように、僕は小学校時代、先生からかなりひどい扱いを受けていたにもかかわらず、「自分が嫌われている」と認識したことが一度もなかった。だからこそ、高校1年のときに偶然聞いたSとYの発言は、大きなショックだった。僕はこのとき初めて、「自分は周囲から嫌われている」ということを知ったのである。 

当然、ひどく落ち込んだ。でも、どうすればいいのかわからなかった。なぜなら、僕の言動の中で、いったい何が彼らの(そして他の生徒たちの)気に障ったのか、皆目見当がつかなかったのだから。 

僕はその晩、「なぜそんなに嫌われているのだろう?」と自問自答しながら、鉛のような重い気持ちで、何時間もベッドに横たわって空中を見ていた。夜中になっても、眠気は一向に訪れなかった。 

「他人を喜ばせる言動を学ぼう」と決意

翌日から、とりあえず、「自分は嫌われているのだ」と認識した上で学校生活を送ってみることにした。すると、思い当たる節がいくつも出てきた。仲の良い友達だと思っていたNは、しばらく前から何だかよそよそしい。そもそも一学期の途中から、僕は学校から帰るとき、いつも一人だった。 

夏休みに、クラスメートからどこかに遊びに行こうと誘われたこともなかった。僕自身は、事前に立てた勉強やトレーニングの計画を消化するのに懸命で気がつかなかったが・・・。 

そう、僕は嫌われ、孤立していたのだ。その原因は、僕の言動が他の同級生たちを怒らせていることにあるようだった。 

その後しばらく、学校で一人ぼっちの時間を過ごしながら、「どうすればこの状況を打開できるのか?」と考え続けた。最大の問題は、自分の言動のどこが他人を傷つけているのか、さっぱりわからないことだった。それが把握できない限り、言動を直しようもない。 

そこで僕は、ある決心をした。同級生、特に人気者になっていたクラスメートの行動を観察して、「どういう言動が他人を不愉快にさせず、喜ばせるのか」を学習しようと考えたのである。これは我ながら良いアイディアだと思えた。 

観察し、学ぶべき対象として、野球部に所属するOに白羽の矢を立てた。Oの周りにはいつも友達が大勢いて、楽しそうにゲラゲラと談笑していた。かと言って、軽すぎる雰囲気も、不良っぽい雰囲気もなかった。Oを悪く言う同級生は一人もおらず、よく「Oっていい奴だよな」と評されていた。僕にとって、嫌われ者から卒業するのに、これ以上の"先生"はいなかった。 

僕はその後、数ヵ月にわたってOの言動を注視し、そこから学び続けた。Oを中心に級友の輪ができているときは、その輪に加わり、交わされる会話を懸命に聞き取った。ただし、自分からは発言しなかった(ここでまた嫌われたら、今度こそ元も子もないと思ったのだ)。Oが発する言葉と、その言葉に同級生がどんな反応をしているのかが知りたくてたまらなかった。バカバカしいと思われるかもしれないが、僕は必死だった。 

ルールは覚えたが、人の感情がわかるようになったわけではない

まもなく、Oの言動から、対人関係を良好に保つためには絶対に欠かせない、あるルールを見つけた。それは、普通の人なら当たり前かもしれないが、僕のようなASDの人間には、理解するのがとても難しいことだった。 

そのルールとは「他人とのコミュニケーションにおいては、決して本当のことを言ってはいけない場合がある」というものである。 

相手が自分に対して善意で何かをしてくれたにもかかわらず、「そんなことをしてもらうより、本当は別のことをしてくれた方がよかった」などと平気で言ってしまうのが、僕のようなASDの人間である。 

たとえば、僕のために料理を作ってくれた人に対して、「あまりおいしくないね。もっとあっさりした味つけにしてくれた方がよかった」などと言ってしまう。そうすると、相手は「せっかく作ってあげたのに何事だ」と腹を立てる。 

そういう場合、僕はなぜ正直に感想を言って怒られるのか、さっぱりわからなかった。でも、Oの言動を観察するうちに、僕は初めて「本当の思いを口に出すと、他人に嫌な思いをさせることがある。そういうときは、本当のことは言わない方がいい」という鉄則を学習することができた。 

他人の言動に対する評価や、自分の成し遂げたことに対する自己評価も、ほとんどの場合、本当の感想は言わない方がいいようだった。他人が自分のためにしてくれたことには、どんなに不満があっても、「ありがとう」と感謝の言葉だけを言っておけばいい。他人の言動に対しては、そもそも評価などしなければいい。そして、自分の成し遂げたことについては、どんな誇らしくても、多くの場合、自分から口に出さぬ方が無難---。そんなことを、僕はOのさわやかな言動から教えてもらったのである。 

それ以来、僕は表面上、自分の言動を百八十度、逆の方向に変えてみた。他人から話しかけられれば、どんな内容であっても、適当に相槌を打ちながら肯定しておく。自分から他人に話しかけることは最小限にする。口を開くと、とんでもないことを言ってしまいそうで、怖くなってきたのだ。同時に、Oから学んだルールに照らすと、自分がどんなにひどいことばかり言ってきたかがわかって、初めて愕然とした。 

でも、結局のところ、僕はOの言動を真似していただけで、本質的に他人の感情を理解できるようになった訳ではない。本当の自分を隠し、嫌われないようにひっそりと過ごすテクニックを覚えたに過ぎない。だから、「演じること」に慣れるまでは、学校から帰ると、心身にどっと疲労が押し寄せてくるのだった。 

今後も「演技」を続けていくしかない

逆に言うと、家に帰って家族の前にいる間だけ、本当の僕に戻れた。「勉強でわからない箇所がある」と嘆く弟に、「なぜこんな簡単なことがわからないんだ?」と遠慮なく聞いた。母には、「僕は本当のことを言うから学校で嫌われてしまったんだ」と、学校生活では決して明かせない本音を聞いてもらった。連日、1時間以上にわたって、速射砲のように母に本音をぶちまけた。 

前述したように、母は、僕のASD的な行動には極めて寛容だった。いつだって、うんうんと頷きながら、僕の話を辛抱強く聞いてくれた。あのとき、母にまで自分の言動を否定されていたら、僕は完全に内にこもってしまったに違いない。自室に引きこもり、誰とも会話をすることを拒否し、社会生活を営めない人間になっていた可能性が高い。今振り返ると、つくづくそう思う。 

そんな生活を送るようになって数ヵ月が経った。もう高校1年の三学期も終わろうとしていた。 

下校の帰り道、校門を出てバス停に向かって歩いていると、「おい、奥村」と後ろから話しかけられた。見ると、SとYの2人だった。夏休み明けのあの日とは逆のパターンだ。Sは笑いながらこう言った。 

 「お前、ずいぶん変わったな。本当はいい奴だったんだな」

僕も苦笑して「そうかな」と答えたが、心の中では「表面的な言動を変えるだけで、他人からの印象はこんなに変わるのか」と少なからず驚いていた。Sはこう続けた。 

そうしたらお前、ありがとうの一言もなしに、『このノート、字は汚くて読みにくいし、整理されてないし、授業がわかってないんじゃないか』って俺に言ったんだぜ。あのときは頭にきたけどさ、でも最近はお前もちゃんと礼が言えるようになってよかったよ。別人みたいだ。成長したんだな」  「一学期の数学の授業で、お前が気分悪くなって、保健室で寝ていたことがあっただろ。あのとき、俺のノートをコピーさせてやったのを覚えてるか?

続けてYも口を開いた。彼は、人気のラジオ番組を録音したカセットテープを僕に貸したら、やはり礼の言葉もなく、「音質が悪すぎるよ。すげえ古い安物で録音しているじゃねえの?」と言われて激怒したそうだ。僕は頭を掻きながら、「いやあ、つまらないことを言って悪かった」と2人に謝るしかなかった。そして心の中では、「今後も演じていくしかない」と覚悟を決めていた。 

結局、高校1年でのこのときの経験が、僕がテレビ制作マンを目指すきっかけとなったのだが、そのいきさつについては回を改めて述べていきたい。当時はただ、「これで何とか学校生活を続けていけるかもしれない」という安堵感に包まれていたのである。 

 

2013年01月12日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第12回】
新学期の初めに、必ず体調が悪化する理由

頭痛、発熱、吐き気を繰り返して

ここ数日、息子は朝、ベッドの中からなかなか出てこない。登校時間が近づいても、頭から布団をかぶってじっとしている。僕が様子を見にいくと、顔もろくに布団から出さず、モゴモゴした声で「今日は身体の調子が悪いんだよぉ・・・」などと訴えてくる。こんなことがしばらく続いているのだ。 

息子の"泣き言"はさまざまだ。「頭が痛いよ」と言うこともあれば、「熱があると思うんだ」とか「寒気がする」と言い出す日もある。今朝は「お腹がむかむかして気持ち悪い。吐くかも」だった。 

しかし僕は、息子のこの種のセリフに一切取り合わない。冷たいようだが、心を鬼にして、相手にしないことに決めている。なぜなら、息子がそう訴える理由を、僕は知っているからだ。 

冬休みが終わり、三学期が始まったこと。ズバリ、それしかない。 

息子は、小学校に入学して以来、同じことをずっと繰り返してきた。夏休みでも、春休みでも、あるいはゴールデンウィークでも、長い休暇の後は、必ず身体が不調だと言い出すのだ。登校前になると、頭が痛くなったり、気分が悪くなったり・・・。 

こう聞くと、「どうせ仮病だろう」と思う人もいるかもしれないが、そうではない。以前、新学年が始まって3日目に「熱があるみたい」と言い出したので、実際に体温を計ってみたら38度を超えていた、というケースもあった。もちろん、誇張していた日もあるかもしれないが、頭痛も寒気も吐き気も、本当に起こっていたと僕は考えている。 

息子の「長い休み明けの体調悪化」は、小学校に入学した頃からずっと続いている。一年生の頃は、「学校でいじめに遭っているのではないか?」と疑い、担任の先生にも相談してみたが、どう調べてもいじめの事実はなかったし、本人もきっぱりと否定した。 

息子は幸い、これまでクラス担任になった先生たちと、相性が悪いということもなかった。付いていけない授業がある訳でもない。ただただ長期休暇明けだけは、学校に行くのがつらく、しんどくてたまらなくなり、同時に、身体の具合も悪化してしまうのだ。 

 

人間関係を構築するストレス、「いい人」を演じる疲れ・・・

前にも述べたように、ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える息子と僕には、共通して苦手なことがいくつかある。その一つが、「家族以外の他者との間に人間関係を構築すること」だ。 

だから息子にとって、学校という場は居心地のいい場所であるはずがない。右を見ても左を見ても、人間関係を築くことの難しい他人ばかり。その中で毎日、数時間も一人で過ごすというのは、息子にとって、ものすごく大きなストレスになる。 

なぜそう断言できるかというと、僕がそうだったからだ。息子の気持ちは、本当によく理解できる。僕も、大勢の他人と毎日、同じ空間で何時間も過ごすことが、基本的に苦痛だった。 

そして、その重圧から、やはり長期の休み明けにはしばしば体調を崩した。発熱こそ少なかったが、頭痛や吐き気、だるさなどはよくあった。だから、息子が仮病を使っていないということがわかるのだ。 

僕の場合、小学校時代はそれほど、身体に「休み明けの異変」は生じなかった。むしろ中学、高校時代になってから、心身が息子とそっくりな状態に陥ったことが何度もあった。 

前回、高校1年生のときに、初めて「自分は周囲から嫌われている」と知って衝撃を受けたことを述べた。そして、必死で「嫌われ者から脱却しよう」として、「いい奴」と言われていたクラスメートを観察し、彼から「学習」し、その結果、かろうじて「いい人」を演じられるようになった経験も---。

そうやって、ある程度は「いい人」のふりをしながら学校生活を送るようになって間もない、高校1年の冬休み明けのことだった。そう、20年以上前の、ちょうど今の時期だ。正月気分も終わり、再び学校が始まる三学期の初めの日。 

僕は、今の息子と同じように、その日の朝、布団から起き上がることができなくなってしまった。ずきずきと猛烈な頭痛がしてきて、起き上がるどころか、ちょっと動いても頭が割れそうになったのだ。 

もちろん、その根底には、「学校に行くのが嫌で嫌でたまらない」という心理があるのは間違いなかった。そのフラストレーションが猛烈な頭痛を引き起こしたに違いない。それは、自分でも何となくわかっていた。 

僕は、学校で別にいじめを受けていた訳ではないし、先生に嫌われていたということもない。それどころか、冬休み前には、「本当のことでも絶対に口にしてはいけない場合がある」という人間関係の鉄則を"発見"したおかげで、同級生とのコミュニケーションに劇的な改善の兆しが見えていた。

にもかかわらず、僕は新学期の始まりの日に、やがてのしかかってくるのが間違いないストレスを思って、ひどい頭痛に襲われたのである。 

 

親戚の集まりでの、座を凍らせるような発言

その冬休みの間、僕は「本当の自分」でいることができた。 

僕はもともと、自分のことを話し出すと止まらなくなるタイプで、子供の頃から年末年始は、入れ替わり立ち替わりやってくる親戚の人たちを相手に、喋り倒すのが常だった。その年末年始も同じだった。僕は、親戚の人たちとの会話の中で、同級生なら決して看過してくれそうにない無神経なことや、座を凍らせるようなことを、何度も言っていたと思う。 

覚えているのは、上品な和菓子をお土産に持ってきた叔母に向かって、「僕、和菓子って嫌いなんだよね。おいしいと思ったことがないんだよ。ケーキの方が好きなんだけど」と言ったところ、叔母が急に無表情になったこと。 

また、「歴史の年号が全然暗記できないんだよ」と勉強の悩みを打ち明けた中学生の従弟に、「俺も中学のとき、隣の席に座っていた奴がまったく年号を暗記できなくてさ、みんなに『バカ』と呼ばれて笑われてたよ。俺もそいつのことをバカだと思ってた」と答えたことも覚えている。 

そのときの従弟の表情は忘れてしまったが、周りが誰も僕の発言をフォローして会話をつなげてくれなかったので、「何か不自然だな」と少しいぶかしく思った記憶がある。今にして思うと、座は凍っていたのかもしれない。叔母も従弟も、内心では腸が煮えくり返っていたのかもしれない。 

でも、表面上は皆、受け流してくれた(ように見えた)。だから僕は何のストレスも感じることなく、ひたすら自分の思いの丈を喋り続けることができた。本当の自分に戻れた解放感でいっぱいだった。 

 

しかし、冬休みの終わりと共に、僕が僕でいられる時間は終わってしまう。再び「いい人」を演じる学校生活に戻らなければならない。そう考えていたら、気分がどんどん鬱陶しくなり、頭が重くなって、布団から起き上がれなくなってしまったのだ。気がつくと、ズキン、ズキンと頭痛が始まり、痛みは少しずつ増していった。

心を鬼にして、息子の訴えをあえて無視

このとき、僕は結局、どうしたかというと---。 

 実は、何もしなかった。正確に言うと、何もできなかった。 

家族の誰一人として、僕の苦しみに取り合ってくれなかったからである。「頭が痛くてたまらないんだ」と訴えても、両親も弟も一言、「ふ~ん」で終わり。いつもは僕の発達障害に特有の言動に寛容な母も、このときは冷淡だった。 

 「じゃあ、学校を休んだら」などと言ってくれないのはもちろん、心配すらしてくれる様子もなく、淡々と朝食を食べていた。僕も、さすがに高校生になると、「学校に行きたくない」とストレートに言うのが何だか幼く思え、情けなくて、口に出せなかった。

そのため、僕は割れるような頭を抱えながら、ゆっくりと制服に着替え、グズグズと朝食を食べて、沈んだ気持ちで登校した。学校に着いたのはギリギリの時間で、遅刻はしなかった。 

ちなみに僕にとって、時間に遅れるというのは、身体を切り刻まれるのと同じくらい苦しいことだった。だから、絶対に遅刻だけはするつもりはなかった。「いい人を演じる」のもストレスがかかるが、遅刻の方がずっとつらい。遅刻するくらいなら、いい人を演じた方がましなのだ。 

僕は結局、三学期もその日から毎日、本当に心に思ったことはなるべく口に出さないように努め、学校で「いい人」のふりをし始めた。残酷な本心をポロリと口から出さぬよう、得意のマシンガントークを炸裂させぬよう、常に神経を張り巡らせていなければならず、非常に疲れた。 

しかし、一週間ほど経つと、そんな毎日にも、身体も心もいつのまにか慣れてきた。そして、春休みまでの2ヵ月半、学校生活を何とか送ることができた。その後、僕はこの「休み明けに体調が悪化する→再び学校生活に慣れて体調が回復し、いい人の演技を続ける」というパターンを繰り返して、高校の3年間を何とか乗り切った。 

だから、息子が今、布団の中からグズグズと窮状を訴えても、僕は心を鬼にして何も反応しない。放っておくだけだ。下手に相手をすると、さらに息子はおかしくなる。それを僕は経験で知っているのだ。

放っておけば、息子は必ず、不満そうな表情を浮かべながらも食卓につき、そのままいつもと変わらぬ量を食べ、渋々と登校の準備をし、暗い声で「行ってきます」と囁くように言って、登校していく。その日も実際、そうなった。 

出て行く息子に、僕は「行ってらっしゃい」と言って玄関から送り出した。その日、ようやく初めて彼にかけた言葉だ。そして玄関のドアを再びそっと開け、トボトボと歩いて学校に向かう息子の背中に、「頑張れよ」と心の中でエールを送った。 

仮病ではなく、本当に発熱してしまう

こういうとき、一番の禁物が、布団の中から出てこない息子に「頭痛なんて大したことはないんだから、学校に行きなさい」などと命じたり、叱責したりすることだ。以前、これをやって、大変なことになる。 

お父さん、僕が死んだっていいの?」と逆ギレし、後は僕は妻が何を言っても、そのまま布団から出てこようとしなかった。結局、本当に学校を休んでしまったのである。 息子は「頭がものすごく痛いんだよ! 

 「頭痛って、頭のどの辺がどのくらい痛いの?」などと聞くのは、さらによくない。そう言われると、息子は「もうちょっと具合が悪くなれば、学校を休めるかもしれない」と思い込む。すると、実際に身体の別の場所が痛くなったり、熱を出したりするのだ。

繰り返すが、これは仮病ではなく、本当に体調が悪化するのである。僕にも同じような経験があるからよくわかる。東洋医学で「心の状態と身体の健康は分けられない」というが、その通りだと思う。 

友人の娘に、やはり発達障害の小学生がいる。彼女は「嫌な授業」があるとき、よく発熱するのだという。それも授業直前、体温がなぜか決まって37度5分になり、赤い顔をして保健室に駆け込むというのだ。 

友人によれば、その子が「嫌だ」と言う授業には、いくつかの条件があるらしい。「宿題を忘れた」「忘れ物をした」「先生が口うるさい」「できなかったテストが返ってくる」・・・などなど。つまり、先生から注意されたり叱られたりしそうな(本人がそう思い込んでいるだけの可能性が高い)授業だということだ。そういう授業がある日、彼女はよく発熱してしまう。 

そして、彼女の場合も仮病ではない(発熱だから、体温を計れば仮病でないことはすぐわかる)。嫌な授業がある日になると、朝から「調子が悪い」などと言って熱を出して休んだり、あるいは登校しても、授業の前に熱を出す。 

友人は「仮病なら叱りつけるところなんだが、本当に熱が出てしまうんだ。ひょっとしたら、娘は熱を自由自在に出せるのかもしれない」と真顔で語っていた。 

普通の人には通じる理屈が、なぜか通じない

こうした現象も、医師によると、やはり発達障害に独特のものらしい。しかし、息子の行動については、かつて医師から強く忠告されたことがある。「息子さんがASDでも、決して嫌なことから逃げることを覚えさせてはいけません」と。 

特に、「嫌なこと=対人関係」である場合は、絶対に逃げさせてはいけないそうだ。僕の息子や友人の娘ように、普通の人なら「仕方がない」と思うくらいの人間関係の軋轢(あつれき)も苦しく感じるタイプであれば、なおさらだという。 

確かに、その程度のレベルの「嫌なこと」から逃げる癖をつけてしまうと、学生時代なら登校拒否になりやすい。社会人になってからは、少しでも合わない同僚や上司に遭遇したり、細かいミスを犯したりするたびに、出社できなくなってしまう。 

医師は具体的な事例を挙げて、注意すべき点を教えてくれた。たとえば、以下のようなケースである。 

ASDを持つ小学生の男の子が、道場に通って空手を習い始めた。きちんとした指導で評判の高い道場だった。そこの師範も、空手の技術が優れているだけでなく、人柄も穏やかで温かかったので、道場生やその父兄から慕われていた。 

男の子には天性の才能とセンスがあり、短期間でどんどん上達していった。突きも蹴りも教えるとすぐに覚え、軽々と使いこなすようになった。技の切れも身のこなしも同年代の中では抜群で、少年大会に出れば上位入賞は間違いなしと思われた。師範も、彼の将来性に大きな期待を寄せた。 

そのため、男の子が小学校高学年になった頃から、師範は指導法を変えた。それまでは自由放任でのびのびとやらせていたのが、一転して細かい点にチェックを入れ始め、ミスがあると大きな声で厳しく注意するようになったのだ。 

ある日、その子は明らかに稽古で手を抜いていた。上段蹴りの練習で、途中からエネルギーをセーブして、きちんと足を上げなかったのだ。師範はそれを見逃さず、「ちゃんと力と気合を入れて蹴りなさい!」と怒鳴った。 

すると次の日、男の子は稽古に来なかった。彼は親に「先生は僕のことが嫌いなんだ。だから練習中にひどいことを言うんだよ。僕はもう道場なんか行きたくない」と訴えて泣いていたのだ。 

この話の中で、医師が「注意すべき点」として指摘したのが、子供が「師範の厳しい指導」を「自分を嫌いだから」という理由に勝手に結びつけ、完全にそう思い込んでいる点である。ASDを抱える子供には「期待しているからこそ厳しい指導をする」といった、普通の人なら言わずもがなの理屈が通じないことが多いそうだ。そして勝手に、「自分が嫌いだから厳しくするのだ」という理屈をつけてしまうのだという。 

「君が好きだから、君に厳しくしたんだ」と論理的な説明を

実際、息子にもそうした傾向は非常に強い。妻が「この前の算数のテストで点が悪かったんだから、算数の問題集を一冊、最後までやりなさい」と言うと、 

お母さんは僕が嫌いだからそんなことを言うんだ」  「算数でも、僕には得意なところと得意じゃないところがあるじゃないか。一冊全部というと、得意なところもまたやれってことでしょ。そんなの時間の無駄だよ。どうしてそんなことをさせようとするの?

などと反応することもある。 

このように「空手の先生は僕が嫌いからひどいことを言うんだ」という事態になった場合、大切なのは論理性である。親はASDを抱える子供に対し、師範の意図を、一から論理的に伝えなければならないのだ。医師によると、親は以下のように説明し、その後も子供を道場に通わせるべきだという。 

 「君には空手の才能がある。先生はそれに気がついていて、君に非常に期待しているんだ。もっと指導をすれば、君はさらにうまくなると信じているし、実際、うまくなる。少年大会で優勝する可能性もある。だから先生は、君の実力をさらに伸ばしたくて仕方がない。

そう考えているときに、君が練習で手を抜いたように見えたから、先生はきちんと注意したんだよ。もし、君に才能がないのなら、仮に適当に手を抜いて練習していても、決して注意なんかしない。つまり先生は、君を『嫌い』どころか『大好き』なんだ。それで厳しくんだよ。だから、これからも道場に通って練習しよう」 

逆にこのとき、一番避けなければいけないのは、子供の勝手な思い込みを親が鵜呑みにして、道場を辞めさせてしまうことだ。その結果、「なるほど、こういう理屈を言えば、嫌なことや厳しいことから逃げられる」と子供が"学習"してしまう。以後、少しでも我慢しなければならないような事態に直面すると、「○○さんが僕を嫌っているから」という具合に、人間関係を理由に逃げてしまう癖がつくという。 

ただし、これにも注意が必要だ。本当に深刻な問題がある場合は、もちろん、そこから逃がしてあげる必要がある(たとえば、ひどいいじめに遭っているとか、本当に先生に嫌われて毎日罵倒されている場合など)。ASDを抱える子供を持つ親には、その違いを見極めることが、常に求められている。実際、僕も、ほとんど毎日のように、その判断を迫られている。 

・・・と偉そうなことを書いていた矢先、今朝も息子がやはり「お父さん、頭が痛いよ~」と言いながら、パソコンを打つ僕の近くにやってきた。訴えかけるような目でこちらを見つめ、今日はご丁寧にコホンコホンと可愛い咳までしている。ついさっきまですやすや寝ていたのに、「なんか熱があるかもしれない」と来た。本当かよ? 

でも、本当に発熱していたらどうしよう・・・。 熱を計ってみようか? う~む、今朝は、どうやって学校に行かせればいいんだろう? 

何だか、僕の頭が痛くなってきた。 

2013年01月19日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第13回】
『源氏物語』の暗記にチャレンジした受験生時代

英単語と英作文の参考書をすべて暗記してしまう

大学入試センター試験を間近に控えた今の時期。街では、受験生たちが背中を丸めて歩いている。

彼らの姿を目にするたびに、僕は、自分が大学受験に悪戦苦闘した昔のことを思い出してしまう。今にして思うと、そのときも、発達障害を抱える者ならではの苦労があった。 

僕が大学受験を意識し始めたのは、高校2年生も終わりに差しかかった頃だった。 

決して裕福とは言えない実家の経済状態を考えると、志望校は、地元の国立大学以外に考えられなかった。ところが、そこは、当時の僕の学力ではとても合格がおぼつかない"高嶺の花"だった。模擬試験を受けたとき、その大学に合格するのは非常に困難なレベルの低得点しか取れなかったのである。 

僕は落胆したが、くじけなかった。あれこれ考えた末、自分が持つ唯一の武器である、あの「フォトグラフィックメモリー」を駆使する勉強法を編み出した。そして、それを武器に、受験勉強に邁進しようと考えたのである。 

ただし、僕が考えたその勉強法は、後に同級生にその話をすると、「他の人間にはまったく参考にならないよ」と酷評された。今にして思うと、「他の人間」とは、「発達障害とは無縁の人間」という意味になるのだろうか。ただし、僕のように発達障害、それもASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える受験生には、ひょっとしたら参考になるかもしれない。 

以下、そのやり方を紹介していくが、仮に読者のどなたかが実際にやってみて受験に失敗したり、志望校に合格できなかったりしても、僕には一切責任は取れない。そのつもりで読んでください。 

当時、僕が目標にした大学の入試は、文系か理系かにかかわらず、数学、英語、国語が必須科目だった。そして、理系学部を志望する者は理科系科目(物理や化学など)から2科目を、文系学部を志望する者は社会系科目(日本史や世界史など)から2科目を選んで、受験することになっていた。 

このうち英語については、すぐに勉強法を確立することができた。まず、英単語と英作文の参考書をそれぞれ2冊ずつ購入する。そして、そこに出ている単語と例文をすべて覚えてしまう---。そんな作戦を考えたのだ。「俺のフォトグラフィックメモリーの力を駆使すれば、それくらいは問題なくできるはずだ」と、そのときの僕は確信していた。

ヒアリングがまったくできない理由

実際、英語の勉強はもくろみ通り、順調に進んだ。2冊分の英単語と2冊分の例文を、僕はすべて頭に焼きつけた。いつものように、参考書を数ページずつ集中してじっと見つめ、何度か音読を繰り返せばいいだけだったので、困難はなかった。 

ところが一つ、大きな問題が生じた。それは、センター試験の英語である程度の配点を占める「ヒアリング」(現在は「リスニング」と呼ぶらしい)だった。僕は、耳で聞いた英語を理解することが極端に苦手だったのである。 

英単語集の内容はすべて脳に焼きつけ、完璧に覚えていた。その範囲内であれば、どの単語を見ても、瞬時に意味を答えることができた。ところが、同じ単語でも、耳で聞いた場合は、なぜか完璧に覚えたはずのスペルも意味も思い出せない。そもそも、どんな単語なのかがまったく聞き取れず、把握できないことも多い。 

文章の聞き取りでも同じだった。「英語の文章を読むときは、記憶している例文と照らしてすぐに意味が把握できるのに、なぜ、聞くと何もわからないのだろう」と、我ながら不思議だった。 

先日、医師のカウンセリングを受けたとき、ふと、この大学受験当時のことを思い出し、打ち明けてみた。すると、医師からは意外な理由を指摘された。 

この連載の第6回「僕が絶対に記憶できないこと」でも述べたように、僕は好きな歌を聴いても、絶対に歌詞が覚えられない。英語のヒアリングをするときも、おそらく同じ症状が脳内で起きていただろうというのだ。 

僕の絶対的な記憶力も、その多くは視覚に頼るものだ。逆に、聴覚で情報を得てそれを記憶したり、視覚経由の情報に関連させたりする能力は、医師によると、平均よりかなり劣っているという。だから、参考書に出てくる単語の意味やスペル、例文などをどれだけ完璧に脳にプリントしても、耳で聞いた情報をそれらに結びつけることができなかったのだろう---。それが医師の説明だった。 

そう言われると、受験勉強の英語のヒアリングで、聞いた単語の意味が思い出せなかったときの苛立ちと焦燥は、さらにその前にも味わったような気がした。しばらく考えて、医師の前で「そうだ、あれだ!」と僕は膝を打った。 

中学時代、クラスメートとサザンオールスターズの『いとしのエリー』の話になり、ふと内心で、歌詞を思い出そうとしたことがあった。ところが、頭には一言半句も浮かび上がってこない。愕然として必死で記憶をたどったが、まったくの無駄だった。そのときの焦りまくった感覚とよく似ていたのだ。 

僕はしばらくの間、英語のテープを聞くなどの努力を重ねたが、一向に効果は上がらなかった。耳から入ってきた音声は、僕の中で何も形を結ばないのだ。 

今考えると、発達障害があるから仕方がないのかもしれないが、当時、そんなことはわからない。僕は結局、英語のヒアリング問題については諦めて、他の部分で少しでも点を稼ごうと決めたのである。 

とんでもない行動の意外な結果

それでも、英語はまだよかった。最大の難関は国語だった。 

これまでも述べてきたように、ASDを抱える僕は、他人の気持ちを理解するのが苦手(正確に言えば、ほとんど不可能)である。だから、現代文の試験で「このときの主人公の気持ちを○○字以内で述べよ」といった問題が出されると、お手上げになってしまう。 

目の前にいる人の気持ちさえわからない僕のような人間に、物語の登場人物の気持ちがわかるはずもない。だから、「誰々の気持ちを説明せよ」の類の問題にはお手上げになってしまう。何かうまい対処の方法はないものか・・・。 

そんなことに悩んでいたある日、僕に転機が訪れた。高校3年生の秋、マークシート形式の模擬試験を受けたときのことだ。 

国語の試験に対し、僕はまったくモチベーションが上がらなかった。問題はどれもちんぷんかんぷんで、選択肢のどれもが正しいように見えるものばかりだった。思わず、全部投げ出して帰りたくなったが、まだ終了までの時間は十分に余っていた。 

僕は「どうせ国語なんてわからねえんだ」と、次第に自暴自棄な気分になっていった。そして、今考えると、とんでもない行動に出た。すべての問題について、「これは正解ではないだろう」と考えた選択肢のマークシートを塗りつぶしていったのだ。

すると1ヵ月後、意外な結果が出た。何と、満点だったのだ。 

嘘だろうと思われるかもしれないが、誓って嘘ではない。とっくに試験結果の通知も捨ててしまい、今となっては証明する術がないのが残念だが、周囲の人間たちも、そして何よりも僕自身が「苦手な国語で満点!?」と仰天していたのだ。 

僕は、生まれて初めて経験する国語試験の全問正解という結果を前に、ある決意を固めていた。「本番もこの方法で行くしかない」と、やぶれかぶれで考えたのだ。「正解だと思えないものを選ぶ」というやり方なら、ただでさえ理解できない国語という科目を勉強する必要もない(漢字はもちろん、できる限り暗記していたが)。それが何より助かると考えた。 

ナンバープレートの数字で、すぐ計算式を作ってしまう

国語とは反対に、一つだけ、子供の頃から高校時代までずっと好きだった科目があった。数学である。 

数学が好きだった理由は簡単だ。数学ならば、教科書を見ても、参考書を見ても、そしてテストの問題を見ても、いたるところに「数字」が溢れていたからである。 

僕は物心ついた頃から、数字へのこだわりが強かった。前にも述べた、歌謡曲番組『ザ・ベストテン』の毎週の各種ランキングや、ギネスブックに載っている記録などは、一度だけ見れば、自然と数字が記憶に完璧に刷り込まれた。言葉や文章を暗記するときのように、「3回、大きな声を出して読む」という作業をする必要はなかった。 

また、小学校の低学年で四則演算をマスターした後は、街中で数字を見かけるたびに、自然と、頭の中でパズルのようなことを始めるようになった。車で家族旅行に行くときなど、僕はいつも両親に頼んで、助手席に座らせてもらった。前を走る車のナンバープレートを凝視するためだ。「ナンバープレートに並ぶ数字を、どのように足したり引いたり掛けたり割ったりすれば10になるか」を考えていたのだ。 

たとえば、今でも覚えているのが、僕たち家族の車の前に、ナンバープレートの上下に数字が「 330 7264」と並ぶ車が走っていたときのことだ。僕はゼロを使用せず、次のように計算して、答えを10にすることができた。

〔{3×3+(6÷2)}÷4〕+7=10

 

しょっちゅう同じようなことばかりやっていたのに、なぜこの計算だけを今もはっきり記憶しているのかというと、普段より短時間、確か数秒くらいでできたからである。実に気分が良く、一種の解放感に似た感覚が全身を駆け巡った。僕は当時、小学校2年生か3年生だったろうか。

子供時代の僕にとって、車に乗るときの楽しみは、スピードを出して高速道路を走ることでも、景色を眺めることでもなく、この計算だけだった。親に「富士山がきれいね」と言われても返事をせず、もちろん富士山には一瞬たりとも目をやらず、ずっと前の車のナンバープレートを見つめ、頭の中で一心不乱に計算式を作っていた。 

そして、その数字をすべて使って答えが10になる式が出来上がると、何とも言えない幸福感が訪れるのだった。両親は当時、助手席で何も喋らず、ときどきニヤニヤ笑っている僕を少し気味悪く思っていたようだが、本当に嬉しくてたまらなかったのだから仕方ない。 

制御不能な怒りがこみ上げてくるとき

中学校に入ってからは、四則演算に√(ルート=平方根)も加えて、車のナンバープレートの数字で計算式を考えるようになった。高校時代には、数字を見た途端、不足数(ある自然数で、その数自身を除いたすべての約数の和が元の数より小さいもの)なのか、過剰数(ある自然数で、その数自身を除いたすべての約数の和が元の数より大きいもの)なのかを考え始めるのが癖になった。ほとんど"数字中毒"というか、病みつきである。 

高校生になっても、相変わらず車の助手席に乗りたがった。ある日、当時小学校に入ったばかりの親戚の男の子が、僕たち一家の車に乗ったことがある。彼は助手席に座りたがったが、僕は「おい、そこは俺が座るんだよ!」と怒鳴りつけて強引に助手席に乗り込んだ。男の子はびっくりして泣きそうな表情になっていたが、僕は無視した。 

冷静に考えると、高校生が小学生を相手にやることではない。幼くみっともない行為だと批判されても仕方がない。もちろん、それは理屈では当時もわかっていた。 

しかし、他の車のナンバープレートを見られる楽しみが突然奪われると思うと、僕の中には制御不能な怒りがこみ上げてくるのだった。もし今、同じ状況に置かれたら、僕は今度こそ自分を抑えられるかどうか、自信がない。 

困ったのが、学生時代に運転免許を取り、自分で運転するようになった後だった。ハンドルを握りながら、どうしても前を走る車のナンバープレートばかりを見てしまう。しかし、あまりにも危険なので、「運転中は絶対に他の車のナンバープレートは見ない」と固く決意し、今も守っている。 

しかし、妻に運転を任せて自分が助手席に座っている間は、とにかく他の車のナンバープレートを見まくっている。まさに至福の時間である。街中を歩いていて横を車が通り過ぎると、やはり視線はすぐにナンバープレートに吸い寄せられ、頭の中で計算を始めてしまう。そんなとき、一緒に歩いている息子が話しかけてきても、完全に上の空だ。子供の頃と、やっていることがまったく変わっていない。 

数学の問題に取り組んで、正解を得る瞬間が僕は大好きだった。一つの問題を何時間も考えてたどり着いた、たった一つの正しい答え。国語の問題のような曖昧な答えなど、数学では絶対にあり得ない。 

数学で正解を発見したときの感覚は、たとえて言うと、まったく無駄な時間を使わずに移動できたときの気持ち良さに似ていた。駅の改札を抜けてホームに着いた瞬間、電車が入ってきて、待ち時間ゼロで乗り込むことができ、その後もすべてスムーズに乗り換えて、予定時刻にピタリと目的地に到着できたときの感覚---。あるいは、難解きわまりないジグソーパズルに挑戦して、最後のピースがはまったときの快感にも近かった。 

図形問題の解法を脳に焼きつけていく

ただし、数学についても、僕には一つ問題があった。 

 「数字」を分解したり、「数式」の性質を考えたりすることは好きだったが、「図形」の問題、いわゆる幾何にはさっぱり興味が持てなかったのだ。まぁ、図形の問題には数字があまり多く出てこないのだから仕方がない。

よく「数学が好き」と言うと、数学のどの分野もおしなべてできるように思われがちだが、そうとは限らない。僕のような例外もいるのだ。 

しかし、大学入試の数学に図形問題は必須である。そこで僕は、高校3年生の夏、やはり一つの決心をした。図書館で図形の問題集を借り、載っている解法をすべて暗記し、それらを組み合わせて問題を解いていこうと考えたのだ。「得意の記憶力を最大限に生かして、苦手分野の克服に乗り出そう」と決めたのである。 

僕の記憶力をもってすれば、解法をすべて記憶すること自体は可能だと思われた。困るのは、あまりにも時間がかかりすぎることだった。他の科目を勉強する時間が大きく圧迫されるのは間違いない。しかし、得点源の数学で良い点数を取るには、やるしかない勉強法だった。 

こうして、記憶力に全面的に頼る奇妙な受験勉強が始まった。 

僕は「思い切ってやるしかない」と腹をくくり、毎日、英単語や図形の証明問題などを大声で繰り返し暗唱し、どんどん脳に焼きつけていった。この作業は順調に進んだが、いかんせん時間がない。夏休みなど、それこそ早朝から深夜まで、ぶっ通しで暗唱と脳への刷り込みを続けた。

暗記には自信があった僕の脳も、酷使が過ぎ、さすがにパンクしそうになった。あるとき、1日に覚えられる記憶容量を超えてしまったのか、突然、熱が出て、何を読んでも頭に入らなくなった。母は笑いながら「本当に機械みたいな脳だね」と言って手当をしてくれた。翌日、熱が下がると、また以前のように、いろいろなことを記憶できるようになった。 

夏が終わり、秋も過ぎた頃、僕は英単語も英熟語も、英作文の例文も、数学の図形の証明問題の解法も、すべて覚えてしまった。しかし、模擬試験の成績は思うように上がらなかった。志望校の合格圏内まで、数十点ほど足りない状態が続いていた。 

僕の成績の足を引っ張るのは、いつも国語だった。選択問題では、「間違いだと思うものを選ぶ作戦」がある程度の成果を挙げていた。しかし、記述問題となると、もうお手上げだった。「○○字以内で述べよ」といった問題では、さっぱり点が稼げなかったのだ。 

古文や漢文はもっとひどかった。両方とも中学生の頃からまったく興味がなく、ろくに勉強したこともない。そのため、基礎的な知識が身についておらず、高校時代も「今さらやっても遅すぎる」と考えて、手もつけていなかった。誇張ではなく、古文も漢文も0点に近いレベル。もう、どうしていいかわからなかった。 

原文を見た瞬間、訳文がすらすら書けるレベルに

そんな高校3年生の冬のある日、同級生のMが僕にアドバイスしてくれた。Mは中学生の頃、僕のフォトグラフィックメモリーの力(第5回参照)を目の当たりにして驚いたクラスメートの1人で、その後、同じ高校に進学していたのである。 

お前の志望校って、入試によく『源氏物語』を出すだろ。だから源氏物語に絞って、原文と現代語訳を覚えたらどうかと思ってさ。お前ならできるんじゃないか」  「奥村、お前はいつも『古文が全然できねえ』って言ってるけど、暗記力がすごいんだから、それを使ってみたらどうだ?

Mの話を聞いた僕は、「なるほど、その手はあるかもしれない」と考えた。さっそく過去問を見てみると、確かに僕の志望校は、過去10年のうち8回、古文に源氏物語から出題していた。しかも、訳文さえ知っていれば解ける問題が多い。 

これなら、自分にとって最大の武器であるフォトグラフィックメモリーが使えるかもしれない---。僕は、Mが提案してくれた作戦に乗ってみようと覚悟を決めた。 

さっそく翌日、源氏物語の参考書(原文と訳文が両方載っているもの)を一冊購入し、自室にこもって一心不乱に覚え始めた。いつものように、大声での暗唱と記憶への刷り込みを繰り返したのである。 

ただし、源氏物語と言っても、あの長大なストーリーの全編が参考書に載っていたわけではない。大学入試に出題されることの多い箇所を選び出し、編集したものだ。それでも参考書は、400ページというかなりの分量だった。 

年が明けるとすぐに本番という時期で、もう時間がなかった。僕は年末年始のほとんどを使い、ひたすら源氏物語の原文と訳文を同時に覚えていった。 

そして、ようやく入試当日の1週間前、400ページの分厚い参考書に左右対訳形式で記された原文と訳文を、すべて覚えることに成功したのである。原文を見ただけで、瞬時に訳文がすらすら書けるレベルにまでなっていた。 

ただし、僕には大きな心配事があった。本番の試験で源氏物語が出なければ、それまでの努力は無駄になり、古文は0点かそれに近い低得点に終わってしまう。また、仮に源氏物語が出題されても、参考書に収録されていない箇所だったら一巻の終わり。しかし、「そうなったらもう仕方がない」と割り切るしかなかった。 

最も空気を読まねばならない場での問題発言

入試の当日になった。 

最初の科目は国語だった。「始め!」の合図と共に問題用紙を開いた僕は、真っ先に古文の問題を見た。次の瞬間、「よしっ!」と机の下で小さくガッツポーズをした。 

出題されていたのは源氏物語。しかも、訳文を丸暗記した「藤壺」のくだりだった。原文も完全に覚えていたので、現代語訳を書けという問題だけでなく、「カッコに入る文字を書きなさい」といった問題にも対応できた。たぶん、古文は満点に違いなかった。 

漢文はあまりできなかった。現代文の結果は皆目見当がつかなかったが、選択問題はいつものように「正解ではないと思うものを選ぶ」というやり方ですませた。 

こうして、国語の試験は終了した。古文で満点を取った分、模試のときに比べて国語の点数は高いはずだった。 

僕は十分すぎる手応えをつかみ、弾んだ気分で休憩に入った。ロビーに行くと、高校の同学年の連中が5人いて、何やらヒソヒソと話していた。「よう!」と挨拶してその輪に入ってみると、試験の当日だというのに、話題は当たり障りのないことばかりだった。

誰も、直前に行われた国語の試験の話をしていない。後で聞いたところ、終えたばかりの試験の話をしているうちに、もし自分の間違いがわかったら、ショックでその後の試験に悪影響が及ぶからだという。 

しかし僕は、同期生たちのそんな心理にまったく気づかなかった。それどころか、彼らを前に、いかに古文の問題ができたかを滔々と喋り始めてしまったのだ。 

すげえラッキーだったぜ。国語が苦手な俺でもできた。たぶん完璧だと思うよ。よかった~」  「源氏物語だったな。実はさ、源氏物語で俺が暗記した場所が丸ごと出たんだよ!

僕が国語を苦手にしているのは、その場の全員が知っている。彼らは同時に表情をサッと変えた。空気を読めないASDの特徴が、入試という、皆が非常に神経質になっていて最も空気を読まなければならない場で、図らずも出てしまったのだ。 

「お前、俺に恨みでもあるのか?」

隣のFという男が「古文の問題、易しかったかな」と、憮然として呟いた。ふくれっ面になって、「それ以上何も話すな」と言いたげに僕を睨み付けてくる男もいた。でも、僕は自分を止められなかった。「最初の問題の答えはさあ・・・」という具合に、正解をすべて話してしまったのだ。 

騒々しい僕とは対照的に、皆、むっつりと黙り込み、1人、また1人とその場を去っていった。僕は「みんな元気ないな。緊張してるのかな」と思ったくらいで、彼らの気持ちには一向に無頓着なまま、最後の1人が去るまでぺらぺらと喋り続けた。 

数日後、学校に行くと、Fが寄ってきてこう言った。 

 「最初の国語の後、お前にあれだけショックを与えられたから、後は試験にならなかったよ。お前、俺に恨みでもあるのか?」

びっくりした僕は「何のこと?」と聞き返そうとしたが、Fは僕をギロリと睨むと、後は何も言わずに立ち去った。結局、彼は志望校に落ち、浪人したと聞いたが、その後の消息はわからない。もし今後、Fと再会するようなことがあったら、とにかく「あのときは申し訳なかった」と謝りたい。 

1ヵ月後---。自分で考えた勉強法のおかげで、何とか志望した地元の国立大学に合格した僕は、入学式に出席していた。

見知らぬ大勢の新入生と一緒にいて、僕はかなり緊張していた。気がかりは、これからの人間関係だった。見ず知らずの連中を相手に、「人間関係の構築」という、苦手で嫌いなことを一から始めなければならない。他人の顔色を窺い、また「いい人」を必死で演じながら日常生活を送るのは、これまで以上に大変なことのように思えた。 

ところが大学生活が始まってみると、そんな不安は瞬く間に吹っ飛んでしまった。なぜなら大学には、僕と同じ、「他人の気持ちがわからない人間」や「空気を読めない人間」が何人もいたからだ。今思うと、彼らがASDなどの発達障害を抱えていたのはおそらく間違いないと思う。言動を振り返ると、そうとしか考えられないのだ。 

彼らは周囲の目を気にせず、日々、自由気ままに過ごしていた。そういう者が何人かいるだけで、同種の人間である僕にとって、大学はストレスをまったく感じなくてすむ"パラダイス"になった。そんな仲間たちのことは、また回を改めて紹介していこう。 

2013年01月26日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第14回】
「君はバカ? それとも天才?」と聞かれて

嫌われたくなくて、無理に笑顔を作った大学生活

大学に入学してから、僕は「周囲から嫌われること」を心底恐れていた。高校時代と同じである。 

この連載の第11回で述べたように、僕は高校1年のときに、発達障害を持つ者に特有の言動のせいで、クラスメートたちから徹底的に嫌われるという経験をしていた。本当に偶然、周囲が僕に嫌悪の感情を向けていることを知ったのだ。そのときに受けた大きな衝撃は、3年近く経っても、深く、つらく心に残っていた。

高校ではその後、人に嫌われないような言動を必死で「学習」し、何とか"いい奴"を演じ続けることができた。しかし、人生は高校で終わりではない。僕は内心、「大学でも"いい奴"を演じなければならない。もう絶対に嫌われたくない」と固く決心していた。 

入学式が終わり、大学生活が始まった。 

僕は、周囲(新しい同級生たち)とのコミュニケーションの取り方を「ニコニコ笑っていること」だけに限定した。自分からは決して他人に話しかけず、逆に誰かから話しかけられても、ほとんど何も答えずに、ただ微笑してウンウンと相槌を打っていた。 

 「余計なことを口にして、クラスメートの間に波風を立てないようにしよう」ということばかりを考えていたのだ。いつも無理に笑顔を作っていたので、顔の筋肉がよく痛くなった。

基本的に毎日、僕は授業を受けるだけで自宅に直帰した。ただし、授業と授業の間の休憩時間には、新しい同級生たちがどんな言動を嫌うのか、あるいはどんな言動を好むのか、注意深く観察を続けた。"いい奴"を演じるために、大学における人間関係のルールを知っておこうと思ったのだ。 

その結果、わかったのは、高校でも大学でも、そのルールはあまり変わらないということだった。 

 「他人とのコミュニケーションにおいては、絶対に本当のことを言ってはいけない場合がある」「特に、他人の言動に対する評価では、本当の感想は言わない方がいい」「他人が自分にしてくれたことには、仮に欠点や不十分な点があっても決して指摘せず、『ありがとう』と感謝の言葉だけを述べておけばいい」「自分の成し遂げたことに対する自己評価も、黙っていた方がいい」・・・

どれも、高校時代に必死に「発見」し、「学習」したことだ。それがわかってようやく、僕は周囲と新入生仲間と少しだけ会話ができるようになったのである。

僕は、仲間とサークル活動を楽しむことができない

しかし、ゴールデンウィークが終わり、初夏が到来すると、新たな同級生たちはすっかり大学生活に慣れ、サークルや運動部に入って、そこを"居場所"にするようになった。新入生の大半が、サークルや運動部で気の合う友達を作り、日々の暮らしの軸をそちらに移してしまったのだ。 

僕はサークルにも体育会にも入らなかった。クラスでも友達を作るこ